2025年分:最新は5月度
今月は私の誕生月なので、現役時代に苦労を共にした後輩、部下だった人たちが私を囲んで集まる懇親会が、今年も二回 ( 研究所時代の職場とと工場時代の職場 ) 開かれました。 彼らと共に夢中で働いた時代は、もう半世紀ほども昔なのですが、今も当時を忘れずに沢山の人たちが、一部はずいぶんと遠方からも集まってくださるということは、当時の職場が、あれほど忙しく、あれほどしょっちゅう苦しい職場だったったのに・・・と思うと、本当に嬉しく、また有難いことです。 いや、あんなに厳しいことづくめでしたが、しかし皆が仲良く、真剣に、夢中で腕を組んで働いた職場であったからこそ、今も皆さんが 「 共に苦しみ、共に成果を味わった 」 当時を忘れず集まってくるのかもしれません。 当時の皆さん、本当にご苦労様でした。 本当に有難うございました。 神奈川県の西端にあり、一部は静岡県と接する南足柄市というところに私は住んでいますが、今回は、自宅から車で約20分の 「 足柄峠 」 で撮った写真をお目にかけます。 ![]() 「 ♪足柄山の山奥で・・・」 という金太郎の童謡が有名なので、世間一般には「足柄山」という名の山が実在するように思われていますが、そういう名の山は地図のどこを探しても存在しません。 実在するのは当市と静岡県駿東郡小山町(すんとうぐんおやまちょう)との県境にある 「 足柄峠 」 ( 759m ) だけです。 幼少時の金太郎(のちの坂田金時と伝えられる)は足柄峠の尾根の両麓を行ったり来たりして育ったので、金太郎ゆかりの名所は現在も南足柄市と小山町の両方に多く残っており、両者は共に 「 金太郎のふるさと 」 を名乗っています。 平安時代の武将で笛の名手だった新羅三郎義光が戦場に向かう途中、足柄峠で笙 ( しょう ) の秘曲を弟子に伝授した故事にちなんで、毎年9月、足柄峠の最高地点にある広場で、義光をしのんで笙の演奏が奉納される「笛塚供養」の後、南足柄市と小山町の小学生代表選手たちが綱引きを行い、勝った方がその後1年間、足柄峠の 「 領有 」 を立札に書いて宣言できます。 なお金時山 ( 1,212m ) という名の山は実在し、足柄峠から尾根伝いに約4km ( 90分 ) ほどのハイキングコースで両者はつながっています。 足柄峠の歴史は古く、古来、西国と東国とを結ぶ要衝でした。 この峠から東が東国でした。 神話時代にはヤマトタケルが東征の際、この峠を越えたと伝えられています。 平安時代中期の更級日記には怖い暗い山道の足柄峠を女性を含む一行が京に向かって旅したさまが描かれています。 その一節:足柄山といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。 また、東国出身の防人 ( さきもり ) たちは足柄峠を越えて西国の任地に赴きました。 のちに富士山の延暦噴火( 800−802 )の際、降灰などの理由で現在の箱根峠と箱根湯本を結ぶ 「 湯坂道 」 が新たに使われるようになり、さらに江戸時代になると 「 東海道 」 による箱根越えが東国と西国を結ぶ主要な街道になりました。 つまり、足柄峠越えのルートは東国と西国とを結ぶ日本最古の主要街道でした。 以上長々と書きましたが、その足柄峠から眺められる富士山は、3月に載せた乙女峠からのそれよりも美しいと私は思っています。 前記の昔の旅人たち、防人たちも、西国に向かって険しい登りの山道を歩いた後、忽然と現れるこの富士山に、きっと息を呑んだことでしょう。 なお、この足柄峠を通る足柄古道は、江戸時代には矢倉沢往還 ( やぐらさわおうかん ) という名で整備され、江戸城の赤坂門 ( 赤坂見附 ) から足柄峠を経て駿河国沼津宿を結ぶ東海道の脇往還として機能し続けていましたが、新しい自動車道 ( 国道246号線や神奈川・静岡県道78号線 ) の完成や地域の都市化に伴い、現在その多くの部分が住宅地や深い藪の中に忘れ去られ、埋もれ、時には消え去ってしまっています。 2010年前後に、私 ( と妻 ) が自分の足で何度も探索し、この古道の神奈川県最西部部分の跡を少しずつ見つけては現在の地図の上に書き込んだ資料があります。 そのごく一部をご覧に供します。 この欄の最後の第7項およびこの欄の第8項が、この古道の足柄峠付近の部分の探索結果です。 