矢田津世子 やだ・つせこ(1907—1944)


 

本名=矢田ツセ(やだ・つせ)
明治40年6月19日—昭和19年3月14日 
享年36歳(照香院釈尼津世)
東京都西東京市ひばりが丘4丁目8–22 東本願ひばりが丘浄苑(浄土真宗)



小説家。秋田県生。麹町高等女学校(現・麹町学園女子中学校・高等学校)卒。昭和4年『女人芸術』名古屋支部設立に加わり、『反逆』を発表。上京後の7年坂口安吾を知り、恋愛関係におちる。10年『日暦』同人となり、『弟』『父』を発表。11年安吾と絶縁、『神楽坂』が芥川賞候補となる。『花蔭』『家庭教師』『茶粥の記』などがある。     
  






  

 しかし、良人の場合はうまいもの屋へ行ったといふわけでもなく、諸国の名物を食べ歩いたといふのでもない。ただ、話なのである。味覺へ向ける良人の記憶力と想像力は非常なもので、たとへば何處かで聞きかじった話だの雑誌や書物などでめについたのをいつまでも忘れずにゐて、折りにふれ、これに想像の翼を與へるのである。さうした良人の味覺はどこででもくりひろげられる。出勤時の身じろぎも出来ない電車の中で人と人の肩の隙間を流れる窓外の新緑を見遺りながら、ウコギやウルシの若葉のおひたし、山蕗の胡麻よごしを思ひ描く。それから初風爐の茶湯懐石の次第にまで深入りする。汁、向う付、椀、焼物……と順次に六月の粹を味はいながら、良人の満足感は絶頂に達する。全く不思議な話ではあるが、この混み合った電車の皿数は眼にしみるやうで、小鱸は蓋を取るとサラリと白い湯気が立つといふ風で、生きのままあとあとと並べられるのである。
 「あなたって變ね、ほんたうに召し上がりもしないでお料理のことを御存じだなんて……食べなけあ詰まらないのに」
 をかしがる清子へ良人は、
 「想像してたはうがよっぽど楽しいよ。どんなものでも食べられるしね」
 笑ひながら言ふ。それもさうかも知れないと清子は食通として知られてゐる良人に神秘めいたものを感じて、やはり尊敬してゐた。
                                                            
(茶粥の記)



 

 今日、矢田津世子の名を知る人は少ない。名を目にすることも、その作品に出会う機会もほとんど無いと言っていい。よしんばその名を知ったとしても、〈無頼派作家〉坂口安吾の恋の相手としてであって作家矢田津世子は思い浮かばないのではないか。しかし当時彼女は流行作家の列に名を連ねていたし、その理知的な大きな瞳を持った美しい顔立ちは多くの人を強く惹き付けていたのだ。
 小説『神楽坂』が芥川賞候補になったこともあった。日本の敗戦色が強くなると共に病床に親しむことが多くなった。下落合の高台にある自宅で結核のため短い人生に別れを告げたのは、昭和19年春まだ浅い、3月14日午前0時50分のことであった。36歳だった。



 

 東京郊外、大規模団地の道筋を抜けきった所にあるこの墓地は、東本願寺系寺々の集合墓地ともいうべき体裁をもって、夥しい数の墓石が林立している。それぞれの墓は無機質な石面を互いに向き合わせていたが、本堂裏にある墓域には大振りの松の木が点在していて彩りの少ない殺風景な墓原を潤していた。そんな一角のスラリと伸びた優しげな赤松と無造作に葉を広げた棕櫚の前に「矢田家」の墓碑は寒風に震えてあった。
 いまにも泣き出しそうな雨雲の下でその部分だけは白く洗い出されたように建っていた。かつての恋人坂口安吾は遥か遠く越後・阿賀野川の川音を聞きながら眠っている。しかしここ津世子の耳に聞こえてくるのは梅雨空の湿った風の音ばかりであった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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