本名=保高徳蔵(やすたか・とくぞう)
明治22年12月7日—昭和46年6月28日
享年81歳
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園1区5号207号
小説家。大阪府生。早稲田大学卒。読売新聞社記者、博文館編集者を経て、大正10年『棄てられたお豊』を発表、正宗白鳥らの称賛を受ける。昭和8年『文藝首都』を発刊。以後同誌から多数の作家を輩出させた功績は大きい。ほかに『泥濘』『孤独結婚』などがある。

これを聞くと、香取は黙つて苦笑をしてゐるより外なかつた。相手が沼の中から悪態をつけば、自分もその中へ飛込んで行つて泥まみれになつてでも、相手を懲しめずにゐることが出来ないのがお絹の性格であると思つた。そして、この性格のために自分たちの夫婦生活が何度となく泥沼の中へ落込んだのかもしれないと香取は思つた。もつとも引摺りこまれる彼自身にもそれだけの弱点はあつた。それは彼がお絹に対する愛情にひきずられてゐたからである。かう思ふと香取は、今度のお絹が働きに出て行つたことも、幾度も繰返される孤独結婚の過程の一つではないかと感じた。さうしてかういふ過程の圏から抜け出るためには、彼女に対する化膿したやうな愛情にひきずられないことである、——と思つたが、次の瞬間には、彼はこれまでの生活に於て、何度かういふ風に考へ、何度かういふ風な決心をし、そして何度その決心がうち崩されて釆たのであらうかといふことを考へた。だがまた直ぐ次の瞬間には「今度は違ふ」といふ確然たる心持が起るのを感じた。これまでの生活に於ては、絵を描きながら彼は本当の絵を描く術を知らなかつた。線や形や色彩によつて小器用に描かれたものが本当の絵ではない、作者の心が燃焼し凝り固まつて、而もさういふ意地から抜け出た、雲の如く悠然たる、また宇宙の如く揮然たる作者の心象が形や線や色彩の外に現れねばならない、さうしてさういふ絵を描き得る画家の心は、決して情痴の泥沼の中から生れてくるものではない、——長い画家としての生活の間に、香取には最近漸くこのことが、はつきりと理屈抜きに分つてきたのである。それはその画家にとつて、決して芸術三昧に象牙の塔に隠れた生活ではない。卑俗と低劣の魅惑を揚棄し、高い境地に進まうとする現実の姿である。香取はこんなに思つた。だが、さうは云ふものの、現在彼の前に坐つたお絹に対して、侮蔑の気持も、憐愍の情も起きはしなかつた。たゞ淡々たる気持で、共に魚を突つき、共に飯を食つてゐられる自分が不思議なくらゐであつた。
(勝者敗者)
保高徳蔵が主宰した同人誌『文藝首都』はいかに多くの作家を輩出してきたことか。芝木好子、大原富枝、半田義之、上田広、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、田辺聖子、中上健次、日沼倫太郎等々、枚挙にいとまはないが、昭和44年10月5日、38年もの長期にわたって継続されてきた『文藝首都』終刊決定の夜、集まった16人の編集委員のなかには、幕を引くべき主人公たる保高の姿はなかった。
去ること3年前の夏、脳血栓に倒れ病床に臥して以来、沈黙の極みであった。『文藝首都』を支え、『文藝首都』に支えられた保高の命運も45年1月の終刊記念号を最後に尽きたのであった。昭和46年6月28日午前4時15分永眠。
昭和27年『文藝首都』20周年記念号に寄せられた詩の一節にある〈酒をのんでは抵抗の文学を語り 酒をのんではカミュを語り 酒をのんではおそその話をし 六十幾つ生きてゐる まだもうひとつ 酒をのんでは文藝首都をつくってきた 二十年間もやまずつくってきた〉——。保高徳蔵が他者にも自らにもいい続けてきた言葉〈文学は、シンセリティーだ〉にこそ真実があり、誠意はあったのだ。
この大霊園のちっぽけな「保高家」墓をも包括し、無表情に横列縦列と並び建つ碑のひとつひとつに埋められた物語を「ホトケの徳さん」は、右隣にある「梅崎春生之墓」の主と〈百毒の長となのみそ うましざけ〉を飲みながら、今日も日がな一日語り合っているのだろう。
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