一部、クリックしても開かないときは、下方にスクロールしてください。 今月は、つまらぬ用事が少々忙しくて、アップロードが5月2日の夜に遅れこんでしまいました。 ここまでご覧に入れた富士山は、すべて静岡県側から撮ったものですが、以降は山梨県側から撮ったものを主にお見せすることになるでしょう。 最初は、富士五湖のうち最も小さな精進湖に映る 「 払暁の逆さ富士 」 です。 本当はもっと高いところに登って湖面に映る逆さ富士を全部きれいに湖面に入れたかったのですが、真っ暗な、ろくに道もない斜面を登る勇気がなく、この状態で我慢しました。 富士山の手前中腹に薄黒く写っている低い山は大室山 ( 伊豆の大室山とは同名異山、1,468m )、その手前一帯の白っぽく霞んでいるあたりが青木ヶ原です。 太陽は向かって左奥の方からやがて昇ってきます。 先月までの静岡側からの写真には必ず写りこんでくる 「 宝永火口 」 が裏側に隠れてくれるし、富士宮市近辺から撮った時のように剣が峰の突起が目立つこともなく、頂上部分や、頂上から中腹にかけてのラインが美しい左右対称になるので、山梨側のこのあたり ( 精進湖、本栖湖 ) から撮った富士山は一番形が整っています。 ですから、以前から紙幣の裏面などに描かれる富士山の図はこの一帯からの山容を手本にしているようです。 旧千円札 ( 野口英世 ) の裏面は本栖湖からの富士山です。 ![]() 今月、私は心房細動の再発もなく、元気に暮らせましたが、カホルは、どうも最近疲れる、息苦しいと言うので、主治医から大きな病院を紹介されて診察を受けたところ、多くの検査の末、「 再生不良性貧血 」 だと診断されました。 幸いガンではありませんでしたが、骨髄における赤血球や血小板の生産が行なわれにくくなる、国指定の 「 難病 」 の一つだそうです。 でも、今のところ症状は軽いので、時々輸血をしてもらえば、自宅で元気に普通に暮らして行けるようです。 当人は勿論心身共につらいのでしょうが、気丈に平静を保っています。 考えてみれば、夫婦両名ともすでに90歳を超えたのに、他人さまのお世話には全くならず、頭もボケずに毎日家の内外でいろいろと心身を使いながら外界と交わり元気に暮らせているのですから、この程度の病気ならまだまだ幸せな方だと、明るく元気に受け止めようと夫婦ともども考えています。 ひとは何を手がかりに、いつ 「 春が来た 」 と感じるのでしょうか。 自分の肌で気温の変化によってもそれを感じますが、広い意味の 「 暦 」 や年中行事、樹々の芽吹きや開花などによってもそれを知ります。 2月初めの節分? 3月初めのひな祭り? 3月上旬の河津桜の開花? それとも3月20日過ぎの春分? 私にとっての春の到来は、そのいずれでもありません。 それは、3月上旬に確定申告を受理された瞬間です。 ずっと以前から、私は何日もかけて毎年これを済ませていましたが、高齢化につれて、その時間的、精神的な負担は年々増すばかりです。 例えば、年ごとに増える医療費の部分などは申請の準備に大変な時間を要します。 なかなか手を付ける気になれず、それでもやっとのことで決断し着手した後は、夜もなかなか寝付けず、夜中に目が覚める事もあるほど、夫婦二人がかりで、完了までに大きな時間的、精神的な労力を 「 使い果たした 」 という感じです。 書類の作成や提出を自宅でパソコンで済ませることは、別に難しくはありませんが、私の場合、特殊な事情が幾つかあるので、やはり、税務部門の人と毎回事前に話し合い、同意を得ないと作成内容に自信が持てないのです。 やっとの事で資料を揃え、説明し、内容が理解してもらえ、受理された瞬間、ドッと安堵感がこみあげてきて、その晩は久しぶりの祝杯をあげます。 以降、夜もグッスリ眠れるようになります。 ということで、今年も夫婦2人で1週間ほどの協力苦闘の末、めでたく3月12日の午後2時にすべてが終わり、この瞬間、我が家に春がやってきました。 でも、もうすぐ93歳の私は、この先、何歳までこのような精神的・肉体的、時間的な負担に耐えられるでしょうか。 耐えられなくなった時はどうしたらよいのでしょうか。 ![]() 昔々、中学生だった頃、当時の国語の国定教科書に 「 乙女峠の富士 」 という題名の随筆のような文章があったという記憶があるので、色々調べた挙句、『 中等國語 三 』(2) 昭和22年9月8日発行 同日翻刻発行 昭和23年6月25日修正発行 同日修正翻刻発行という中学校3年用の国語国定教科書に、「 乙女峠の富士 」 佐藤信衛(『 新潮 』 第43巻第6号より )が載っているという記載を見つけましたが、題名だけで、全文はまだ探し当てていません。 それはともかくとして、乙女峠という名前が魅力的ですし、私の家から車で1時間以内で行けるので、まだ車と免許証とを持っていた頃、私は何回か写真を撮りに行きました。 乙女峠は、神奈川県箱根町の仙石と静岡県御殿場市との境にあり、山梨県富士河口湖町の御坂峠 ( みさかとうげ )、静岡市清水区の薩た峠 ( さったとうげ たは土扁に垂 ) と併せ、「 富士見三峠 」 に数えられる絶景の地とされてきました。 しかし、この三つの峠をそれぞれ何回も訪れ,富士山を撮ってきた私の個人的な意見としては、乙女峠は他の二つよりもはっきり劣るように思います。 この写真にも鮮明に大きく写っていますが、戦後、手前の裾野のあたりに、日・米の軍事演習場や、数多くのゴルフ場が出来てしまったからです。 そのまた手前の御殿場市街にも、高速道のI.C.ほかの人工的施設が数多く出現しました。 「 乱開発された乙女峠の富士 」 のお口直しになるかどうか、2013年の4月末に撮った、私が 「 可愛らしい 」 富士山だと思っている写真を載せます。 東名高速の大井松田ICの北側の斜面を上に上にと登ってゆくと、名もないような標高数百mの山塊が幾重にも連なっています。 静かな尾根道をたどってゆくと、周囲に人工物はほとんどなく、遠くに富士山を望むことが出来ます。 ![]() 先月のお約束通り、富岳第三景を載せます。 昨年12月に載せた第一景 ( ダイアモンド逆さ富士 ) は、もう一度ご覧いただくのでしたらここをクリックしてください。 補足ですが、ダイアモンド富士は、富士山頂の西側からは日の出の際、東側からは日没の際に、年に各2回観察することが出来ます。 カシミール3D等の アプリで探せば所望の場所で観察できる日時を知ることが出来ます。 今月の写真は、今からキッカリ18年前の2007年2月28日に、伊豆半島の西北部、戸田の10kmほど北に在る、小さな小さな、静かな静かな漁村 「 井田 」 で撮った写真です。 満開の菜の花が 「 井田 」 の文字を描いています。 ![]() お蔭さまで、その後も私の心臓は正常状態を持続しています ( 2月末現在 )。 杖なしで、一人で1000歩くらいは屋外を歩けるようにもなってきました。 今月末90歳を迎えた妻カホルのために、子たち孫たち全員が集まり、市内某所で昼食会を開催してお祝いをしてくれました。 カホルは最近、私同様、腕や脚などあちこちが 「 痛い、痛い 」 と毎日嘆くようになり、長いこと続けてきた女声合唱団は徒歩で練習場に通うことが無理になって、昨年末で退会して団員中で最長老の座を他の方にゆずりました。 バスと電車で小田原まで行く英会話学校 ( ここでもクラスで最長老 ) は、頑張って毎週元気に続けています。 、 この欄では今まで、その月に自分が撮った写真を毎月1〜2枚載せてきましたが、昨年罹った脊柱管狭窄症の余波で、下肢がすっかり衰えてしまい、この1年ほどは屋外に出て写真を撮る機会がなくなってしまいました。 そこで、今年は、過去に自分が撮った富士山の写真を、毎月1枚ずつ載せてゆきたいと思います。 昨年12月にも 「 ダイアモンド逆さ富士 」 を載せたので、今年中続けられれば、計十三回になるかもしれません。 いずれにしても、このプランを完遂するためには、私はあと1年、元気で生きていなければなりませんが、果たしてそれだけの寿命があるでしょうか。 今月は駿河湾の沼津沖の淡島 ( あわしま ) で、2007年の5月はじめ、、夜明けの瞬間に撮った朝焼けの富士です。 この写真では、右真横から当たる朝日により、宝永火口のくぼみが、特に際立って目に入ります。 美しい山容の富士山にも、実はこんな大きな傷跡があったのでした。 海の上にはこれからどこに出かけるのか、鳥の群れが見えます。 富士山の頂上にも中腹にも、吹き上げる風と朝日を受けて赤く光る数百米の雪煙が舞い上がっています。 ![]() 1月11日の土曜日朝、毎朝夕に欠かさず行う血圧測定の際、普段は60前後の脈拍数が120ほどに急上昇しているのが見つかりました。 