本名=山本太郎(やまもと・たろう)
大正14年11月8日—昭和63年11月5日
享年62歳
東京都江戸川区区一之江6丁目19–18 国柱会・妙宗大霊廟(本化妙宗)
詩人。東京都生。東京大学卒。旧制佐賀高校卒業後海軍予備学生として魚雷艇の特攻要員となる。大学卒業後は『アトリエ』編集長などを務め、昭和24年『零度』を創刊、25年『歴程』同人となる。29年第一詩集『歩行者の夜の唄』を刊行。ほかに詩集『覇王紀』『ユリシィズ』『鬼火』などがある。

おれは おれの内側にひろがる
原始林を愛した
壊しつつ おれが
涙とともに きづいたうるとらまりん
そこを 疾走する
野獣達の 美しい瞳を愛した
知っているか
彼等との危険な交りをつづけ
ひとり おのれを 試みる
若さという 狂気のなかを
おれは歩いて 六尺のはがねとなった
そうしてあれは 何であったか
背後より迫り
おれのなかを すきとおり
駆け抜けて行った黒いもの
(『歩行者の祈りの唄』・歩行者の夜の唄)
画家山本鼎を父、北原白秋の妹イヱ(家子)を母、村山槐多を従兄弟にと、否応なく芸術・文学的な環境で育った山本太郎の詩人としての人生は歩むべくして歩んだ道程ではないだろうか。終戦の前月に魚雷艇の特攻要員に配属されて死の渕をなぞり、覗いた不安と恐怖、深い哀しみ、〈死者はみな詩人で詩人はみな死の潜水夫/奴等は底についてもなっとくしない/あぶくを吐いて/つまりは終わらぬ人生を/中傷しつづけているのだ〉とばかりに混沌の渦の中で生まれ、原野を歩き、生き、混沌を凝視する詩を書いた太郎は長野県飯綱町での講演で父鼎の業績について語り終えた直後に倒れて急死する。63歳の誕生日まであとわずか3日という昭和63年11月5日のことであった。
本部道場右奥に広がった芝生の中の石畳を進むと礼拝処が左右にある。その先、池の中に白い橋でつながれた小島が浮かんでおり、中心に「南無妙法蓮華経」と金文字で彫られた宝塔が建っている。田中智学によって創立された純正日蓮主義を信奉する在家仏教教団国柱会に入会、深く信仰し、昭和21年に信州上田で死去した父鼎と母イヱの墓所である合葬墓・妙宗大霊廟。昭和43年の国柱会本部講堂落慶・妙宗大霊廟創建40周年記念大会に際し、「霊廟讃歌」を献詩した山本太郎もここに眠っている。また、熱心な国柱会信者であった宮澤賢治の妹トシの分骨も賢治自身によって納骨、信仰上父と対立していた賢治の遺骨は納まってはいないが、遺形(賢治の書いた葉書)が昭和57年の賢治五十回忌に納鎮された。
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