本名=八木重吉(やぎ・じゅうきち)
明治31年2月9日—昭和2年10月26日
没年29歳(浄明院自得貫道居士)❖茶の花忌
東京都町田市相原町大戸 生家墓地
詩人。東京府生。東京高等師範学校(後の東京教育大学、現・筑波大学)卒。大正8年駒込基督会で洗礼を受ける。10年英語教師となり、短歌や詩作に励む。14年第一詩集『秋の瞳』刊行。翌年佐藤惣之助の『詩之家』同人となるが、結核のため療養生活に入った。没後、自選詩集『貧しき信徒』が刊行される。

りゅうぜつらんの
あおじろき はだえに湧く
きわまりも あらぬ
みず色の 寂びの ひびき
かなしみの ほのおのごとく
さぶしさの ほのおのごとく
りゅうぜつらんの しずけさは
豁然たる 大空を 仰ぎたちたり
(竜舌蘭)
〈私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください〉——。
第一詩集『秋の瞳』序に書かれた言葉のなんと淋しく哀しいことか。重吉は短い生涯の、なお短い5年ほどの詩作生活のなかで、そのひとつひとつは短いものであったが、2200篇余りの詩稿を残した。
結核療養のために転居した茅ヶ崎十間坂の寓居で、昭和2年10月26日、詩人八木重吉は死んだ。わずか29年の深遠な生涯。信仰と暖かい家庭、二者択一に苦悩し、かつて草野心平が見たという〈霙のようにさびしそう〉な重吉の顔がそこにもまだ、映されていたのであろうか。
多摩丘陵に囲まれた故郷、南多摩郡堺村(現・東京都町田市相原町)の生家の前の高尾に向かう街道脇の窪んだ垣根の内、しきみの木の下にある「故 八木重吉之墓」。土地の風習に倣って、八木家の庭を三回廻ってから埋葬されたという重吉はここに鎮まる。
キリスト者であったのだが、墓の左側には仏式の戒名が刻まれていた。同じ肺結核で亡くなった遺児、桃子・陽二も、重吉死後20年の後、請われて歌人吉野秀雄の妻となった登美子夫人も今はこのちいさな塋域にあり、野の花々に彩られた秋の光のなかで、思う存分に遊んでいることだろう。
〈この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう〉。
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