歌合戦:戯言「初出場歌手」


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昔はデビューした年には出場できなかった

 以前、和田アキ子が歌合戦の話になると、思い出したように言っていた。

 確かにデビューした1955年(昭和30年)からヒットを飛ばしたと言われている島倉千代子がデビュー3年目にして第8回(1957年、昭和32年)の歌合戦に初出場したように、デビューした年に大ヒットを出しながら出場できなかった歌手も多い。 森進一も1966年(昭和41年)のデビューからヒットを連発しながら2年間は歌合戦に出場していない。 彼の場合、デビュー3年目の第19回(1968年、昭和43年)の歌合戦に初出場し、いきなりトリの前に登場している。

 1968年(昭和43年)暮れにデビューした和田アキ子は新人歌手扱いだった翌1969年(昭和44年)に「どしゃ降りの雨の中で」がヒットしているが初出場ならず、1970年(昭和45年)のヒット曲「笑って許して」で念願の初出場となった。
 でもデビューした年に出場できないというルールがあったから、というよりは「どしゃ降りの雨の中で」が出場が当然と言えるほどの大ヒットではなかったから、という気がする。

 参考までに、和田アキ子と同時期にデビューした年に初出場した歌手としては、第19回(1968年、昭和43年)のピンキーとキラーズ小川知子、第20回(1969年、昭和44年)の高田恭子内山田洋とクールファイブ、第21回(1970年、昭和45年)のにしきのあきら野村真樹辺見マリ(1969年11月デビューなので、1970年の新人扱い)と結構いる。

 和田アキ子の場合、彼女だけでなく事務所の後輩にあたる森昌子山口百恵もデビューした年にヒットがありながら、初出場が果たせなかったため、「歌合戦はデビューした年には出られない」という印象が強く心に刻まれているのかもしれない。 もしくは1969年(昭和44年)に初出場できなかった際にスタッフから「新人は出場できないから」と慰められたのかもしれない。

 似たような発言に美川憲一
「あたしの頃は最初のヒットじゃ出れなかったのよ。」
がある。 これは1966年(昭和41年)の彼にとっての初ヒットである「柳ヶ瀬ブルース」では歌合戦に出場できず、次のヒット曲「釧路の夜」を出してようやく第19回(1968年、昭和43年)の歌合戦に初出場となったことを言っている。
 1966年(昭和41年)となるとオリコンのようなレコード売り上げ情報が得られないため、「柳ヶ瀬ブルース」が歌合戦に初出場できるくらいのヒットだったのかは私にはわからない。 1968年(昭和43年)の「釧路の夜」はオリコンのデータによれば、文句なしの大ヒット。

 ちなみに第17回(1966年、昭和41年)に初出場した新人としては青江三奈マイク眞木がいる。 もし美川憲一の言葉が本当だとするなら、彼らは昭和41年のうちに「恍惚のブルース」や「バラが咲いた」以外にもヒット曲を出していたということか。
 マイク眞木は限りなく一発屋に近い、というイメージがあるが。

新人は初ヒットを歌唱

 第29回(1978年、昭和53年)にある大手新聞に書いてあった。 このため渡辺真知子世良正則&ツイストは共に1977年(昭和52年)11月デビューのため、初ヒットとなったデビュー曲を歌唱することになる、と。

 渡辺真知子の場合、新人賞レースでは1978年(昭和53年)に発売した「かもめが飛んだ日」や「ブルー」を歌っていたが、歌合戦ではデビュー曲の「迷い道」を歌唱した。 でも売り上げ枚数で見ると「迷い道」が最も売れた曲なので、この曲を歌唱しても特に違和感はない。

 世良正則&ツイストの場合、デビュー曲の「あんたのバラード」もヒットしたが、1978年(昭和53年)に入って「宿無し」や「銃爪」など「あんたのバラード」を上回るヒットもあった。 そちらを歌っても良かったような。 2回出場して歌唱曲が「あんたのバラード」と「燃えろいい女」だと途中で1回辞退したのかと思ってしまう。

 第24回(1973年、昭和48年)初出場のアグネス・チャンも、賞レースで歌いまくり、売り上げでも上回る「草原の輝き」ではなく、1972年(昭和47)年11月に発売されヒットしたデビュー曲「ひなげしの花」を歌唱した。

 でも彼らよりも少し後、1980年代に入ると第32回(1981年、昭和56年)初出場の近藤真彦は、唯一のミリオンセラーである1980年12月発売のデビュー曲「スニーカーぶる~す」ではなく、新人賞レースで歌いまくった「ギンギラギンにさりげなく」を歌っている。

 1960年代以前にさかのぼってみると、第10回(1959年、昭和34年)初出場のザ・ピーナッツや第15回(1964年、昭和39年)初出場の西郷輝彦はデビュー曲がヒットしたと言われているが、共にデビュー曲ではない曲を歌唱している。 1970年代特有のルールだったのだろうか。

 逆にデビューした年には歌合戦に出場できなかった歌手が、初出場を果たした年にデビュー曲を歌うケースもある。 デビュー2年目で初出場を果たした歌手に多い。

 例えば第24回(1973年、昭和48年)の歌合戦で歌唱された森昌子の「せんせい」や郷ひろみの「男の子女の子」はどちらも1972年(昭和47年)にヒットしたデビュー曲。 デビュー当時は少年の面影があった郷ひろみは、デビュー2年目にはすでに頬がこけ、大人の顔に成長中。 そんな顔で歌う「男の子女の子」は、アップになると少し恐かった。

 第36回(1985年、昭和60年)初出場の松原のぶえは1979年(昭和54年)のデビュー曲「おんなの出船」を歌唱。 6年前のデビュー曲を歌うこともすごいが、この時点ではまだヒット曲らしいヒット曲がなかったのに初出場を決めてしまったこともある意味すごい。
 当時の話は知らないが、1983年(昭和58年)に「おんなの出船」のジャケットを変えて再発売していることを考えると、ひたすら「『おんなの出船』の松原のぶえ」というイメージを日本全国に刷り込んでまわり、その成果が1985年(昭和60年)に現れたのだろうか。

 そういう戦略が邪道だとは思わない。 歌や顔や名前を覚えてもらってなんぼの世界に正道も邪道もないから。

最終更新 2017年2月11日