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ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭98報告


 

 THE GAME 

「ゲーム」の画像です
1997年。アメリカ映画。128分。ギャガ・ヒューマックス共同配給。監督デビッド・フィンチャー(David Fincher)。脚本ジョン・プランケート&マイケル・フェリス。撮影監督ハリス・サビデス。美術ジェフリー・ビークロフト。編集ジェームス・ヘイグッド。衣装デザイン=マイケル・カプラン。音楽ハワード・ショア。ニコラス・ヴァン・オートン=マイケル・ダグラス、コンラッド=ショーン・ペン、クリスティーン=デボラ・カーラ・アンガー、ジム・ファインゴールド=ジェームス・レブホーン

 先が読めない。伏線がないまま、ストーリーが二転三転する。さんざん弄ばれた挙句の「結末」。肩すかしの大きさは近年まれに見るものがあった。このお祭り騒ぎを楽しめない自分を責めるべきなのだろうか。素直に豪華で派手なハリウッド映画的な無内容さを味わい、「あーっ、面白かった」と言って、さっさと忘れてしまうべきなのかもしれない。

 しかし、この展開がすべて計画されたゲームだとしたら、その経費は「タイタニック」を上回るのではないか。さらに明らかに市街で実弾を使っているのは、近所迷惑もはなはだしいと思う。大金持ちの「誕生日プレゼント」に巻き込まれた者はたまったものではない。いいかげんにしてほしい。最後は怒りにも似た感情に支配された。

 核にあるはずの父親の自殺というトラウマも流行のレベルを脱していない。お金はかけているものの作りが雑で重さが感じられないので、ゲームというオチも生きてこない。人生は辛いが、所詮根拠の無いゲームだ、と思わせるような粋な味わいをフィンチャー監督に期待するほうが無理か。「セブン」のように映像だけを楽しむということもできなかった。


「モハメド・アリ かけがえのない日々」の画像です 

 MUHAMMAD ALI 

 WHEN WE WERE KINGS 

1997年作品。アメリカ映画。配給アスミック。監督レオン・ギャスト(Leon Gast)。製作総指揮ディヴィッド・ソネンバーグ。スティール・フォトグラファー=ハワード・ビンガム。出演=モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン、ドン・キング、ジェームス・ブラウン、B.B.キング、モブツ・セセ・セコ・ザイール元大統領、スパイク・リー、ノーマン・メイラー

  レオン・ギャスト監督は、当初ボクシングの試合に合わせて開かれた音楽フェスティバルの映画を撮るつもりだった。ジェームス・ブラウン、B.B.キングら、そうそうたるメンバーが集まった。アフリカ版のウッドストック。しかしジョージ・フォアマンの負傷により試合が延期されたため、その間モハメド・アリの映像をたくさん撮り、構想は大きく変更されていく。資金不足と闘いながら22年間かけて編集されたドキュメンタリーは、歴史的かつ象徴的な試合を核に据えながら、アリの多面性を見事に浮かび上がらせている。絶妙な距離感だ。

 コンサートとアリの映像を観ていくうちに、アリのノリが「ラップ」だと気づいた。人種差別への怒り、タイトルを投げうって徴兵を拒否した反戦の姿勢、自慢話に込められた社会批判というアリのスタイルが見えてきた。彼は試合だけでなく、社会に対しても「蝶のように舞い、蜂のように刺し」続けてきたのだ。最後に紹介されたアリの短い詩「俺、俺たち」は、締めくくりにふさわしかった。考えてみると、この30年間私達はこの両者の関係をめぐって模索してきたのだから。


「リング」の画像です 

 リング 

1998年作品。日本映画。配給=東宝。監督=中田秀夫。原作=鈴木光司。脚本=高橋洋。撮影= 林淳一郎。美術=斎藤岩男。音楽=川井憲次。編集=高橋信之。浅川玲子=松嶋菜々子、高山竜司=真田広之、高野舞=中谷美紀、大石智子=竹内結子、雅美=佐藤仁美、山村敬=沼田曜一

