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 NADIE 
 HABLARA 
 DE 
 NOSOTRAS 
 CUANDO 
 HAYAMOS 
 MUERTO 

「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」の画像です
1995年作品 。スペイン映画。104分。監督・脚本アグスティン・ディアス・ヤネス。製作エドムンド・ヒル・カサス。撮影監督パコ・フェメニア。編集ホセ・サルセド。音楽ベルナルド・ボネッツィ。美術監督ベンハミル・フェルナンデス。衣装ホセ・マリア・デ・コシオ。製作指揮・助監督ホセ・ルイス・エスコラル。グロリア・ドゥケ=ビクトリア・アブリル、エドゥアルド=フェデリコ・ルッピ、ドニャ・フリア=ビラル・バルデム、オスバルド=ダニエル・ヒメネス・カチョ、ドニャ・アメリア=アナ・オフェリア・ムルギア、エバリスト=ギリェルモ・ヒル、マリア・ルイサ=マルタ・アウラ

 「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」という邦題は、いちはやく原発下請け労働者の被曝やアジアの出稼ぎ労働者の問題に焦点を当てた佳作「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(森崎東監督)に次ぐ、久々に長い題名だ。しかし「党宣言」が差別されて生きる者のバイタリティをうまく表現していたのに比べ、「誰も話さない」からは映画の強靭なメッセージ性が響いてこない。

 達者なビクトリア・アブリルが、さらに幅を広げた熱演をみせているが、その他の出演者も皆いい味を出している。とりわけ、義理の母親ドニャ・フリア役のビラル・バルデムは、いぶし銀とでも表現したくなる名演技だった。スペイン共産党員としてフランコ独裁政権と闘い、拷問にも耐えてきた女性が最後に自分の意思で自殺するという困難な役を、見事にこなした。

 「心の自由」を核にした女性の自立。その志は、ドニャからグロリアへと、確かに伝わった。それは、言葉ではなく日常の具体的な生き様を示すことにある。 「大地と自由」(ケン・ローチ監督)での父親から娘へのきれいごと過ぎた歴史の伝達に比べ、はるかに手応えがあった。この作品に盛り込んださまざまなテーマを、監督が今後どう展開していくかが、楽しみだ。


「シャイン」の画像です

  Shine  

1995年作品 。オーストラリア映画。105分。製作ジェイン・スコット。監督スコット・ヒックス。脚本ジャン・サルディ。撮影ジェフリー・シンプソンA.C.S。編集ピップ・カーメン。音楽監督ディヴィッド・ハーシュフェルダー。録音トイブォ・レンバー。美術監督ヴィキー・ニーハス。音響ロジャー・サベッジ。成人デイヴィッド=ジェフリー・ラッシュ、青年デイヴィッド=ノア・テイラー、少年デイヴィッド=アレツクス・ラファロヴィッチ、ピーター・ヘルフゴット=アーミン・ミューラー=スターン、ギリアン=リン・レッドグレイヴ、セシル・パークス=サー・ジョン・ギールグッド、キャサリン・スザンナ・プリチャード=グーギー・ウィザース、シルヴィア=ソニア・トッド、ベン・ローセン=ニコラス・ベル

 映画が終わり、感動に浸っている自分を発見する。批評を忘れて物語に心を奪われた。スコット・ヒックス監督の初作品は、さわやかさと情熱に満ちた傑作だ。

 実在のピアニスト・デイヴィッド・ヘルフゴットの自伝的なストーリー。本人が生きている場合、どうしても切り込みが甘くなりがちだが、この作品は一人の人間の生きざまを描くためにけっして手をゆるめない。かといって、大げさな演出をするわけでもない。それぞれの人間を描く目線が実に的確だ。

 ピアノ曲はデイヴィッド・ヘルフゴット自身の演奏。どれも素晴しいが、繰り返し挿入されるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、とりわけ忘れ難い。真正直なまでにストーリーと一致した選曲が清々しい。ストーリーを追うのではなく、映像の息づかいを追ってほしい作品。


