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Real Player大島渚氏河瀬直美さんのVIDEO

ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭98報告

 

 身も心も 

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1997年作品。 日本映画。126分。配給=東京テアトル。原作=鈴木貞美。脚本・監督=荒井晴彦。撮影=川上皓市。編集=阿部嘉之。音楽=伊藤ヨタロウ。岡本良介、岡本綾=かたせ梨乃、関谷善彦=柄本明、原田麗子=永島映子、原田の男=利重剛、関谷の妻=速水典子、岡本の母=加藤治子

 シナリオライター荒井晴彦の監督第1作。「撮ってもらえる監督がいなくなった、というのが監督した動機だ」と話していた。50歳を目前にした全共闘世代の迷いを、家族のほころび、男女関係の交錯から見据えようとしている。学園紛争という鮮烈な歴史を引きずりながら生きてきた男女の一つひとつの会話は、言葉が立ち上がり切れがある。さすがだ。しかし全体としてはストーリーに新鮮さがない。

 発見は別の所にある。40代後半のセックスを正面から美化せずに描きながら、しかし見苦しくないというのは、画期的なことではないか。少なくとも「失楽園」の現実味の無さとは対照的だ。何を考えているのか分からないが、三角関係を続ける柄本明の表情と身体は特筆に値する。このつかみどころのなさこそが、この映画の華だろう。だから、ラストシーンでとりあえず血のつながりにすがろうとした監督の投げやりな態度を許す気になれない。


「CLOSING TIME」の画像です 

 CLOSING TIME 

1996年作品。 日本映画。81分。配給=MONKEY TOWN PRODUCTION。プロテュース・脚本・監督=小林政広。音楽=佐久間順平。撮影監督=西久保維宏。編集=金子尚樹。男=深水三章、マスター=中原丈雄、ノブコ=大森暁美、アケミ=中野若葉、トシコ=石倭裕子、レイ=夏木マリ、久保=北村康

 こちらもシナリオライターをしていた小林政広の、作家性が全編にみなぎる自主製作作品。第8回ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭97で、日本映画初のヤング・ファンタスティック部門グランプリに輝いた。妻子を事故で失った男の虚脱と孤独という重い題材と、ブラックユーモアに満ちた短いコントをうまく組み合わせメリハリのある構成。ただ、堂々巡りするしかない男の生き様が、ややナルシスティックに傾きすぎている点は、映画的な弱さとなっている。それは、監督の弱さでもある。

 「タイタニック」が映画なら「CLOSING TIME」も映画だ。低予算ながら、映像はけっして貧しくない。そして監督の切実な思いを、俳優たちがくみ取ろうとしているのが伝わってくる。ときに滑稽にさえ見える深水三章の淡々とした演技が、次々と登場する女性たちの孤独とたくましさを浮かび上がらせていく。マスター役・中原丈雄のあくの強い演技と絶妙のバランスを保っていた。終わり方のわざとらしさが惜しまれる。距離間を見失ったのだろう。


 

 NIL BY MOUTH 

「ニル・バイ・マウス」の画像です
1997年作品。 イギリス映画。120分。配給=日本ヘラルド映画。監督・脚本ゲイリー・オールドマン(Gary Oldman)。製作リュック・ベッソン、ダグラス・アーバンスキー、ゲイリー・オールドマン。撮影監督ロン・フォルチュナー。、編集ブラッド・フラー。音楽エリック・クラプトン。美術ルアンナ・ハンソン。レイモンド=レイ・ウィンストン、ヴァレリーホキャシー・バーク、ビリー=チャーリー・クリード=マイルズ、ジャネット=ライラ・モース、キャス=エドナ・ドール、ポーラ=クリシー・コッテリン、アンガス=ジョン・モリソン、マーク=ジェイミー・フォアマン、ダニー=スティーヴ・スウィーニー

 ゲイリー・オールドマン入魂のデビュー作。自らが育ったサウスロンドンでロケーションし、ほろ苦いユーモアに包みながら、下町の過酷な生活を妥協のない暴力シーンとともに描き切った。 自然光を生かした酒場のシーンをはじめ、あたかも同じ空気を吸っているように感じさせる映像が観る者を引き寄せる。監督がどっぷりと映画の中に入り込みながら、それでもあやうい距離を保っているという離れ業をみせてくれた。

