私と家族の近況



*あしがらみち*

2024年分:最新は2024年12月度


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12月度 (11:57 p.m.、Dec.31, 2024)

 
最初に・・・あと数時間で訪れる2025年、皆様のご無事とご健勝とを、心からお祈り申し上げます。
この写真は、私が10年近く前に撮った、田植え直後の水田に映った 「 ダイアモンド逆さ富士 」 です。


 先日、最近の人口統計資料をいくつか用いていろいろ計算して見たところ、いわゆる 「 健康寿命 」 の状態で暮らしている人は90歳代では男女ともほぼ7%でした。 「 女性の方がずっと長生きなんじゃないの? 」 と言われるでしょう。 確かに、単に寿命だけを見れば、女性の方がずっと長いのです。 しかし、健康寿命の定義で健康とされるためには、「 要介護1級 」 以上の認定を 受けていないことや、重い認知症にかかっていないことなどが必要で、高齢女性はこの二つの点で、高齢男性よりよくないので、「 健康な90歳代 」 ということになると、比率の男女間差はほとんどなくなってしまうのです。

 では、夫婦とも90歳代で、共に健康寿命を保っているというケースは?となると、確率論的に単純に考えれば、その確率は 「 7%の2乗 」、すなわち0.5%という事になります。 つまり夫婦とも90歳代で、健康寿命を保っているのは、200組に1組ということになります。 先日、私たち夫婦の親戚、友人、同級生などの90歳以上のご夫婦を、何十組も思い出してみましたが、上記に該当する健康なご夫婦は、たったひと組しか思いだせませんでした。  私たち夫婦は、このまま健康でいられれば、来年から、この200組に1組の幸せな夫婦ということになります。 毎日のように 「 あそこが痛い、ここが・・・ 」 と嘆いてはいますが、実はこんな幸せな状態にいるのだ ということを知りました。 有り難いには、「 滅多にないことだ 」 と 「 感謝すべきことだ 」 との二つの意味がありますが、私たちの場合は両方です。

 ところで、齢をとるほど月日が過ぎ去る速度が速く感じられるようになるという 「 ジャネーの法則 」 というのがあります ( 法則というけれど、仮説か経験則程度のものです ) が、 この1年は今までにないほどアッという間に過ぎ去っていった感じです。

 つい先日、カレンダーを新しいものに掛け変えたばかりなのに、もう来年のカレンダーがあちこちから送られてきて、それらを、たった1枚に減ってしまった今年のカレンダーのうしろに取り付ける・・・この仕事は、 つい先日やったばかりのように感じられますが、あれは実は1年も前の事だったのでした。

 もう30年以上も前の話ですが・・・当時在米中の私たち夫婦は、毎月1回、月末の土曜日に250kmほど離れた大都会アトランタまで車を飛ばしました。 ホテルで1泊の部屋をとると、 あちこち市内を回って1か月分の日本食材を巨大な冷凍箱いっぱいに買い集めた後、夕食は必ず日本人経営のすし屋に行き、久しぶりの味に舌鼓を打ちます。 そして次は喫茶店で何かを飲みながら、 必ずと言ってよいほど私はブラウニーを注文しました。

 米国のブラウニー ( チョコレートケーキの一種 ) は、バカでかい上に、これでもかというほど砂糖を使っていて、ものすごく甘いのです。 妻は見向きもしませんでした。 最近、私はなぜかふとその味を思いだし、 無性にこのチョコレートケーキが食べたくなり、アマゾンで探して取り寄せました。

 しかし、糖尿病患者の私が血糖値を心配しながら食べたこの日本製のブラウニーは、思い出の品とは似ても似つかぬ外形と歯ざわりと甘味・・・ささやかですが 「 大きな失望 」 を味わった師走でした。

 心房細動は幸いその後も再発しません。 下肢の筋肉はこの齢での再生はもう望み薄らしく、施設にも通い、半年も真面目にリハビリに努めましたが、いまだに1年前のように杖なしでサッサとは歩けません。 来年もこれ以上悪くならないようにと退屈な体操に毎日励むしかないのでしょう。

11月度 (Nov.30, 2024)

 スマホの機体老化が進んで、いつ壊れるか心配という状況になり、やむを得ず新品に買い替えたのが10月上旬のことでした。 そのひと騒ぎが治まったばかりだというのに、今度は長いこと使い続けてきたノートパソコンの作動状態が急速に悪化し始め、ついに 「 ご臨終も近いのでは 」 という感じになってきました。 使用年数から言えば、まあ致し方のないことで、7年以上も毎日5時間以上の酷使によく耐えてきたとものと、褒めてやりたいほどです。

 Windows10 のサポート終了の期限も来年10月に迫ってきていることですし、今後も毎日数時間使う必要があるのですから、本当に壊れてしまう前に、快適な使い心地のWindows11 の新品を買い、大切な中身を移し替えておこうと考えました。

 その機種選定、ネットでの機体購入、データの移しこみ、周辺機器との接続等が、先月下旬の10日ほどの間に慌ただしく終了しました。 プログラムやデータの移しこみは、7年前のときは3日ほどかけて自分一人でやりましたが、気力、体力、知力が衰えた今回は、若い専門家の友人にいろいろと教えてもらい、やってもらいました。

 このホームページの10月分のアップロードも、実はその新らしいパソコンが稼働し始めた10月31日に、滑り込みで済ませることができたのでした。 私にとってパソコンはスマホ以上の絶対必需品で、これ無しでは一日も暮らせないと言ってよいほどなのです。

 ところで、ノートパソコンの価格は、スマホのそれの 1/3 くらいです。 スマホは高すぎますね。 今まで使っていたノートパソコンを買ったのは2017年でした。 今回の品は、7年前購入のこの品 ( 日本製 ) より 性能はグンと上がっているのに価格は少し安くなっています。 ところで、今回購入のスマホもノートパソコンも、ともに中国製です。

