歌合戦:戯言「ミュージカルナンバー」


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 昔の歌合戦でその年にヒット曲がなくても出場したポップス歌手がよく歌ったのが洋楽のヒット曲。 その中には、いわゆるミュージカルナンバーも含まれていました。 ブロードウェイでヒットしていたミュージカルの曲を歌ったものもあれば、日本で上演されたミュージカルに出演した歌手がを歌ったものもあります。
 なんの脈絡もないのですが、歌合戦で歌われたミュージカルナンバーにどんなものがあったのか、調べてみました。 ミュージカルの知識があるわけではないので、間違いも多々あるかと思います。 また、手元に歌合戦の音源がなく、ミュージカル作品のヒット時期とタイトルから推測しているものもあります。 ご参考程度に。

 最も古いミュージカルナンバーは、「三文オペラ」で歌われた「マック・ザ・ナイフ」。 ただし、ミュージカルナンバーというよりは、普通の洋楽ヒット(アメリカの歌手Bobby Darinが1959年に発売し、アメリカとイギリスで1位を獲得)という扱われ方かもしれません。 歌合戦では3回歌われており、Bobby Darinのヒットと同じ年の歌合戦である第10回(昭和34年)に旗照夫、2年後の第12回(昭和36年)は紅組の雪村いづみ、そしてさらに4年後の第16回(昭和40年)にはジャニーズグループの大先輩であるジャニーズが歌唱しています。

 いかにもミュージカルっぽい作品からの曲としては、「ウェスト・サイド物語」で、映画版が昭和36年12月に日本で公開され、翌年である第13回(昭和37年)にペギー葉山が「トゥナイト」、翌14回(昭和38年)はコーラスグループのスリー・グレイセスが「アイ・フィール・プリティ」を歌っています。 ここまでが映画のヒット当時(超ロングランヒットで、日本では昭和38年まで公開されていました)の選曲で、さらには平成に入ってからも、第41回(平成2年)にクラシック歌手の佐藤しのぶが「トゥナイト」、そして第53回(平成14年)には白組のクラシック歌手ジョン・健・ヌッツォが「マリア」を歌っています。 一つのミュージカルからのべ4回歌われたのはこの作品だけ。

 同じく、日本人になじみのあるミュージカル作品としては、ミュージカル映画「オズの魔法使い」があり、こちらは第13回(昭和37年)に江利チエミが「虹のかなたに」を歌っています。 でも、「オズの魔法使い」(正式な邦題は「オズの魔法使」らしいです)の日本公開は昭和29年なので、なぜこの回に歌ったのかは不明。

 少し特殊なのが、「サウンド・オブ・ミュージック」。 第13回(昭和37年)に宮城まり子が「ドレミの歌」を、第16回(昭和40年)にはダーク・ダックスが「エーデルワイス」を歌っています。 ブロードウェイで1959年に上演され、映画版は1965年の公開(アメリカ、日本共に)。 ということで、「ドレミの歌」はブロードウェイミュージカルのヒットを受けての選曲、「エーデルワイス」は日本でも大ヒットした映画版の公開を受けての選曲と思われます。

 ブロードウェイ作品を日本で日本人キャストで公演したことから歌われたのが「マイ・フェア・レディ」の中の曲。 主演は第14回(昭和38年)の紅組司会も務めていた江利チエミで、この年江利チエミが「踊り明かそう」を歌い、対戦相手としてクラシック歌手の立川澄人が「運がよけりゃ」を歌いました。 立川澄人は第16回(昭和40年)にも「マイ・フェア・レディ」から「教会へ行こう」を歌っています。
 そして、江利チエミの主演ミュージカルがらみで歌われたと思われるのが、第15回(昭和39年)に雪村いづみが歌った「ショウほど素敵な商売はない」。 なぜ雪村いづみ江利チエミがミュージカルで歌った歌を?と思いますが、2人と美空ひばりで3人娘と呼ばれていたことや、この年の紅組司会も前年に引き続き江利チエミだったことから、NHKが雪村いづみに依頼したのかなー、それとも雪村いづみがアメリカで活動していた頃にレパートリーにしていたのかなー、などと思います。