 麻薬中毒、家庭内暴力、アルコール依存症。各々の場面に監督の愛着と憎悪が漂う。やりきれない日常をすえた映像にしっかりと定着させた努力は認める。しかし夫のリアルな暴力のあとに、結局は家族の再生という「救済」が用意されている点は、立ち止まって考えてみる必要があるだろう。これを「愛」とみるか「生活のため」と見るか。単純に答えは出ない。しかし、監督にとっての「癒し」が込められていることは否定できないと思う。


「アミスタッド」の画像です 

 AMISTAD 

1997年作品。 アメリカ映画。155分。配給=UIP、監督スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)。脚本デビッド・フランゾーニ。製作スティーブン・スピルバーグ、デビー・アレン、コリン・ウィルソン。撮影ヤヌス・カミンスキー,A.S.C.。編集マイケル・カーン,A.C.E.。音楽ジョン・ウィリアムス。衣装ルース・E・カーター。ジョッドソン=モーガン・フリーマン、マーティン・ヴァン・ビューレン=ナイジェル・ホーソーン、ジョン・クインシー・アダムズ=アンソニー・ホプキンス、シンケ=ジャイモン・ハンスゥ、ボールドウィン=マシュー・マコノヒー、フォーサイス=デビッド・ペイマー、イザベラ女王アンナ・パキン

 「シンドラーのリスト」で社会派監督としての手腕を認めさせたスティーブン・スピルバーグ監督。「アミスタッド」は奴隷貿易をテーマに骨太の映像で人間の尊厳を歌い上げているが、残念ながら「シンドラーのリスト」には及ばない。アメリカの歴史的な暗部を照らし出そうという意気込みは理解できるが、人物が型にはまりすぎて、人間的な膨らみがない。

 アフリカから理不尽に誘拐されアメリカに運ばれてきたシンケは、力強く自由を主張する。その姿は崇高で美しい。しかし葛藤や怯えが微塵も描かれないので、ヒーローとしての存在感が乏しい。アフリカ人の側に立った若手弁護士ロジャー・ボールドウィンも、驚くほど迷いがない。最後にアメリカの原点を説くクインシー・アダムズにのみ、かすかな屈折を感じるだけだ。

 結局のところ自由を尊重するというアメリカの理念だけが、強調される。そのために引き合いに出されるのが、奴隷制を容認するスペインの政治的な未熟さ、非民主さだ。しかし、このように国単位で優劣を考える姿勢では、交錯した差別構造を撃つことはできない。新しい差別を生産するだけだ。ここにスピルバーグの未熟さが露呈している。 


 

 KICHEN 

 我愛厨房 

「キッチン」の画像です
1997年作品。日本・香港合作映画。110分。配給=アミューズ。監督・脚本= イム・ホー(YIM-HO)。原作=吉本ばなな。撮影監督=プーン・ハンソン。美術ジェームズ・レオン、ジェイソン・モク。編集=プーン・ハンユウ。音楽=大友良英、内橋和久。Aggie=富田靖子、Louie=チャン・シウチョン、Emma=ロー・ガーイェン、Jenny=カレン・モク

 アギー役の富田靖子は感情の起伏を丹念に演じ、強いオーラを放っていた。ときに見惚れるほどに美しい表情を咲かせる。「南京の基督」(トニー・オウ監督)に続き、国際的な舞台で仕事をする女優としての自信を感じた。森田芳光監督の「キッチン」で、無表情に「みかげ」演じた川原亜矢子とは対照的なアプローチながら、その透明さは共通している。

 ゆらゆらしながら、ほのかに悲しいけれど、幸せな静けさにたどり着く。大友良英の完成度の高い音楽が、水のような映像をしっかりと抱きしめていた。ストーリーはかなり組み替えているが、小説「キッチン」と地下水脈でつながっている質感があった。原作の世界的な普遍性が実感できる。しかし、映画としてはバランスを欠いている部分が多く、ストーリーの運びにもやや唐突さを感じた。