 中国製のこれら高級電子機器の品質は、前記の専門家の意見では現状 「 玉石混交 」だそうですが、玉の方を選べば品質、アフターサービス等、すべての点でまったく問題ないということでした。  日本の一流企業が社員に使わせるノートパソコンの多くが、経費削減の意味もあって今や中国製だとのことです。 20年以上も前に妻のために台湾製のノートパソコンを買ったときに経験した大きな失望感のようなものは、もう全くありません

 夏に発症した心房細動は、先月書いた電気ショック療法のおかげで正常化し、その後現在まで8週間、再発を抑えることができています。 この状態がいつまで続くか楽しみと不安が半々です。 1年前に再発した脊柱管狭窄症は今年春には殆ど治りましたが、その間、歩行がほとんど出来なかったため、脚力がすっかり衰えてしまいました。 何とか回復しようと、デイサービスのリハビリに通い、自宅でも鍛錬に励んでいますが、なかなか目に見えた効果が現れません。 それでも、昨年暮れ以来 「 要介護1 」 と認定されていたのが、今月、一段階改善と認定されて 「 要支援2 」 となりました。 

10月度 (Oct.31, 2024)

 つい最近まで私が使用してきたスマホは、8年ほど前に夫婦お揃いで買った iPhone8 でした。 今月まで便利に使ってきましたが、さすがに使用頻度の多い私のスマホは、最近メカ的に不調な部分がいくつも出てきました。

 このまま使っていて、ある日突然動かなくなったらどうしようか・・・大事な写真などはパソコンにコピーしてありますが、LINEが使えなくなったら、きょうだいたち、子供たち、孫たち、 友人たちとの日常的な交流が当座途絶えてしまうし、携帯電話機能を持たなければ出先からの緊急の連絡もできない。 最新のニュースに外出先で触れることもできない・・・

 自分の92歳という年齢を考えたら、現用スマホを修理に出すのが妥当でしょう。 新品に買い替えても、買った途端に死ぬかもしれないし・・・と迷ったのですが、死んだあとは子供たちや孫たちが奪い合いで使ってくれるだろう・・・今後は体が不自由になればなるほど、スマホのお世話になる場面も増えることだろうし・・・と考え、いろいろと若い人に訊ね、自分でも勉強し考えた挙句、 思い切って新品を買うことにしました。

 どの機種を、どこの店でどのようにして買うかについては、いろいろと若い人に訊ね、自分でもいろいろ調べて考えた挙句、遂に10月19日に、最新型の iPhone16 plus を買ってしまいました。 いつ死んでもおかしくない高齢なのに、こんな高価なおもちゃ?を買ってしまったのでは、勿体なくて、そうすぐには死ねません。  出来ることなら、このスマホの更新が、今後の元気な生活の推進剤となって欲しいものです。  これを楽しくいじくりまわしながら、あと5年とは言いませんが、何とか3年くらいは生かせて頂きたいものと祈るばかりです。

 データやアプリの移行は、自分でやろうと思い「 クイックスタート」 をみっちり勉強しましたが、失敗すると元も子もなくなると考え、娘夫婦にやってもらいました。 その後、街に出かけ、電話や LINE の送受信、SUICA の利用、d払いなどを無事問題なく実行できました。 よしよし・・・

 心房細動の方は、主治医から専門病院の専門医を紹介していただき、まずは薬の服用による治療に努めることとなりましたが、1か月経っても効果が見られず、 今月、強い電気ショックを心臓に与えるというちょっと怖い治療法を施されたところ成功し、一応快癒しましたので、 精神的には非常に安心できました。 「 一応 」 と申したのは、またいつ突如再発するかわからない ( と医師がおっしゃる ) からで、薬の服用は継続しています。 一方、衰えた下肢の強化のためのリハビリも、 週1回のデイサービスでのトレーニングと、毎日の自宅での体操とを忍耐強く続けていますが、この齢になると一度失った筋肉と運動機能はなかなか戻らないものらしく、はかばかしい効果は目下のところ見られません。

9月度 (Sept.30, 2024)


 上の写真をご覧ください。 サンパラソルという、美しい花を長期間咲かせ続ける植物ですがご存知でしょうか。 マンデビラという中南米原産のキョウチクトウ科の植物を、サントリーが品種改良して 園芸品種の一つとしたものだそうで、春さきに多くの花屋で小さな苗が売られています。

 キョウチクトウの花は、非常に強い毒性があることで知られています。 オレアンドリンという成分を含んでおり、この物質の致死量は青酸カリ以下の少量と言われるほどです。 キョウチクトウの枝を燃やして出た 煙を吸っただけで人が死んだ事故すらあったそうです。

 サンパラソルもキョウチクトウ科の花なので、同じように毒性があります。 とは言え、花や葉をさわっただけで中毒を起こすというほどではありません。 茎やつるを切ったときに切り口から出る白い粘液にさわると、 かぶれを起こすなどの症状が現れることもあるので、手入れの際に手袋をするなど、有毒な粘液に触らないようにすれば、誰でも安全に楽しく栽培できる花です。 実は私は最近までこの毒性について全く知らず、 粘液が手に付着したことも何度かありましたが、幸い何もトラブルは起きませんでした。 茎の切り口から出るあの白い粘液を、ちょっと舐めてみようとする人だっているかも知れませんが、 花屋で売っている苗にはこの毒性についての注意書きがなかったように思います。

 春先に小さな苗を買ってきて鉢に植えれば、ときどき肥料と水を与えるだけで、5月から10月くらいまで長期間、次々に咲き続ける赤、白、ピンク等の花を楽しむことができます。  通常の植物の花は数日から長くても1〜2か月くらいしか咲き続けませんから、半年間も満開状態を鑑賞し続けられるこの花は珍しいと言えます。

 とは言え、さすがに冬がやってくるとこの熱帯原産の植物は枯れてしまいますので、通常は一年草の植物と考えられていて、毎年春に新しく苗を買い替えます。 私もそうでした。 しかし、寒くなる前に葉を一部残して 伸びた小枝やつるを剪定したのち、鉢ごと室内に取り込み、ガラス越しに陽が当たる場所に置き、時々水をやれば、越冬させることができます。 無事冬を越し春になったら、鉢を大きなものに替え、土を入れ替え、 肥料をたっぷり与えます。 これを毎年繰り返していると、樹体は年ごとに次第にガッシリと太く大きく( 購入時の十倍以上に )なり、咲く花の数もどんどん増えます。