 第50回(平成11年)の歌合戦では「ショーほど素敵な商売はない」(「ショウ」じゃなくて「ショー」でした)が再び歌われました。 これは応援合戦の最後にちょっとだけ。 歌ったのは、応援合戦に出演していた宝塚歌劇団月組のみなさんなのか、別のコーラスのみなさんなのか不明です。 応援合戦のテーマが「宝塚歌劇と歌舞伎の共演」だったこともあり、ミュージカルのワンシーンというよりは宝塚のレビューでした。

 「マック・ザ・ナイフ」と同じように、ミュージカルナンバーというよりは洋楽ヒットとして歌われたと思われるのが、第14回(昭和38年)の中尾ミエの「バイ・バイ・バーディー」。 同年アメリカで公開されたミュージカル映画"Bye Bye Birdie"のタイトル曲でした。

 連続出場中の歌手が、特にヒット曲もないから洋楽歌っとくか、と歌った曲がたまたまミュージカルナンバーだった、的なところ(私の勝手な推測です)では、第16回(昭和40年)にブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー!」のテーマ曲を朝丘雪路が歌っています。 「ハロー・ドーリー!」のブロードウェイ上演は1964年なので、タイムリーな選曲。

 昭和40年代に入ると、和製ポップスが広まったため、ポップス歌手が洋楽のヒット曲を歌う機会が減り、結果としてブロードウェイから誕生したミュージカルナンバーが歌合戦で(出場歌手の正式な歌唱曲として)歌われる機会も激減します。 この辺りは、NHKで再放送されていない年も多いため、確認できた中で歌われたのは、先に書いた「ハロー・ドーリー!」のほかは、第20回(昭和44年)のハーフタイム・ショーで紅組有志(伊東ゆかり弘田三枝子ザ・ピーナッツ)による「ポピュラー・ヒット・メドレー」の最後に歌われた「レット・ザ・サンシャイン・イン」くらい。 こちらは、初演が1967年、ブロードウェイでの上演が1968年のミュージカル「ヘアー」の中の曲ですが、1969年にアメリカのコーラスグループThe 5th Dimensionがシングル"Aquarius/Let the Sunshine In"としてリリースし日本でもヒットしたことが、第20回で歌われた理由と思われます(「ポピュラー・ヒット・メドレー」の1曲ですから)。
 また、歌詞が歌合戦向けにアレンジされていますが、第22回(昭和46年)に美空ひばり真帆志ぶき雪村いづみが「アニーよ銃を取れ」から「あんたにゃ負けない」の替え歌「男にゃ負けない」を歌っています。 Wikipediaによれば、この年江利チエミに出場してもらい、歌合戦で3人娘がそろう姿を見せたかったのですが、江利チエミが辞退したため、前にも書いた彼女の主演ミュージカルである「アニーよ銃を取れ」のナンバーを歌うことになったという説もあるようです。

 その後、宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」が大ヒットした関係で、日本製のミュージカルナンバーが第26回(昭和50年)に歌われることになります。 正式な出場歌手ではありませんでしたが、紅組の応援ゲストとして安奈淳と榛名由梨が宝塚花組と月組のメンバーを従えて登場し「愛あればこそ」を歌いました。

 間が空き昭和62年からの歌合戦の出場歌手選考方針の変更によって、ミュージカルナンバーはまたちょっとだけ歌われるようになりました。
 昭和60年代前半に日本で話題となったミュージカルが「レ・ミゼラブル」。 歌合戦に出場中だった歌手や出場経験のある歌手もこのミュージカルに出演していました。 歌合戦では岩崎宏美が第38回(昭和62年)に「夢やぶれて」を、そして、翌39回(昭和63年)には、このミュージカルで脚光を浴びた島田歌穂が初出場し、「オン・マイ・オウン」を歌いました。 島田歌穂は翌40回(平成元年)にも出場し、別のミュージカル作品である"Dreamgirls"から「I AM CHANGING」を歌っています("Dreamgirls"は1981年初演で何度も色々なところで上演されているようで、平成元年に一番近いところでは、1987年にブロードウェイで再演されています)。
 また、第60回(平成21年)には紅組応援ゲストとして出演したスーザン・ボイルも「夢やぶれて」を歌っています。 こちらは、イギリスのオーディション番組で彼女が歌い、風貌と歌唱のギャップから審査員や観客を驚かせた、彼女を1曲で表すならもうこの曲しかないという曲。 では、なんで彼女がこの曲をオーディション番組で歌ったかというと、彼女がイギリスのミュージカル女優であるエレイン・ペイジにあこがれていたから、との情報をいただきました(エレイン・ペイジが「レ・ミゼラブル」に出演していたわけではないようですが、ステージでは「夢やぶれて」を歌っており、この曲を収録したアルバムも発売しています)。