  女装したロー・ガーシェンは、最初違和感があったが、それがみるみる存在感に変わった。さすがにベテランの味。彼が泥酔して便器に話しかけるシーンでは、思わず「『キッチン』でなく『セッチン』か」と心の中でつぶやいた(ウソ)。彼が死んだ後、空気が変わったように映画がまとまり始めたのは、皮肉だった。 


「HANA-BI」の画像です 

 HANA-BI 

1997年作品。日本映画。103分。配給=オフィス北野、日本ヘラルド映画。監督・脚本・編集・挿入画=北野武(Takesi Kitano)。音楽監督=久石譲。撮影=山本英夫。美術=磯田典宏。編集=太田義則。西佳敬=ビートたけし、西美幸=岸本加世子、堀部泰助=大杉漣、中村靖=寺島進

 感嘆。北野ブルーに染め上げられながら、全身が打ち震えるようなラストシーンに浸り、映画が終わっても立ち上がれなかった。静けさ、暴力、ユーモア、優しさが、これ以上は不可能なほど絶妙に溶け合っている。ストーリー的にギクシャクしたところがなく、いつもはしらける悪ふざけも今回は映画の中心にきちんと結び付き、浮いていない。第54回ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞は妥当だった。「みんな やってるか!」や「キッズ・リターン」で北野映画に懐疑的になり、観るのをためらっていた自分を悔いた。

 挿入される絵画が、映画と静かに響き合う。北野監督が、あの大事故の後から書き始めたもの。名監督は何故か皆絵がうまいが、北野監督の絵は格別の味がある。花と動物の合体など、ほのかな毒がある作品は忘れ難い。

 ラストシーンは、撮影直前に変更されたようだが、これ以外にはありえないほど、作品全体を集約していたと思う。それまで一言も話さなかった西美幸役の岸本加世子の言葉「ありがとう。ごめんね」は、狙い通りの圧倒的な効果を上げた。銃声にかぶさる波の叙情が見事。そして寺の鐘のシーンでは猫までが耳をすませる名演技をしていた。

 文句のつけようがない傑作だが、監督がベネチアで語った「日本人的な感覚が受け入れてもらえるかどうかが、今回のポイントだったと思う」という言葉が気になった。これまでの映画の常識をくつがえすような演出や編集を行なっているのは確かだが、何も「日本人」などと国籍で括ることはない。映画の新しい文体が生み出され、それが国を超えた共感を呼んだという事なのだから。


 

 JUNK MAIL 

「ジャンク・メール」の画像です
1996年作品。ノルウェー映画。83分。配給=KUZUIエンタープライズ。監督ポール・シュレットアウネ(Pal Sletaune)。脚本ポール・シュレットアウネ、ヨニー・ハールベルグ。撮影ヒェル・ヴァスダール。編集ポール・ゲンゲンバック。音楽ヨアキム・ホルベック。美術監督カール・ユーリウスソン。ロイ=ロバート・シャーシュタ、リーナ=アンドリーネ・セーテル、ゲオルグ=ペール・エーギル・アスケ、ベッツィ=エーリ・アンネ・リンネスタ

 暴力的なアキ・カウリスマキ。ポール・シュレットアウネ監督の長編デビュー作は、そんな感じの作品だ。ノルウエーのオスロを舞台にしながら、描いているのは汚れた街と雑然とした部屋ばかり。意図して観光的な都市の映像を避けているのは、これまでのノルウエー映画へのささやかな抵抗だろう。しかし冷え冷えとした空気は、いかにも北欧的だ。そこからシケた人間たちの愛すべきドラマが生まれてくる。

 人生を半分投げてしまっているような郵便配達員が、ふとしたことから女性を助けることになる。そして騒動に巻き込まれていく。ストーリーの巧みな展開は、周到に用意されていた小道具や場面設定に支えられている。シンプルなシーンの積み重ねで飽きさせない構成は評価していい。登場人物一人ひとりに確かな生活の臭いがある。物語が拡散したまま、やや甘い結末で終わってしまう点は、不満の残るところだろう。しかし監督が熟考した結果だと思う。朝日は昇るが、またいつものさえない生活が待っている。

 