 この越冬・多年栽培に自己流の試行錯誤で私が挑戦し始めたのは5年ほど前のことです。 写真にある4本の株は今年で3〜5年目になる巨木?たちです。 5月から咲き続け、 時々水や肥 料を与えるだけで9月下旬の現在も満開です。 現在の私の心境・・・「 そうだ。 サンパラソルと長生き競争でもしてみるか!!! 」

 再発した心房細動は、医師がくださった薬を飲み続けながら、良くも悪くもならない状態のもと、毎日を過ごしています。 医師の解説が面白い。 「 年をとると、遅かれ早かれ誰でも眼が白内障になってゆくでしょう?  それと同様に心臓も使い込んでゆくと老年になって誰でも遅かれ早かれ心房細動が起きるのですよ・・・」 というのです。 そうであるなら、罹ったらすぐ死ぬというわけでもないのですし、気楽につきあってゆくしか ないのでしょうね。 白内障の場合、昔は次第に失明してゆく運命を甘受していましたが、現在では、近年発達した有効な手術により、誰でもまたよく見えるようになります。 心房細動もやがてそうなることでしょう。

8月度 (Sept.1, 2024)

 庭の 「 さるすべり 」 が満開の写真を載せようと思っているうちに気が変わってこの文章を書きはじめました・・・1988年の真夏のある日、私は米国ジョージャ州アトランタ市の街角に炎天下一人で立ち尽くしていました。  道の両側にはそこここにさるすべり ( crape myrtle クレイプ マートル ) の樹があり、深紅、ピンク、白などの花が満開でした。 私はたった一人で辿り着いたこの町で日本総領事館を訪ねて、 挨拶がてら新工場の立地・建設に関連した疑問を、教えてもらおうと急いでいたのでしたが、ある店に入り、番地を見せてこの道をどれくらい行けば着くのかと聞くと、5分ほどだと言うのです。  ついでに表に咲いている赤い花は何というのかと聞いたら、親切に文字 ( 上記 ) まで書いて教えてくれました。

 そこで総領事館に向かって歩き始めましたが、どこまで行っても着きません。 ふと気づきました。 米国では何分と答えたらそれは車で何分という事なのでした。 流しのタクシーなど全く通らない炎天下の道路を 1時間ほど歩いてやっとのことで総領事館にたどり着いたとき、まだ正式着任前で車など持っていなかった私はもう、ただただ情けなくて涙も出ませんでした。 その時街のあちこちで目にした深紅の百日紅の花を、 私は今でも決して忘れません。

 話変わって・・・「 引っ越し三回火事一回 」 という言いならわしがあります。 私は、引っ越しを3回もすると、大事な家財道具が無くなったり壊れたりするからそう言うのかと思っていたのですが、今日ネットで調べたら、 「 引越しは何かと費用がかかるため、引越しが3回もあると、火事に遭うのと同然に費用がかさむ 」 と書いてありました。

 まあ、大した違いではないので、どちらでもよいけれど、皆さんは今までにいったい何回引っ越しをなさいましたか。 物心ついた5歳以降について記憶をたどってみたら、 私は今までに、なんと17回も引っ越しをしていました。

 戦時中の縁故疎開では群馬県の親戚の家々を渡り歩いてお世話になりましたし、終戦直前は不潔きわまる農家の屋根裏部屋に引っ越しました。 他にも、1988年には米国に移住する際の 外国への引っ越し、 その後、米国内での引っ越し、米国から帰国する時の引っ越しなど、珍しい、苦労の多い引っ越し体験も数多くありました。

 そして多分、もう1回だけ、人生の最後に 「 介護施設に入れられるときの引っ越し 」 が私を待っています。

 今から20年ほど前、認知症が進んできた母が必死でいやがるのをなだめすかして、無理やり介護施設に送り込んだ時の、あのつらい思い出が頭に浮かび、私の場合も、最後の引っ越しは、 もしかすると一生のうちで一番つらい引っ越しになるのだろうかと、今から憂鬱になります。 出来ることならこの引っ越しだけは 「 なし 」 で済ませ、自宅から直接 「 あの世 」 に引っ越したいものです、

 余談ですが、私が現在住んでいるこの神奈川県の農村地帯でも、昔から住んでおられる農家の当主の方々は、代々、ほとんど全員が生まれてから死ぬまで生家に住み続け、一度も引っ越しをしない方々です。  もちろん、昔からのわら葺きの農家の建物は、建て替えられてモダンな現代風の建物に変わっていますが・・・私のような 「 流浪の民 」 には想像もできない生涯です。  この方々は、「 一度でよいから引っ越しというものを体験して、遠くの未知の土地に住んでみたかった 」 などと、時には思うのでしょうか???

  3月7日に突然発症し、服薬1週間で自然に治った 「 心房細動 」( 本稿の4月度に記載 ) は、その後なりを潜めていましたが、4か月余り経った7月28日に再発しました。  今回は薬を使いながら安静にしていても治りません。 医師は 「 高齢ですからもう手術などせず、薬を使用し続けて現状の心臓と一生付き合ってゆくようですね 」 と言います。   脚力減退防止のため、週1回、半日の運動機能増進のためのリハビリ訓練に通っています。

7月度 (July 31, 2024)

   庭の片隅に今年も咲いたユリ


  ジャネーの法則というのがありますが、下記のように、この法則を本当に身に染みて感じる今日この頃です。

 今月31日間に外出したのは、理髪1回のほかは、歯科医2回、内科医1回、泌尿器科医1回、眼科医1回 ( これらすべては年1回の定期検診か毎月の 「 処方箋もらい 」 で、どこかが急に悪くなったのではない )、それに5月度に書いた デイサービス施設での四肢のリハビリ訓練4回、車の乗せてもらって買い物に2回・・・これっきりでした。 何とも情けない現状なのに、1か月はアッという間に過ぎてゆきました。 余談はさておき、先月書いたことの続きを、 今月も書かせていただきます。