 実際にビデオを観た女子高生が死ぬシーンから始まるという導入のほか、主人公を女性にしたり、人間関係を組み替えるなど、中田秀夫監督は、原作を思いきって変奏している。貞子の顔もあえて明らかにせず、両性具有という点も切り捨て、ホラーとしての純化を図った。

 ノイズを取り入れた音楽を生かし、巧みに気配を吹き込む。緊張が静かに高まっていく。「女優霊」でみせた恐怖を盛り上げる手さばきに、さらに磨きがかかった。劇場で観客の悲鳴を聞いたのは久しぶりのこと。それだけで監督の狙いは達成されたといっていいだろう。

 ただ、お笑い一歩手前のおおげさな死者の形相や呪われた人の写真の顔が歪んでいるという演出はやり過ぎ。また肝心の呪いビデオ映像は、やや軽すぎる。宮崎勤の指差しシーンを取り込んだのもいただけない。ビデオ映像はTV版の方がおどろおどろしくて怖かった。


 

 らせん 

「らせん」の画像です
1998年作品。日本映画。配給=東宝。監督・脚本=飯田譲治。原作=鈴木光司。撮影=渡部真。美術=斎藤岩男。音楽=LAFINCA。編集=阿部浩英。安藤満男=佐藤浩市、高山竜司=真田広之、高野舞=中谷美紀、山村貞子=佐伯日菜子、宮下=鶴見辰吾、デパートの父親=鈴木光司

 「リング」から新しい謎が手渡される。司法解剖された高山竜司が、内臓を失ったまま起き上がる幻想シーンは、なかなかのインパクト。助かったはずの浅川親子の突然の死も衝撃的。しかし始まりのテンションが次第に低下し、中だるみし始める。限られた予算の中で原作にとらわれすぎたことが大きい。この点では、中田秀夫監督の判断がまさっていた。

 高野舞役の中谷美紀は幅の広い演技をみせた。一言も台詞がない貞子役の佐伯日菜子も、妖艶ささえ漂わせる女優に成長した。わが子を海難事故で失った安藤満男役の佐藤浩市は、そこそこの水準だが、実際の事故のシーンが具体的に描かれていないので十分に無念さが伝わってこない。

 貞子の復活後、ストーリー運びが軽くなり、一気に人類の進化につながってしまったのは、いかにも飯田監督らしいが、水辺のシーンの絵画のオチは、単純すぎて白けさせる。結末も、貞子の思いが乗り移った小説を刊行するというのではなく、映画をつくるという設定の方が良かったのではないか。


「死にたいほどの夜」の画像です 

 死にたいほどの夜 

 The Last Time 
 I Committed Suicide 

1997年作品 。93分。アメリカ映画。配給ケイエスエス。製作ルイース・ローズナー。監督・脚本スティーブン・ケイ(Stephen Kay) 。原作ニール・キャサディ。編集ドリアン・ハリス。撮影ボビー・ブコウスキー。ニール・キャサディ=トーマス・ジェーン、ハリー=キアヌ・リーブス、ジョアン=クレア・フォーラニ、チェリー・メリー=グレッチェン・モル

 希望と不安の間を揺れながら、刹那的に生きるニール・キャサディを、チャ−ルズ・ミンガスらの熱い演奏で包みながら、しかし淡々と描いたスティーブン・ケイ監督の第1回作品。ニール・キャサディは、ジャック・ケルアック著「路上」に登場するディーン・モリアーティのモデル。バロウズらビートニクスに多大なる影響を与え、ヒッピーの教祖的存在だった。その彼を等身大で描くことが、監督の狙いだったのだろう。短い生涯を放浪した悩みの深さよりも軽快な気ままさが印象に残った。

