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 カンゾー先生 

「カンゾー先生」の画像です

1998年作品。日本映画。122分。配給=東映。監督=今村昌平。原作=坂口安吾。脚本=今村昌平、天願大介。音楽=山下洋輔、栗山和樹。撮影=小笠原茂。照明=山川英明。美術=稲垣尚夫。編集=岡安肇。赤城風雨=柄本明、万波ソノ子=麻生久美子、万波銀=清水美砂、フサ子=裕木奈江、梅本=唐十郎、鳥海=世良公則、トミ子=松坂慶子、池田中佐=伊武雅刀、野坂大尉=田口トモロヲ、ピート=ジャック・ガンブラン

 前作の「うなぎ」は、多くの評論家が酷評するほど出来が悪いとは思わないが、新作「カンゾー先生」は往年の今村ティストに満ちた「重喜劇」だ。町医者、漁師の娘、住職、オランダ人捕虜などなど、人物配置がいい。登場人物それぞれの個性が、実に分かりやすく整理されている。そして、次第に重くなるテーマを山下洋輔のジャズが包んでバランスを保つ。だから腹にもたれない。やはり「うなぎ」より「レバー」か。

 万波ソノ子役の麻生久美子は、はつらつとして太々しく、この作品を晴々とさせている。文字通り期待の新人といえるだろう。「カンゾー先生」役の柄本明も、いかがわしさと一途さを兼ね備えたキャラクターを演じ、飄々とした中に狂気を忍び込ませることに成功している。肝臓に込められた情念は、ラストで広島の原子爆弾にまでたどり着くが、戦争批判の言葉よりも、原子雲を「肥大する肝臓」と受け止めた方が、隠喩としてのインパクトがあったのではないか。


「河」の画像です

 河 

1997年作品。台湾映画。115分。配給=ユーロスペース。監督ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)。脚本ツァイ・ミンリャン、ヤン・ピーイン、ツァイ・イーチュン。製作チャン・フーピン。撮影リャオ・ペンロン。編集チェン・シェンチャン、ライ・チェンチン。美術リー・パオリン。照明ワン・シェン。シャオカン=リー・カンション、父親=ミャオ・ティエン、母親=ルー・シアオリン、サウナの若い男=チェン・チャオロン、シャオカンの女友だち=チェン・シアンチー、監督=アン・ホイ、ホテルの隣部屋に来た女=ヤン・クイメイ

 台北の寒々とした都市空間を背景に、親子3人のかい離と孤独を淡々と描いている。極めて地域的で日常的なドラマが、やがて現代の悲しみ、苦しみを象徴し始める。汚れきった河、大量の雨漏りといった水の多彩な表情とともに、くすんだ映像は人間の深部を照らし出す。その手法はベルイマンら北欧の映画を思わせるほどだ。ツァイ・ミンリャンは、監督個人の体験を折り込みながら世界に通じる作品を生んだ。

 息子と父親のセクシャリティは揺れている。息子は前半で女友だちとセックスながら、後半ではゲイ・サウナにやってくる。父親はまがりなりにも夫婦関係を維持しながらゲイ・サウナで孤独を癒している。心が離れていた息子と父親がゲイ・サウナで親子とは知らずに暗闇の中で抱き合うシーンは、グロテスクというよりは孤独な魂が互いを慈しみあう深い美しさに満ちていた。父親が流す涙にしみ込んださまざまな感情。固有のセクシャリティと身体を持つ個に戻らなければ、現代の家族は出会うことができないというメッセージに、全身が揺さぶられた。


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 THE SWEET  

 HEREAFTER 

「スウィート・ヒアアフター」の画像です

1997年作品。カナダ映画。110分。配給=KUZUI エンタープライズ。 監督・製作・脚本=アトム・エゴヤン(Atom Egoyan)。製作=カメリア・フリーバーグ。原作=ラッセル・バンクス。音楽=マイケル・ダンナ。 撮影=ポール・サロシー。ミッチェル・スティーブンス=イアン・ホルム、ゾーイ・スティーブンス=カーサン・バンクス、ニコール・バーネル=サラ・ポーリー、サム・バーネル=トム・マッカムス、ドロレス・ドリスコル=ガブリエル・ローズ、ビリー・アンセン=ブルース・グリーンウッド、リサ・ウォーカー=アルベルタ・ワトソン

 エロティシズムとともに深い悲しみと戸惑いに染まっていた「エキゾチカ」に続くアトム・エゴヤン監督の新作。前作のような派手さはないが、より深く刺さってくる。1997年カンヌ映画祭グランプリ受賞。楽しい作品ではなく、救いがあるわけでもない。しかし観終ってから、長い時間あれこれと考えさせる力を持った佳品だ。