 1988年の渡米以前、私は、1963年のワシントン大行進に続く、翌年の公民権法 ( J.F.ケネディ ) の制定等により、以降、米国の白人と黒人との間の人種差別は徐々に改善し解消されつつあるのだろうと、 漠然ととらえていましたが「 とんでもない 」 という事がそれから25年も後の渡米後わかってきました ( 先月記述 )。

 次は、「 では白人でも黒人でもない私は、今から30年以上前の当時、どのようにこの米国の小都市で社会から処遇されたのか 」 という話と、人種差別からは一旦横道にそれますが、 「 米国社会は、白人同士の間でなら、所得格差は大きくても、階級や身分の格差などは殆ど無いと思っていたが、これも全然違う という話です。

 私が1988年に移住したこの米国南部のこの小都市には、その時はまだ、私以外に東洋人は一人も住んでいませんでした。 つまり町は白人と黒人とだけから成り立っていました。  そこに突然私ほかの日本人が数十人も移住してくる事になったのです。 市の経済的発展、税収増、地域住民の雇用機会の増加などを考え、当時、この小都市でも、日本企業の進出・工場建設に対してほとんどの市民が大歓迎でした。

 しかし、工場建設と操業指導のため短期間住みつく数十人の日本人とその家族を、この人種差別や階級意識のきつい地域社会が 「 どう受け入れるか 」 は、彼らにとって極めて不安で難しい問題だったのだと、 移住してしばらくしてから、私は知ることになります。

 最初の大問題は、日本人をどの区域のどのような家に住まわせ、子弟をどの学校に迎え入れるかという事でした。 まさか 「 白人ではないから黒人居住区域に住まわせたら 」 とは言えません。  事前に対応方法を決めるために、市の当局者たちは、州政府の幹部たち、市の 「 実力者 」 たちと、何度も何度も集まり協議し、合意を申し合わせたのだということを、私は移住後だいぶ経ってから知ることになりました。  州内の他の、すでに日系企業が進出している都市に、日本人受け入れの対応状況を調べにも行ったようです。

 数家族の市の 「 実力者 」 というのは、昔、その小さな都市が誕生した頃に、そこに企業を設立し、貧しい白人たちや黒人たちを雇い、綿紡績のような素朴な産業を興し成功した 「 お偉いファミリー 」 の子孫たちで、 一般人たちからは 「 Mr.*** 」 と呼ばれています。 米国流に親しげにファーストネームで呼びかけたりしてはなりません。 酒田市における「 本間様 」に近い感じです。

 面積約35平方kmに人口は約2.3万人というこの小さな都市に、ある日たった一人の最初の黄色人種として移住していった私は、まず住む家を探す、自動車を買う、運転免許試験に合格する ( 日本の国際免許は 移住後3か月で失効 )、銀行口座を開く、などという一連の事務手続きを次々に行う必要がありました。

 上記の事前協議の結果に従い、市内最大の不動産業者の幹部や地方銀行の支店長などが単身移住直後の私を出迎え、笑顔で親切にいろいろ教え、案内し、世話してくれました。  住宅は白人の中でも最上流の人たちしか住む事が許されない、最もステータスの高い区域の中の 「 豪邸 」 を幾つも根気よく見学させ、私が選んだ家を売ってくれました。  私を最もステータスの高い2つのカントリークラブの 「 白人以外では最初の会員 」 に推挙してくれました。 当時はメンバーがすべて白人だったロータリ−クラブにも入らされました。

 とは言え、私は、「 名誉白人 」 つまり、儀礼的に白人並みに扱ってもらっただけのように、今は思えます。 私たち夫婦を本当に対等の人間、自分たちの仲間として遇し、心から対等に交際してくれたのは、正統の米国人、 つまりイングランド系白人の中ではごく一部の中流のインテリたちだけで、残りはアイルランド系、イタリア系、ドイツ系、それにユダヤ教徒や東洋人と結婚した白人など、白人社会の中では多かれ少なかれ 「 非正統 」 視されているグループの人たちばかりでした。 これらの人たちとは、帰国後も現在まで 「 本当の友人 」 になり続けています。

   だいぶ経ってから、白人たちの中にも階級は厳然として存在することがわかってきました。 だいぶのちの話ですが、私の会社のある白人女性社員は、課長に昇進した翌週、車をランクが上のものに乗り変えました。  翌月には地域の 「 著名企業の課長クラスが住む住宅区域 」 に家を見つけて引っ越してゆきました。 これが 「 サクセス 」 の具現・体感なのです。

 私が最初に自分で選び買った車は、GM の Pontiac Bonneville という 中型車で、アクセルにちょっと右足を乗せただけで猛然と加速する点がお気に入りでした。  然し、何も知らない私が買ったこの車は、 実は「 若手管理職 」の人たちのための車でした。 ある日、米人の人事部長と購買課長が私のところにやってきて、「 あなたは今日からこの車に乗り替えてください 」 と言われてキーを渡されたのは Lincoln Continental の 最高クラスの車でした。 米人幹部たちは社長が Bonneville などに 乗っていたら社員として恥ずかしいと言うのです。

 そうそう、私は当初の猛烈に忙しい、まだ独り暮らしの時期、昼食は大抵マクドナルドに飛び込んで済ませていました。 このことについてもすぐに、米人幹部たちから、「 あなたは今後はここで昼食を食べてください 」と 「 厳命 」 され、市内のいくつかの高級レストランだけを指定されました。

 日本では、社会的地位などに関係なく、金さえあれば誰でも高級住宅地の豪邸に住めます。 最高級の外車を所有することだってできます。 しかし、この米国南部の小都市では、 白人たちでさえ、誰もがその階層の人たちだけが住む地域に住み、その階級の人たちに相応しいとされるクラスの車に乗るのです。 日本は米国 ( のこの地域 ) より、はるかに階層意識や階級差別の少ない、 ずっと平等で 「 民主的 」 な国です。