「スポーン」の画像です 

 SPOWN 

1997年作品。アメリカ映画。98分。ギャガ・ヒューマックス共同配給。監督マーク・デッペ(Mark A. Z.Dippe)。製作クリント・ゴールドマン。脚本アラン・マッケロイ。撮影監督ギレモ・ナヴァロ。美術監督フィリップ・ハリソン。編集マイケル・N・クーン。タイトルバック・デザイン=カイル・クーパー。音楽グレーム・レベル。スポーン/アル・シモンズ=マイケル・J・ホワイト、クラウン/バイオレーター=ジョン・レグイザモ、ジェイソン・ウィン=マーチン・シーン、ワイダ・ブレイク=テレサ・ランドル、コグリオストロ=ニコル・ウィリアムソン、ジェシカ・プリースト=メリンダ・クラーク(Melinda Clarke)

 日本のメンバーが対等な立場でハリウッド映画製作に参加したCGコラボレーションワークとして、注目されていた「スポーン」。まずは日本のCGカットが採用され、作品が公開されたことの意義を確認しておこう。しかし映画としては、まとまりを欠いた失敗作といわざるをえない。B級SFのテイストを生かした「マーズ・アタック!」の線を狙ったのだろうが、ストーリーがすっきりしない上に、コミック的な悪ふざけとCGのスピード感がアンバランスで、吸引力が弱い。

 焼けただれたスポーンは「悪魔の毒々モンスター」を連想してしまうほどの「オバカ」ぶり。それに対して変身後は、マントをひるがえし、非常にかっこいい。その落差にとまどう。地獄のシーンは背景が素晴しいものの、地獄の支配者マレボルギアがあまりにもちゃちなのに閉口。CGとはいえ、やはり重量感がほしい。CGの出来にムラがあるのは、共同作業のせいか。意図的な描き分けとは納得できなかった。

 全身にガラスや金属片を刺しまくりパンク・スプラッターを切り開いた「バタリアン・リターンズ」やハイブリッド・スプラッターの「キラー・タン」で主役を演じたメリンダ・クラークがジェシカ・プリースト役で登場したが、魅力を発揮できずに死んでしまったのは残念。官能的でねちっこいアクションが観たかった。

 忘れずに書いておかなければならないのは、タイトルバック・デザインを担当したカイル・クーパーの映像水準の高さだ。黙示録的な深みを持たせながら、すさまじくスピード感のある世界を築いていた。瞠目すべき仕上がり。最初にこの高密度のシーンを観てしまうと、どうしても本編が軽く感じられてしまう。締めくくりのエンドロールも凝りに凝っていた。観ないで帰った人たちは、かなり損したと思う。


 

 悦楽共犯者 

 Conspirators 
 of 
 Pleasure 

「悦楽共犯者」の画像です
1996年作品。チェコ共和国・イギリス・スイス合作映画。84分。配給ユーロスペース。監督・脚本・美術ヤン・シュワンクマイエル。撮影ミロスラフ・シュパーラ。編集マリエ・ゼマノヴァー。音楽ブラザーズ・クエイ、オルガ・シェリンコヴァー。ピヴォィネ=ペトル・メイセル、ロウバロヴァ=ガブリエル・ヴィルヘルモヴァー、マールコヴァ=バルボラ・フルザノヴァー、アナ=アナ・ヴェトリンスカー、クラ=イジィ・ラーブス、ベルティンスキー=パヴェル・ノヴィ

 「ファウスト」に続く役者を使った作品。ただし、せりふはない。6人の男女が、さまざまな道具を駆使しひそかに行なう自慰行為を、この監督にしては淡々と撮り続けていく。シュールで滑稽な味わい。ヤン・シュワンクマイエル監督は「ブラック・グロテスク」と言っているが、陽気なまでに明るい雰囲気に包まれている。おのおののセクシャルファンタジーは、ある意味で微笑ましいくらいに素直だ。

 描かれているセクシャリティのレベルはもはや異端とはいえない。私達はもっと屈折した地点にいる。彼等の真剣さがうらやましく思えるほどに荒廃している。強いてあげるなら、私達は人形の方に似ているかもしれない。私は引き裂かれ、つぶされる人形たちにひそかに自分を重ねていた。そして、ヤン・シュワンクマイエルを師と仰ぐブラザーズ・クエイの音楽センスを楽しんだ。新しい予感に満ちた試み。私は十分に映画を悦楽した。

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