本名=柳 宗悦(やなぎ・むねよし)
明治22年3月21日—昭和36年5月3日
享年72歳(不生院釈宗悦)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園27区13側2番
民芸研究家・宗教哲学者。東京府生。東京帝国大学卒。明治43年学習院高等科在学中、武者小路実篤らと『白樺』を創刊。バーナード・リーチを知る。生活に根ざした民衆工芸に美を認め、民芸運動を起こした。昭和6年『工芸』を刊行。11年目黒駒場に日本民芸館を設立。『柳宗悦選集』『柳宗悦宗教選集』などがある。

考えると美醜というのは人間の造作に過ぎない。分別がこの対辞をつくったのである。分別する限り美と醜とは向い合ってしまう。そうして美は醜でないと論理は教える。それはどうしても矛盾する二つものだと云う。だから美がすなわち醜であるとか、醜のない美だけの美とか、醜でもなく美でもないかいう言い方は、許されなくなってしまう。論理の法則に抵触するからである。この世に止まる限り、この法則に間違いはない。だがこの世が世のすべてであろうか。一元の世界はないものであろうか。論理さえも力がなくなる境地はないものであろうか。
(美の法門)
母勝子の弟で講道館柔道の創始者嘉納治五郎の千葉県我孫子の別荘に住し、志賀直哉、武者小路実篤らの移住を促して、我孫子は白樺派文学の拠点となった。
浜田庄司らと日本民芸運動を推進した宗悦は、昭和36年4月29日、民藝館の茶の間で食後の談笑中、脳出血のため意識不明となり5月3日午前4時2分、飯田橋の東京警察病院(現・中野区中野に移転)で亡くなった。法名の撰者鈴木大拙はその弔辞のなかで〈君は天才の人であった。独創の見に富んで居た。それはこの民嚢館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない。実に世界的なものがある。〉と宗悦の死を悲しんだ。
琉球の霊墓を〈死によって真の生に入る霊魂の住家なのです。そこには死んだ何者も祀られてはいないのです。現世の者よりも更にありありと活きている魂魄が、その明け暮れを送る住居なのです。〉とその親交と無類の芸術性を畏敬した柳宗悦であったが、この霊園には奥行きのある塋域の突き進んだ先に、戦後日本のインダストリアルデザインの草分けであり、その確立と発展における第一人者といわれている長男宗理の意匠になる五輪塔が、夕暮れの中、左右の黒石墓碑に挟まれて、羽を広げた大鳥のように粛然と佇んでいた。
声楽家で昭和59年6月1日に亡くなった兼子夫人とともに眠る「柳家墓」。武蔵野の木立のさざめきに包まれて、悠揚として空に向かっている。
——〈月ハ映リキ 水ヲ染メデ〉。
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