6月度 (June 26, 2024)

毎年丹精込めて世話している 「 サンパラソル 」 の花が今年も満開になりました。通常は一年草で冬には枯れますが、
私は秋に花が終わった後剪定し、冬のあいだ中、陽の当たる室内に置いておきます。  すると3月末に屋外に出した後、
しばらくすると新芽が出 て、立派な花が沢山咲き多年草化します。4鉢のうち2つは4年目、残りは3年目です。



 92歳ともなり、ましてや先月書いたように下肢が弱ってくると、一日に数時間のパソコン操作のほかには、医者、歯医者、デイサービでのリハビリ等での外出くらいしかする事がないので、ここに書くタネが見つかりません。

 そこで少し趣向を変えて、以前に体験した面白い体験や考えさせられた事などを書いてみようと考えました。 思い出し、調べながら書き綴ることはボケ防止にもなると思います。

 随分昔の出来事なのに今も時々突然ふと印象深く思い出され、時には感慨にふけってしまう・・・そういう出来事は、どなたも幾つもお持ちでしょう。 私にも幾つかあります。 それらを、死ぬ前に書き残しておきたいと、 最近、ふと思うのです。 ここでは30年ほど以前、米国南東部のある小都市に在住中遭遇した様々な人種差別体験や、呑気なことに帰国後ようやく 「 あれは私への人種差別だったのか 」 と気が付いた事などについて、いくつかを書きとめておきたいと思います。

 日本の若い女性たちの中には、アフリカ系の黒人男性に関心を抱き、付き合い、同棲や結婚に至る人たちが、少なからずいます。 その一歩手前で両親に猛反対され、悩んでいる人たちも沢山います。  ネット上では人生相談のような形で、この種の悩みが数多く打ち明けられ、議論されています。 そういう女性たちは、ほとんどの場合親たちや周囲の猛反対で苦しみますが、多くがそれを乗り越えて前に進んでゆきます。

( 余談ですが、日本人男性と黒人女性との結びつきは驚くほど少ない。 大坂なおみも八村塁もオコエ瑠偉もケンブリッジ飛鳥も、みな母親が日本人です。 また、国際結婚全体で見れば夫が日本人で妻がアジア人という 組み合わせが約2/3です )

 1990年代、私が米国南東部の、とある地方小都市に在る日系企業の生産拠点の経営にあたっていたある日、若い黒人男性と若い日本人女性とが連れ立って私のデスクの前に立ちました。  二人は日本で知り合い、最近結婚し、その後男性の故郷であるその小都市に日本から移ってきたばかりでした。 男性は私の会社の作業者に応募し、合格し、最近勤め始めたばかりでした。  通常、新入の米人作業者が、社長の私のところまでいちいち入社の挨拶に来ることなどないのですが、彼は奥さんが日本人なので、2人で挨拶したいと希望し、それを秘書が私に取りつぎ、私も興味があったので、 彼らはその日、私の部屋にやってきたのでした。

 二人が挨拶と自己紹介をし、私が歓迎と激励の挨拶を終えた後、私は、女性がすごく元気がないことに気が付きました。 そしてその理由を瞬間的に悟ったような気がしました。 夫の黒人青年が、明るい、心の澄んだ、頭のよさそうな好青年であることが私にはすぐに理解できました。 日本のどこかで、彼女が彼に好意を抱いたことは 素直に納得できました。 彼女も 「 うわついた 」 ところなど全く感じられない、キチンと育てられた 「 レディ 」 だと思えました。 しかし、この町に夫とともに移住してきた時、 彼女は愕然としたに相違ないのです。

 私がその地に住みついた今から36年前当時 ( そして現在でも )、この保守的な米国南部の小都市では、黒人と白人 ( 人口比約3:7 ) とは全く違う区域に、言わば 「 断絶状態 」 で分かれて住んでいました。  黒人が白人の居住区域に住居を求めようとしても、不動産屋は決してそれを実現させません。 その逆を行おうという物好きな白人も絶対にいません。 地域のレストランでは、私が移住した時点より10年ほど前までは すべての店内で 「 白黒別ゾーン着席 」 で、多くの店には当時の 「 仕切り 」 の跡が残っていました。 キリスト教会さえ黒人用と白人用 ( 建物ははるかに立派 ) が、どの宗派でも完全に別々でした。

 黒人居住区域の住宅は白人たちのそれよりも、はるかに小さく粗末です。 収入が少ないからです。 居住地区ごとの入念な線引きにより、小・中学校の通学区も厳然と分かれており、その結果どの学校も生徒は黒人だけか 白人だけかでした ( 例外はあったかもしれません )。 それをある進歩的な白人の教育長が改革しようとして、1980年代に学区の線引き変更による白黒共学を実現しようと試みた時、彼は即座にリコールされ追放されてしまいました。  白人居住区域に、配達や家事手伝いなどのために時に黒人が入ることはあっても、白人が黒人の知人を自宅に客として招くことに対しては、近隣からの無言の強い否定圧力がありました。

 彼女はきっと、夫が生まれ育ったその米国の小都市では、人々は人種にかかわらず仲良く混じりあって住み、生活し、白黒仲よく交流しているだろうとしか予想していなかったのでしょう。  それなのに、移り住んでみたら自宅の区域は貧しい黒人家庭が100%で、白人は一人も住んでいない・・・そういう現実に触れた瞬間、彼女が抱いていた 「 米国人としての米国生活 」 への明るく楽しい期待感は音を立てて崩れ去ったことでしょう。 それが、彼女が新婚早々なのに 「 この上なく寂しそうな表情 」 であった原因ではないかと想像し、 私の心は強く痛んだのでした。

5月度 (June 1, 2024)

 今月、心身とも 「 どうにかやっと 」 健康な状態で、めでたく92歳の誕生日を迎えることができました。   7日には工場時代の、12日には研究所時代の、いずれも半世紀ほども前の部下の方々が、多数お集まりくださり、お祝いをしてくださいました。 家に戻ってからも、幸せを噛みしめ、血糖値を気にしつつ更に乾杯!