「 あ、また再発か・・・」 自覚症状は全くなかったが主治医宅に電話したら 「 病院は土曜日も診てくれるからすぐに行け 」 という指示。 タクシーに乗って飛び込むと、予約はなかったが直ぐに検査してくれ、心房細動の再発が確定しました。 今回も電気ショック療法( 簡単な麻酔後、眠っている間に1時間前後で済み、全く痛くない ) を受けて今回も全快しました。 前回の治療・回復からピッタリ3か月目、今回が通算3回目の発症でした。 心房細動にはいくつかの治療法がありますが、どれも再発は不可避のようです。 今後も何カ月かに一度こんなことが・・・と考えると憂鬱ですが、もう90年以上も昼夜休みなく拍動し続けてきた私の心臓がポンコツ寸前状態にあるのはやむをえません。 80歳以上の男性では1%以上が罹るという統計もあり、自覚症状が全くない場合が多いので、気づかずに放置していると、ほとんどの場合、ある日突然重症の脳梗塞になったり、 命を落としたりするのだそうです。 発症→発見→治療を短期間に実行するためには、毎日忘れずに血圧測定を行うか、自分で手首の脈を調べるかして、脈拍数の急上昇や脈拍の乱れの発生を発生直後に気づくことが大切との事。 こういう 「 簡単だが面倒くさいこと 」 をキチンと習慣的にやるかやらないかが、大きな災難の急襲を防げるかどうかの分かれ目だそうです。 皆様の周囲にも、「 あんなに丈夫で元気だった人がある日、 突然重症の脳梗塞にかかって寝たきりになってしまった 」 という方がいらっしゃるのではないでしょうか。 という次第で、私は医療技術の進歩のお陰で、注意を払いながらですが、元気に生きています。 下肢も、週1回デイケアのリハビリトレーニングに通うほか、毎日真面目にリハビリ体操に取り組み続けた結果か、 1年前は家の中を這って移動していたのが、今は杖に時々支えられながらも、屋外を一人でゆっくり千歩くらいは歩けるようになり、昨年暮れ以降、車に乗せてもらって時々外出し、買い物や外食を楽しめるようになりました。 ふたたび外の世界に触れられるようになれたのですから、今後はここに書けるような面白い体験にも時々は遭遇したいものと期待しています。 2001年の1−6月分はここをクリックしてください。 2001年の7−12月分はここをクリックしてください。 2002年の1−6月分はここをクリックしてください。 2002年の7−12月分はここをクリックしてください。 2003年の1−6月分はここをクリックしてください。 2003年の7−12月分はここをクリックしてください。 2004年の1−6月分はここをクリックしてください。 2004年の7−12月分はここをクリックしてください。 2005年の1−6月分はここをクリックしてください。 2005年の7−12月分はここをクリックしてください。 2006年の1−6月分はここをクリックしてください。 2006年の7−12月分はここをクリックしてください。 2007年の1−6月分はここをクリックしてください。 2007年の7−12月分はここをクリックしてください。 2008年の1−6月分はここをクリックしてください。 2008年の7−12月分はここをクリックしてください。 2009年の1−6月分はここをクリックしてください。 2009年の7−12月分はここをクリックしてください。 2010年の1−6月分はここをクリックしてください。 2010年の7−12月分はここをクリックしてください。 2011年の1−6月分はここをクリックしてください。 2011年の7−12月分はここをクリックしてください。 2012年の1−6月分はここをクリックしてください。 2012年の7−12月分はここをクリックしてください。 2013年の1−6月分はここをクリックしてください。 2013年の7−12月分はここをクリックしてください。 2014年の1−6月分はここをクリックしてください。 2014年の7−12月分はここをクリックしてください。 2015年の1−6月分はここをクリックしてください。 2015年の7−12月分はここをクリックしてください。 2021年分はここをクリックしてください。 2022年分はここをクリックしてください。 2023年分はここをクリックしてください。 2024年分はここをクリックしてください。 ご感想、ご意見、ご質問などがあれば 熊井 章 まで。![]() |