山崎豊子 やまさき・とよこ(1924—2013)


 

本名=杉本豊子(すぎもと・とよこ)
大正13年1月2日—平成25年9月29日 
享年89歳(松壽院殿慈簾翠豊清大姉) ❖豊子忌 
大阪府大阪市天王寺区生玉町1–6 藤次寺(真言宗)



小説家。大阪府生。京都女子専門学校(現・京都女子大学)卒。昭和20年に毎日新聞社入社、学芸部に所属。当時学芸副部長だった井上靖のもとで記者勤めをする傍ら小説を書き始め、昭和32年生家であった大阪・船場の老舗昆布店を題材にした『暖簾』で作家の道にすすむ。翌年『花のれん』で直木賞受賞。以降は実際の社会問題や事件の裏側に迫った問題作を次々と発表。ほかに『白い巨塔』『華麗なる一族』『大地の子』などがある。






  

  「御寮人さん!」
 呟くように叫んで、ガマ口は鳴咽した。お梅は、脂汗の滲んだ多加の首筋を、そっと拭った。
 「久男が……、還って来たら頼むぜ……」
 こう云うのが、やっとだった。俄かに眼の前の暗みが深くなり、光がかき消された。多加は静かに眼を閉じて、口を噤んだ。
 そうすると、再び眼の前がほのかに開けて、夜明けのような柔らかな風が吹き出し、藍地に四季の花々を染めぬいた花のれんが、かすかに音たててそよぎ出した。風にそよぐ度に、藍地に淡くおぼろに染まった花々が、花吹雪のように小さな庭石に散り敷いた。その上を音もなく、歩んで来る人影がある。
 「あ、白い喪服……」
 多加は、濁った視力と混迷した意識の中で、夫の枢を送った日を見た。二夫に目原稿用紙に見えぬ象徴に白い喪服を纏い、明るい春の陽ざしの中を晴れがましく歩んだ自分——、眩いばかりの白い喪服の亡霊にとり憑かれて、歩んだ生涯だった。
 再び、真っ暗な闇になった。しかし、遠くの明るみで、白い喪服を着た多加が歩いている。歩く度に、花のれんが風にそよぎ、花吹雪が絶え間なく散る。

(花のれん)



 

 ひたすら原稿用紙に向かってペンを走らせていた山崎豊子にもとうとうその日はやってきた。大阪で生まれ、大阪で育ち、大阪で就職し、その職場で出会った井上靖の〈君も小説書いて見ては——、人間は自分の生いたちと家のことを書けば、誰だって一生に一度は書けるものだよ〉という一言から始まった作家への道。二作目に書いた『花のれん』で直木賞を受賞。井上靖から贈られた文言〈直木賞受賞おめでとう 橋は焼かれた〉、退路を断たれた彼女に引き返す道は残されていなかった。社会問題や権力の裏側に潜む闇などに鋭いメスを入れ、数々の大作を生み出してきたのだが、猛暑の季節もようやく衰えをみせてきた平成25年9月29日午前2時10分、かかりつけの堺市内の病院で心不全のため凄絶な生涯を閉じた。



 

 大阪市営地下鉄・谷町九丁目駅の階段をのぼるとすぐ角にその寺はあった。「お金を融通する」に通ずるとして、商いを生業とする人たちから篤く信仰され、「大阪の融通さん」として親しまれている真言宗如意山藤次寺。朱塗りの山門がどんよりとした曇り空に映えている。没後三年、「豊子忌」と名付けられた命日の29日から四日間、墓所が一般公開されるというので、滞在中の京都から急遽、墓参に訪れた「山崎豊子之墓」。法要が執り行われたあとらしく、供えられた花々が清々しい。右横に絶筆『約束の海』を含め、全作品名が記された墓誌が建てられている。老舗昆布店「小倉屋山本」に生まれ、大阪を描いて巣立ち、社会派小説の大家となり、最期は大阪に逝った激しくも雄々しい女性作家の墓碑がここにあった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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