 昨年11月から今年1月まで苦しんだ脊柱管狭窄症のため、2か月半ほどほとんど歩行ができず、その結果、腿やふくらはぎの筋肉が非常に衰え、体重は2.5kgほども減ってしまいました。  毎日欠かさず3,000歩以上はウォーキングしていた私の歩行機能は大幅に低下してしまいました。

 2月度に記載したように、「 要介護1級 」 に認定されました。 有難いことだとと感謝する気持ちと、情けない事態だとガッカリする気持ちとが半々の奇妙な心理状態ですが、重い腰を上げて、 市内の 「 デイサービスセンター 」 の施設で週1回、半日 「 通所介護 」 を受けて歩行機能の回復・向上を図ることにしました。  生まれて初めてこのような施設のお世話になることとなり、事前の手続きその他は多少面倒でしたが、地域のケアマネジャーその他関連部門の若い方たちがどんな仕事をし、どんなふうに社会に役立っているのか、 よく理解できました。

 私の友人が通っているデイサービス施設では、食事や入浴、いくつかの娯楽等が提供され、朝から夕方まで楽しく過ごせると聞きましたが、私が通うことに決めた施設では、 その種のサービスは一切なく、3時間以上にわたり、運動器具を用いた機能訓練や体操、マッサージ等を、短時間の休憩をはさみつつ十数種ほど次々にみっちりと行うだけです。  提供されるのはお茶と体温や血圧の測定だけです。

 「 これ以上は御免! 」 と思う一歩手前くらいまで、若い男女のトレーナーたちに優しく、しかし真剣にシゴかれ?ます。 幸い自宅との間を車で送迎してくだるので楽に通えますし、 介護保険の補助があるので費用は安いのですが、相当強固な意志がないと続きません。 今回何か所もの施設を事前に見学して分かったことは 「 デイサービス 」 の施設とひと口に言っても、 内容は相当多岐にわたるということです。 ですから、事前に見学し、内容をよく吟味して自分の要望に合った内容の施設を選ぶことが肝要です。 機能回復効果は? まだ4回しか通っていないのでわかりません。

   デイサービスセンターのスタッフの若い人たちの仕事の内容、働きぶり、職場の雰囲気などにも、驚いたり感心したりすることが多く、そう言えば、たまに訪れる商店や宿泊施設で接客をしている人たち以外は、 こういう 「 社会の第一線で働く若い人たちの労働の現場 」 に、私は退職以来もう30年ほども接していなかった事に気づいたのでした。 また、こういう制度や施設の存在を本当に有難く思う一方で、私のような 何一つ世の中の役に立つ事をしていない老人が、こんな安い料金で半日も、若くて元気な彼らのお世話になっていて、果たしてよいものだろうかと、申し訳ない気持になったりもしています。

 という次第で、これ以上悪くなって、日常生活の多くをを他人様のお世話になって暮らすようになる事だけは何としても防ぎたい。 いや、せめてそうなってしまうのを一日でも遅らせたい・・・そのために 「 自分の健康は自分で守る 」 努力を真剣に続けてゆこう・・・そう考えて上記のように歩行機能の回復、向上を目指し、自宅での毎日の復習を含め、日々訓練を続けているのです。

4月度 (Apr. 30, 2024)



3月末から4月にかけて咲くミツマタの花は通常は黄色の単色ですが、このように美しい多色の変わった種類のもあります。

 以下の文章は、たぶん他人様には面白くもない 「 年寄りのたわごと 」 みたいなものでしょうが、書かせていただきます。 80歳を過ぎた方はお分かりになるかもしれません。

 パソコンやスマホは、所有者の心身の老化が進めば進むほど、設定、利用、メンテなどの作業が困難になります。 しかし、心身の老化が進めば進むほど、これらの便利さ、必要性は増しますね。  運転免許は返上したのに買い物に行く脚力や、重い荷物を持つ腕力は衰える一方なので、ネット通販に頼る回数は増えるばかりです。 銀行に行くための路線バスの本数はどんどん減るので、送金等の場合 インターネットバンキングはとても便利です。 スマホで LINE を使えば電話代もかからないし、郵便ポストまではもちろん、自宅内で固定電話の電話機まで急ぎ歩く必要すらありません。 確定申告だってパソコンを使えば 自宅に居ながら済ませられます。

 このように、心身の老化が進むほどデジタル化の必要性や便利さは増すのに、老化が進むほど私の心身はデジタル化に適応しにくくなってきています・・・スマホの操作 ひとつとっても、指先は乾燥してくるし、認証用の指紋はすり減ってきているので、以前のような迅速なタップ操作はできなくなっています。 必要性は増大するのに、対応力は減退してゆく・・・ この矛盾にどう対処してゆくかは、今後の私の生活においては大きな課題です。

 3月末まで私が使っていたノートパソコン(A) は、2011年11月に購入した品で、当初は Windows 7 でしたが、しばらく使った後、Windows10 に入れ換え、その後ハードディスク( HDD )を SSD に取り換え、今日まで なんと延べ12年半にわたって使用してきました。 途中数年間ほどは、2017年の1月に買った Windows10 のノートパソコン(B) を使ったりもしましたが、このパソコンは何となく気に入らなかったので、 数年でまた(A) に戻り、(B) は放置してありました。

 ところが(A) は、最近さすがに老化が激しく、1年ほど前から本体とモニターとの接続部分にガタが来て画像が乱れだし、また、リチゥムイオン電池の寿命が尽きて充電不能となり、これでは突然の停電の際に問題だと考えたので、 ついに引退してもらうことになりました。 私の余命も短いことですし、新しいパソコンを買うのはやめて、HDDをSSDに取り換えたきり、押し入れの奥にしまってあった(B) を引っ張り出し、再登場願うことにしました。

(A) や(B) を購入した当初は、種々のアプリのインストール、周辺機器との接続、データのインポート等は、5日くらいかけて自分一人で全部やれたのでしたが、今回(A) から(B) に乗り換えるに際しては、知力と体力の 老化衰退には勝てず、一部を、クイックアシストを使って若い専門家の友人に手伝ってもらいました。 いろいろと大変な数日間でしたが、3月末日にすべてが完了し、世間では新学期や新入社がスタートする 4月1日から、非常に快適な、何の懸念も問題点もないパソコンシステムを使える、楽しく爽やかな日々がやってきたのです