 脇役に徹したキアヌ・リーブスの無様な悪友ぶりの演技が光る。自殺未遂するジョアン役クレア・フォーラニの脆さと気品の得難い個性にも引き付けられた。そしてグレッチェン・モルの特筆すべき可憐でコケティッシュな魅力に私も溺れかけた。「小悪魔的」と表現できる女優の出現は、久しぶりだ。その3人の間をさまよう30代の悪ガキ・ニール・キャサディ像を、トーマス・ジェーンは力むことなくまとめた。しかし、それが彼の地なのか、それとも演技なのか、最後までつかめなかった。それもまた才能だろう。


「タイタニック」の画像です 

 TAITANIC 

1997年作品 。194分。アメリカ映画。配給=20世紀フォックス映画。監督・脚本ジェームズ・キャメロン(James Cameron)。製作ジェームズ・キャメロン、ジョン・ランドー。撮影ラッセル・カーペーンター。衣装デボラ・L・スコット、音楽ジェームズ・ホーナー。ジャック・ドーソン=レオナルド・ディカプリオ(Leonardo Dicaprio)、ローズ・デヴィット・ブカター=ケイト・ウィンスレット(Kate Winslet)、キャル・ホックリー=ビリー・ゼーン、モリー・ブラウン=キャシー・ベイツ、ブロック・ラベット=ビル・パクストン、ローズ・カルバート=グロリア・スチュアート、ルース・デウィット・プカター=フランシス・フィッシャー

 何という厚みのある演出だろう。240億円の巨費を投じた映画にふさわしい、手応えがズシリと残る大作。ジェームズ・キャメロン監督は、タイタニック号を再現しCGを最少限に抑えることで、船内パーティの華麗な雰囲気と臨場感ある沈没のクライマックスシーンを、観客に「体験」させることに成功している。ディカプリオとウィンスレットのみずみずしい恋愛を軸にしながら、さまざまな階層、立場の人々を的確に描く目配りのよさに監督の度量を感じた。

 タイタニック号の沈没は、さまざまな象徴としての意味を持つ歴史的な事件だが、その意味を実感するには、そこにいた2千数百人の人間の生き様を多角的に浮かび上がらせることが必要だ。石炭を燃やす過酷な環境の労働者、自由を夢見て乗り込んだ3等乗客から、上流階級の乗る1等客室へとキャメロンの目線はきめ細かく注がれる。そのため、沈没という危機に面した時の一人ひとりの切実さが伝わってくる。観終わって、歴史に立ち合ったような感慨を覚えた。


 

 PONETTE 

「ポネット」の画像です
1996年作品 。99分。フランス映画。配給=エース・ピクチャーズ。監督・脚本ジャック・ドワイヨン(Jacques Doillon)。製作アラン・サンド。撮影カロリーヌ・シャンプティエ。編集ジャクリーヌ・ルコント。音楽フィリップ・サンド。美術アンリ・ベルトン。ポネット=ヴィクトワール・ティヴィゾル、デルフィーヌ=デルフィーヌ・シルツ、マチアス=マチアス・ビュュロー・カトン、アダ=レオポルディーヌ・セール、ママ=マリー・トランティニャン、パパ=グザヴィエ・ボーヴォワ、伯母さん=クレール・ヌブー

 4歳の演技なので、ドキュメンタリー的な手法か、部分的な出演かと思っていたが、最初から最後まで物語に合わせて膨大な会話をこなし巧みに演技していたので、驚いた。交通事故で突然母親を失ったポネットは、周りの大人や子どもたちとかかわりながら、死と生を理解していく。いじめっ子に「ママが死ぬってことは、子どもが悪い子だからだ」と言われ、「あたし、死にたい」と涙するシーンでは、もらい泣きさせられた。1996年ヴェネチア国際映画祭主演女優賞受賞は、当然の結果だ。

 ポネットがどのようにして母親の死を受け入れるのか、注目していた。しかし、墓地で唐突に母親が現われ、浮遊している死者の思い出をつかまえる展開には失望した。安易な結末だ。ポネットに向かって話す「楽しむことを学ぶのよ」という言葉も、母親が4歳の子どもにする表現とは思えない。ヴィクトワール・ティヴィゾルの名演技に沿った、自然な受容のスタイルがあったはずだ。


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