 日本公演がヒットしたミュージカルからの出場としては、他に「オペラ座の怪人」があります。 第40回(平成元年)に市村正親が「オペラ座の怪人」を歌っています。 さらにはオリジナル・キャストであるサラ・ブライトマンも第42回(平成3年)に出場し「Music Of The Night」を歌っています。 なぜ平成3年にサラ・ブライトマンが歌合戦に出場したのかというと…、翌年日本でのツアーがあったから、その宣伝もかねてかなー。

 サラ・ブライトマンが出場した第42回は、他にも少年隊が「MASK '91」を、森山良子が「PEOPLE」を歌いました。 「MASK '91」は、タイトルからすると、少年隊のオリジナルミュージカル「PLAYZONE'90 MASK」の中で歌われた曲をアレンジした曲かも。 違ったらごめんなさい(「MASK '91」のベースは彼らのデビュー曲「仮面舞踏会」なんですけど)。 「PEOPLE」は「ファニー・ガール」というミュージカルの中の曲ですが、ミュージカルがらみというよりは、森山良子にとって思い入れの強い曲、という意味合いの選曲のような。 彼女はこの曲を昭和46年にシングルとしてリリースしています。 「ファニー・ガール」はブロードウェイ・ミュージカルの上演が1964年、映画版の公開が1968年、日本人による日本公演は昭和55年と平成22年で、いずれも平成3年とは関係なさそう。

 平成4年以降になると、ミュージカルナンバーを出場歌手が歌うというよりは、たまたま歌われた曲がミュージカルナンバーだった、というケースがあと2回あります。
 一つは第44回(平成5年)、この年を振り返るコーナーがあり、この年は梅雨が長かったことから「雨に唄えば」が歌われました(歌っていたのは、このコーナーでコーラスを担当していた方々でしょうか)。 「雨に唄えば」は同名のミュージカル映画でおなじみですが、「雨に唄えば」という曲自体は、ミュージカル映画が製作される前から存在していたようです。 ちょっとややこしい。
 第49回(平成10年)に出場した西田ひかるは、ミッキーマウス生誕70年ということで、「ザッツ・ディズニー・ファンタジー」と題してディズニー絡みの曲をメドレーで歌いました。 その中の1曲が、ミュージカル映画「メリー・ポピンズ」の中の「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」でした。

 近年は劇団四季がブロードウェイミュージカルの名作を日本で長期公演しており、歌合戦でも歌われたのが「ライオン・キング」の中の曲である「サークル・オブ・ライフ」。 正式な出場歌手ではありませんでしたが、第51回(平成12年)に、ちゃんとした時間を取っての劇団四季メンバーと歌合戦出場歌手との共演となりました。

 最後に、これはミュージカルナンバーではないよ、というものを。
 第31回(昭和55年)に野口五郎が歌った「コーラス・ライン」はミュージカルとは無関係な野口五郎の持ち歌です。 同名のミュージカル「コーラスライン」(1975年にブロードウェイで初演)は日本でも有名で、野口五郎ものちに「レ・ミゼラブル」などミュージカルに出演して評価されたため、私は「五郎がミュージカルに進出するきっかけは昭和55年?」と勘違いしてしまったことから、念のため書いておきます。 ちなみに、日本のCMでも使われたミュージカル「コーラスライン」の中の曲のタイトルは「One」です。

 もう一つおまけに、歌っていないもののミュージカルナンバーが使われた事例として、2例挙げておきます(実際はもっとありそう)。
 第45回(平成6年)に小林幸子が歌った「雨の屋台酒」は、アレンジがオリジナルを無視した派手なものになり、「オペラ座の怪人」の「Music Of The Night」のイントロをもろにパクっていました。 第47回(平成8年)の「Shall we ダンス?ショー」では、ミュージカル「王様と私」から「Shall we dance?」の音楽が使われました。 これはミュージカルとは関係なく、この年社交ダンスをテーマにした映画「Shall we ダンス?」がヒットし、その映画の中で「Shall we dance?」が使われていたことからきています。

最終更新 2024年3月20日