 次にパソコンでこういう苦労をする時期はいつかな?と考えると、Windows10 の サポートが終了する来年の10月頃に、またまた今回と同じような苦労をしないとなりません。 でも、その時点で92歳の私は果たして 生きているでしょうか? 生きていたとしても、パソコンを上手に操れるだけの知力と体力が残っているでしょうか? 懸念と期待とが入り混じった現在の心境ですが、頑張ることにします。

 ところで、先月書いた 「 心房細動 」 は、処方された貼り薬を使用し、普通に暮らしていたら、発症からちょうど1週間たったころ、脈拍数が突然、以前と同じ範囲に戻り、脈拍の乱れも解消したように思えたので、 検査してもらいました。 すると、「 治ってるよ! ラッキーだね! 」 と医師も驚き喜んでくださいました。 こういう幸運な自然治癒は、確率は高くないが時々あるのだそうです。  昨年暮れに発症した脊柱管狭窄症の1か月半に及ぶ激痛も2月のある日以降、突然だいぶ軽くなりましたし、このところ運の良い私は、もう少しだけ元気に生きさせてもらえそうです。

  
3月度 (Mar. 31, 2024)

 先月ご紹介したリビングストン・デイジーはその後もすくすくと成長してゆき、3月 には下の様な立派な満開の状態になりました。

 なお、この南アフリカ原産の花の名前の「リビングストン」は、スコットランド生まれの宣教師であり、またアフリカ探検家でもあり、アフリカからの奴隷の輸出への反対者でもあった David Livingstone ( 1813-1873 ) にちなむものです。 彼の生涯の簡単な説明は、ここをご参照ください。



 このホームページにとり上げる話題から、以前のような 「 どこどこを訪ねてこんな美しい景色に感動した 」 とか、「 こんな面白い初体験をしました 」 とかいう種類のものが、すっかりなくなってしまい、「 どこどこが痛くなった 」 とか、「 こんな病気に罹ってしまった 」 とかいう種類のものが、毎月の主流になってきてしまったのは、 もうすぐ92歳という年齢ですから、仕方ないと言えば仕方がない、もう止むを得ない事のようです。

 昨年暮れ以来の脊柱管狭窄症の痛みが大幅に減って来たと喜んでいたら、2月下旬には、頭部の左側内部の軽い痛みが1週間ほど止まらなくなり、脳神経外科を訪ね、MRIの検査などをして貰いました。 幸い 「 格別どこも悪い所はありません 」 と言われ、不思議なもので、そう言われると痛みは次第に軽くなり、去って行きました。 ところが、3月の7日の夕方には、毎日朝・夕自分で測って記録している血圧測定で、脈拍数が通常の60〜70/分くらいから一挙に130/分以上に跳ね上がってしまい、慌てて某病院の循環器内科に駆け込んだら 「 心房細動 」 が急に発症したのだとのこと。 新しい薬がまた二つ増えてしまいました。

 自覚症状は当時も今も全く無いので、前記の朝夕2回の血圧と脈拍数の測定を私がもし自発的に続けていなければ、この変化に何も気づかず、何の手当てもせずに今後ずっと過ごしてしまい、その結果、近い将来のある日、突然重症の脳梗塞になってしまうであろう確率が非常に高かったのだそうです。 面倒くさかったけれど朝夕小マメに血圧を測っていた努力が報いられたと言えましょうか。

 医学、医療技術の進歩のおかげで、こうやって老人が早期に適切な診断と治療を受けて元気に長生きできるのは、素晴らしい文明の進歩なのでしょうが、先月も書いたように、国の財政に次々に負担をかけ続けていてしまい、何だか申し訳ないようにな気分に、どうしてもなってしまいます。 せめて、現状の健康レベルを一日でも長く維持するよう、今後も努力を重ねてゆきます。

2月度 (Feb. 29, 2024)

 リビングストン・デイジーという草花をご存じでしょうか。 京都大学で植物学を教えていた高校時代の友人の大津市にあるお宅を14年ほど前に訪ねた時、門からの登り階段の両側に色とりどりの美しい花が咲き乱れており、南アフリカ原産のその植物の名を教えてもらいました。 久しぶりにその事を思い出し、ネットで探して種を買い、昨年 「 春蒔き秋咲き 」 に挑戦しましたが、見事失敗。 10月に 「 秋蒔き春咲き 」 に再挑戦したところ、真冬は毎晩屋内にとり込んだりと世話をし続けた甲斐あって、今度は成功しました。 開花は3月と説明書に書いてありましたが、地球温暖化のせいか、2月下旬にはもう数輪咲き始めました。



 3月中旬頃、ここに数十色の満開の花の写真を加える予定です。



 3月15日、半分ほど綺麗に咲いてきたので一応載せます。

 話はガラリと変わりますが、「 介護の必要度 」 の公的な認定レベルには、下からまず要支援1,2級があって、その上は重くなってゆく順に要介護1,2,3,4,5級まで、合計7段階あるという事は、ご自身、あるいは近親者がそれをお持ちの方は、よくご存知の事でしょう。

 私の母が、自宅で家族が介護が出来なくなり、介護付き有料老人ホームに入ってもらったのは、95歳くらいだったでしょうか。 その時は 「 要介護2級 」 という認定でしたが、その後次第に心身の衰弱が進み、98歳 ( 数え齢では100歳になったばかり ) で死ぬ直前は、一番重度の 「 要介護5級 」 でした。

 何でいきなりこんなことを私がここに書いたかと申しますと、実は、先月このページの最後の方に書いたように、私の脊柱管狭窄症が今回はなかなか治らず、屋内でも歩行器とか介護用のベッドとかを借りないと生活上不便を生じていたので、しかるべきところに要介護度の公的認定を申請したのでした。 すると、なんと、 「 要介護1級 」 に認定されてしまったのです。