 スクールバスが凍り付いた川に沈み子供たち21人が死亡するという痛ましい事故の後、薬物中毒の娘を持つ弁護士が被害者の親たちに会い訴訟を起こすように勧めるところから物語は始まる。しかし訴訟の動きは、生き残った少女の嘘の証言によって止められる。それは父親と近親相姦関係にある少女の屈折した思いによる行動だったが、結局は金銭関係が問題なる訴訟に対する住民の違和感も代弁している。ハリウッド映画なら真相を解明する正義の見方になるだろう弁護士を、家族関係で悩みつつ被害者を利用しようとする屈折した人物として描いたところに監督の時代批評を感じた。


「スピーシーズ2」の画像です

 SPECIES 2 

1998年作品。93分/アメリカMGM映画。配給=UIP。監督ピーター・メダック(Peter Medak)。製作フランク・マンキューソ Jr.。脚本クリス・ブランケイト。撮影マシュー・F・レオネティ,A.S.C.。音楽エドワード・シアマー。特種メイク効果 スティーブ・ジョンソン。スピーシーズ・デザイン= H・R・ギーガー 。イヴ=ナターシャ・ヘンストリッジ(Natasha Henstridge)、レノックス= マイケル・マドセン、ローラ・ベイカー=マーグ・ヘルゲンバーガー、パトリック・ロス=ジャスティン・ラザード、デニス・ギャンブル=ミケルティ・ウィリアムソン、ロスの父 =ジェームズ・クロムウェル

 エロティックなB級SFの続編。芸がなさ過ぎた前作「スピーシーズ」(ロジャー・ドナルドソン監督)に比べて、今回はグロテスクさが加わり、かなり楽しめた。まずスピーシーズ自体のデザインと映像処理が格段に良くなった。スピーシーズの絡みもなかなかに見せてくれる。安易な導入部や「なんで生まれてきた子供が服着ているの?」などという不自然な細部にはこだわらず、あふれる血の海で遊ぶといい。

 今回のナターシャ・ヘンストリッジは、人間化されたスピーシーズ・イヴ役。いわば今流行りのハイブリッドだ。前作ではほとんど感情がないシル役で無慈悲に殺されてしまったが、クローンとして再生したイヴは感情があり人間的な振る舞いをみせる。その分彼女の魅力も倍加している。「エイリアン」のシガーニー・ウィーバーのように、「3」「4」と出続けることになるのだろうか。


 ねじ式 

「NEJI-SHIKI ねじ式」の画像です

1998年作品。日本映画。85分。配給=ビターズ・エンド。監督・脚本・プロデューサー=石井輝男。原作=つげ義春。 撮影=角井孝博。編集=神谷信武。美術=松浦孝行。音楽=瀬川憲一。製作=小林桂子。漫画家ツベ=浅野忠信、国子=藤谷美紀、看護婦=藤森夕子、木本=金山一彦、もっきり屋の少女=つぐみ、やなぎ屋の娘=藤田むつみ、ヌードの女=青葉みか、女医=水木薫、ロイド眼鏡の男=原マスミ、家主=丹波哲郎、金太郎アメ売り=清川虹子

 つげ義春の「別離」「もっきり屋の少女」「やなぎや主人」「ねじ式」の4話で構成。つながりが自然で巧み。しかし冒頭からアスベスト館の禍々しい暗黒舞踏を見せつけられ、既成観念が粉々になった。そう、この作品はつげ義春の世界を換骨奪胎し、完全に石井輝男監督の世界に作り替えている。前作「ゲンセンカン主人」にあった迷いが消えていた。大胆不敵なまでの思いきりの良さだ。しかも、つげ義春への敬愛の思いが遍在している。こういう試みこそ、オマージュと呼ぶにふさわしいのだろう。

 国子(藤谷美紀)、看護婦(藤森夕子)、もっきり屋の少女(つぐみ)、やなぎ屋の娘(藤田むつみ)、ヌードの女(青葉みか)、女医(水木薫)。女性たちがいい。それぞれ魅力的で華やかさを持っている。ツベ役の浅野忠信は、青春の鬱屈を演じながら持ち前の透明感を失わず、ねちっこいエロスが充満する石井ワールドの中で不思議なバランスを保っていた。


「愛を乞うひと」の画像です

 愛を乞うひと 

 1998年作品。日本映画。135分。配給=東宝。平山秀幸監督作品。 原作=下田治美。脚本=鄭義信。製作=藤峰貞利、高井英幸、阿部忠道。撮影=柴崎幸三。照明=上田なりゆき。美術=中澤克巳。録音=宮本久幸。編集=川島章正。音楽=千住明。 山岡照恵、豊子=原田美枝子、陳文雄=中井貴一、山岡深草=野波麻帆、王東谷=小日向文世、王はつ=熊谷真実、和知三郎=國村隼、和知武則=うじきつよし

 幼児虐待という重苦しいテーマだが、それをアジアの方に突き抜けることで、後味の良い作品にまとめあげている。一人二役の原田美枝子の「濃い」演技は賞賛に値する。感情の起伏がすさまじい豊子にリアリティを与えることができるのは、彼女くらいかもしれない。そして豊子と照恵が出会うシーンでの沈黙が胸にこたえた。