  THE SECRET  
  OF  
  ROAN INISH  

「フィオナの海」の画像です
1994年作品 。アメリカ映画。103分。監督・脚本・編集ジョン・セイルズ、撮影ハスケル・ウェクスラー、衣装コンソラータ・ボイル、音楽メイソン・ダーリング、製作マギー・レンジ、サラ・グリーン、原作ロザリー・K・フライ。出演=ジェニー・コートニー、アイリーン・コルガン、ミック・ラリー、リチャード・シェリダン、ジョン・リンチ、シリアン・バーン、スーザン・リンチ

 ロザリー・K・フライ原作のアザラシ伝説の映画化。アイルランドに伝わるケルトの妖精セルキーの伝説をモチーフにしている。ジョン・セイルズ監督は、「希望の街」など社会問題を扱った作品が多いが、この作品ではイギリス人に抑圧されてきたアイルランド人の歴史は背景に置かれ、人間とアザラシの交接という神話的な世界が繰り広げられる。

 ストーリーも映像も美しいが、予想通りの展開で面白みがない。1957年の原作に忠実なあまり、現代に対する切り込みが弱い。フィオナ役のジェニー・コートニーは、凛とした少女を演じ切ったが、あまりにも聡明で迷いも怖れも知らず、人間離れしたキャラクターになってしまった。

 現在のアメリカで、このような神秘的な映画を撮ることの意義は認めるものの、それだけではインパクトがない。ケルトのアニミズム的な世界と現代のあらゆる分野でのハイブリッド化現象をつないでみることはできなかったのだろうか。


   MARCELINO  
  PANE E VINO  

「マルセリーノ・パーネヴィーノ」の画像です
1991年作品 。イタリア映画。97分。製作マリオ・コトーネ。監督ルイジ・コメンチーニ。原作J・ M・サンチェス・シルヴァ。脚本ルイジ・コメンチーニ、エンニオ・デ・コンチーニ。撮影フランコ・ディ・ジャコモ。音楽フィオレンツォ・カルピ、衣装カロニーナ・フェッラーラ。マルセリーノ=ニコロ・パオルッチ、修道院長=フェルナンド・フェルナン・ゴメス、修道士エウセビオ=アルベルト・クラッコ、修道士イラリオ=ディディエール・ベヌロー、修道士パッピーナ=アルベルト・クラッコ、修道士ジョコンド=セルジョ・ビーニ・ブストゥリック、領主=ベルナンド・ピエール・ドナディウ

  75歳の名匠ルイジ・コメンチーニ監督が「汚れなき悪戯」(1955年、ラディスラオ・バホダ監督)をリメイクした作品。修道院で育った孤児がキリスト像とともに昇天したという民間伝承「マルセリーノ・パーネヴィーノ」は、14世紀のイタリア・ウンブリア地方で起こったと言われる。映画では舞台を17世紀に移した。

 いずれに時代でも、戦時下の修道院はシェルターとして利用され、多くの孤児たちがそこで育てられたという時代背景があればこそ、孤児の昇天という奇蹟がリアリティを持つ。映画では、冒頭で戦火を描いているものの、その後戦争の悲惨さはほとんど登場しない。マルセリーノを見つけ、育てる修道士たちの優しい姿を中心に描かれる。

 マルセリーノ役ニコロ・パオルッチ少年は、本当に愛くるしい。さわやかな笑顔に哀しげな瞳が印象的だ。ただ、厳しい戦争の時代と修道院の中の平和、大人の狡猾さと子供の無垢さという対比が十分に生かされず、甘いファンタジーに仕上がっているのが物足りない。しかし、老境を迎えたルイジ・コメンチーニ監督が、自らの癒しを込めて奇蹟を美しい映画を撮ったと考えれば、納得がいく。


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