 担当の方々が、色々と心配してくださり、時間と労力をかけて、せっかく認定してくださったのに、「 認定されてしまった 」 はないだろうと叱られそうですが、私としては、認定が頂けるとしても、自分はせいぜい一番軽い 「 要支援1級 」 程度だろう、もしかしたら何も認定して貰えないかもしれない・・・と予想していたのです。 それが、下から3番目の「 要介護1級 」 ですと言われてみると、正直、これはちょっとばかりショックでした。

 でも、昨年10月までは一人でどこにでも出かけられ、毎日3千歩も4千歩もウォーキングできていたのですから、「 痛い、痛い 」 と言いながら、手すりを伝い、時には床を這って家の中をやっと移動できていた最悪期の情況 ( ごく最近は痛みも軽減してきて、これよりはマシになりましたが ) は、まだ他人様の介護は受けずになんとか頑張って生活できているとは言え、もう立派な 「 要介護者 」 には相違有りません。 素直に認めることにします。

 ビートたけし (77)がテレビで、「 これからは高齢者は、出来るだけ国の支援を受けることが少なくて済むよう努力して生きて行かなくては 」 というような事を言っていたと、間接的に知りました。 道路を歩いていたら突然足がもつれて転んでしまい、自分が老人になったとも悟ったのだそうです。

 早速検索してみたら出てきました。 彼一流の毒舌表現なので、読むと反感を抱く方も少なくないでしょう。 しかし現実問題としては、介護の予算や 「 ひと手 」 などが今後ますます不足してゆくと思われる現状を考えると、今回私も貰えるようになった介護保険のお世話になれる機会は、将来だんだん得にくくなってゆくのかな・・・と、不安を感じざるを得ません。

 なお、上記の記事は、やはり抗議が出たらしく、ごく最近削除されてしまったようです。

、  
1月度 (Feb. 1, 2024)


自宅付近にて。

 今月は、新年早々大きな災害がありました。 被害をこうむった方々は本当にお気の毒です。 義援金を出すくらいしか、私には何もできませんが。

 今年の5月、私はついに92歳になります。 よくもここまで健康で生きられたものよ・・・よくもここまで、このホームページを続けてこられたものよ・・・と感慨深いものがあります。  このホームページがスタートした30年近くも前、前世紀の終わり頃は、ホームページという表現ツールは、個人の自己表現と意見発表のための 「 最新のしゃれた手段 」 でしたが、その後、ブログ、ツイッター( X )、インスタグラム、フェイスブックなどなどの新しい、易しくスピーディに使えて他者との交流にも便利なツールが次々に発表され、急速に前記のような目的のためのデジタルな発表や交流の手段の主流となってきました。

 それにつれてホームページは、企業や官公庁などによる宣伝、広報、情報公開、デジタルな交信等の窓口として利用される場合がほとんどとなり、個人が自己表現と意見発表の手段としてホームページを利用することは、今や 「 極めて稀 」になってきているようです。 ( 旧友すぎやまこういちも生前はホームページだけを世間との接点として使っていました。 そのごく一部を、私は手伝っていました。)

 でも、私には上記のような新しいツールに乗り換えようという気持はまったく有りません。 たとえば、何か大きな出来事があった時に、反射的に思いついた意見を即座に 「 つぶやく 」 とか、大きな出来事が無くても、「 何か他人が興味を持ってくれそうな話題をひねり出して発表し続ける 」 などという事は、私にはできないのです。

 私の場合は、何かの出来事、報道に心を動かされ、何か言いたいなと思った時には、それが事実であることを何度か確かめ直し、また、自分の反応、考えを何度も何度も練り直し、書き直し、「 これが自分のすべてだ。 自分の考えの表現はこれしかない。 事実関係にも間違いはないし文章も練り上げた。 これなら誰からどう批判されようが大丈夫だし、悔いもない。 」 と自信が持てるところまで磨き上げ、確立してから発表したいのです。

 その 「 確立 」 に達するまでには、最短5日から10日、場合によってはひと月近くもかかります。

 それだけじっくりと調べ、考え直し、練り直さなくては、私は、恥ずかしくて、不安で、人まえに自信をもって発表できません。 ( 元首相の某氏は、最近またまた、事実をよく調べず感情の赴くままに批判的な言葉をつぶやいて恥をかいていますね。) 何かあった時、その場その場で反射的に批判的な言葉をつぶやいてしまったら、私の場合、多分10回中7〜8回は数日後に、どうしても修正や撤回をしたくなってしまう事でしょう。 でもそういう事態に陥ることは、某氏と違い、私はとても嫌なのです。 ツイッターでは誤字の訂正すらできません。

 人間の大切な「 考え 」 は、言葉でひとことひとこと、丁寧に 「 紡ぎあげる 」 ものであり、気軽に「 つぶやく 」 ことによって表現されるものとは異質だと思うのです。

 ですから、そういう私が自信をもって発表しようと思った頃には、その話題は時に古臭くなり、世間から忘れ去られかけている事もあります。

 色々と書きましたが、そういう次第で、私の自己表現と意見発表の手段としては、ひと月に一回だけ更新するこのホームページのようなゆったりとしたツールが適しているようです。  以上、日頃、心の中にたまっていた事なので、新しい年の初めでもありますし、だいぶ長々と私見を述べさせて頂きました。

 ところで、昨年11月初旬以来悩んでいた脊柱管狭窄症の痛みは、幸い暮れの28日くらいから減ってきて、痛みの少ないお正月を迎えられました。 6回目の今回は、発症から8週間経っても完治に至らず ( 過去5回の発症はすべて2〜3週間で自然に治った )、長期間かかっていますが、徐々に元の健康な体に戻りつつあります。 今回初めて処方されたリリカという鎮痛剤のお蔭もあるようです。

そういう次第で、今月もほとんど屋外を歩くことはありませんでした。 それでも、家の中と庭を歩く程度
でも、一日に約1,000歩は歩きますし、それ位は歩かないと、脚が萎えてしまいます。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


この先です。