 山岡深草役の野波麻帆が終始はつらつとした演技で、沈みがちなストーリーを救っていた。芯の強さと可愛らしさが共存し、今後が楽しみな女優だ。照恵役の子役もみな熱演していた。とりわけ、幼年期・照恵役の小井沼愛のやつれた表情が忘れられない。


 Mrs.Dalloway 

「ダロウェイ夫人」の画像です

1997年作品。イギリス・オランダ合作。97分。 監督=マルレーン・ゴリス(Marleen Gorris)。原作=ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)。脚本=アイリーン・アトキンス。制作総指揮=クリス・J・ボールウイリアム・タイラー、 サイモン・カーティス、ビル・シェパード。制作=リサ・カテセラス・パレ、ステファン・ベイリー。共同制作=ハンス・デ・ウェールス。 撮影監督 =スー・ギブソン。編集=ミヒャエル・ライヒヴァイン。衣装=ジュディー・ぺッパー・ダイン。美術監督=デイヴィッド・リチェンズ。 音楽=イロナ・セカス。クラリッサ・ダロウェイ夫人= ヴァネッサ・レッドグレイブ (Vanessa Redgrave)、若きクラリッサ =ナターシャ・マッケルホーン(Natascha McElhone)、セプティマス・ウォレン・スミス =ルパート・グレイヴズ、 ピーター・ウォルシュ=マイケル・キッチン、若きピーター =アラン・コックス、ロセター卿(サリー・シートン) =サラ・バデル、 若きサリー=リナ・へディー、ルクレティア・ウォレンスミス=アメリア・ブルモア、ヒュー・ウィットブレット =オリバー・フォード・ディヴィース、 若きヒュー=ハル・クラッテンデン、エリザベス・ダロウェイ=ケィティー・カー、ミス・キルマン =セリナ・カデル、リチャード・ダロウェイ=ジョン・スタンディング、 若きリチャード =ロバート・ポータル

 マルレーン・ゴリス監督は、女性の生き方を真摯に模索する。「アントニア」が大地に根ざして奔放に生きる女性を寓話的に描いたのに対し、新作は若い時に社会変革の理想に燃えながら代議士の妻として初老を迎えた女性の静かな葛藤を描いている。時代の雰囲気を醸し出す丁寧な美術は見事だ。会話も実に含蓄がある。

 一見華麗に見えるが、物語の背景にあるのは第一次世界大戦の悲惨さだ。冒頭の戦場の場面から、ダロウェイ夫人の「いたずらな神々の鼻をぐじいてやろう。事あるごとに人間を苦しめ、足を引っ張ろうとする神々」という独白につながり、その後はセプティマス・ウォレン・スミスの苦悩につながっていく。そこが見えないと最後の独白の切実さが伝わらないだろう。


「ヴィゴ」の画像です

 Vigo 

1998年作品。イギリス・フランス映画。104分。配給=アミューズ。監督=ジュリアン・テンプル(Julien Temple)。原作=クリス・ワード。脚本=ピーター・エッテドグィ、アン・デヴリン、ジュリアン・テンプル。製作=アマンダ・テンプル、ジェレミー・ボルト。撮影=ジョン・マシソン。編集=マリー・テレーズ・ボワシェ。音楽=ビンヘン・メンディサバル。美術=カロリーヌ・グレヴィル・モリス。衣装=ロジャー・バートン。ジャン・ヴィゴ=ジェイムズ・フレイン、リデュ・ロジンスカ=ロマーヌ・ポーランジェ、ボナヴェンチュール=ジム・カーター、エミリー=ダイアナ・クイック、マルセル=ウィリアム・スコット・マッソン、オスカル・レヴィ=リー・ロス、ボリス・カウフマン=ニコラス・ヒュイットソン、モーリス・ジョーベール=ブライアン・シェリー、マリー=パオラ・ディオニゾッティ、ヌネーズ=フランク・ラザラス

 4本の映画を残し、29才でこの世を去った映像の魔術師、ジャン・ヴィゴの自伝的な作品。「アタラント号」を観たことがある人なら、彼の映像がいかにすばらしいものか、よく分かってもらえるだろう。彼はアナーキストの父親アルメレイダの子として生まれてつらい少年時代を過ごし、映画を製作しても父の名前が災いして上映許可が下りない。同じくアナーキストの両親を持った伊藤ルイさんの「ルイズ その旅立ち」を思い出した。物語は彼の苦悩とサナトリウムで出会った女性リデュとの愛の日々をつづっていく。

 監督のジュリアン・テンプルは、ロック系のビデオクリップを撮ってきただけに構図と切り替えがシャープ。しかしストーリーは、べたべたして切れ味を欠いていた。リデュ役のロマーヌ・ポーランジェは相変わらずの派手な演技。結核患者につきまとうイメージを打ち壊した事は評価するが(やや皮肉)、ヴィゴが死んだラストシーンであんな風に取り乱す演技は、かえって切ない悲しみを損ねてしまう。


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 Visitorssince98.10.05