本名=藤野庄蔵(ふじの・しょうぞう)
明治40年1月11日—昭和53年9月30日
享年71歳(山岡院釈荘八真徳居士)
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地第2特別区4–30
小説家。新潟県生。高等小学校中退。大正9年高等小学校を中退して上京。印刷製本業経営の後、昭和13年『約束』がサンデー毎日大衆文芸入選。長谷川伸の「新鷹会」に入る。昭和25年から連載の『徳川家康』が好評を博する。『大岡政談』『坂本龍馬』『新太平記』などがある。

(この誕生仏には、得意もなければ失意もない。何時も徴笑しながら天上天下におのれの存在を宣示している……)
それが正成にはおかしかった。
----こなたは仏どころか、黄金ですらないのだぞ。中身はただの銅ではないか」
「そう罵っても鍍金の輝きを誇り顔に笑っているし、
「南無釈迦牟尼仏……」
と、拝跪してみても別段おごった油断も見せなかった。つまらぬ銅の小像でもあり、偶像でもあり、そして、信ずる者には仏でもあり宇宙でもあった。
(いったいこれはどうしたことであろうか……?)
徴笑を誘われながら小首を傾げて見入つているうちに、正成は自分の心の隅々に充満はしていた迷いの霧が、す−っときれいに霽れわたってゆくのを覚えた。
一個の銅塊でもよし、つまらぬ彫刻であってもよい。釈尊の偶像と見てもよし、メッキの玩具と見るもあながち誤りではあるまい。しかし、その裏に一つの知恵の輝きが加わると、それは仏教の真髄も示現すれば、宇宙と人間の徴妙な関係も語りだす……
(新太平記)
たった1年間で挫折することになったが、編集者「山内庄蔵」は『大衆倶楽部』という大衆文学雑誌の創刊・編集に携わった。やがてそのことは長谷川伸の門下となって作家山岡荘八の誕生につながった。
昭和17年、従軍作家となり『海底戦記』なども書いた。戦後は公職追放の憂き目も見たが、25年春に連載が始まった大河小説『徳川家康』は実に17年の歳月を要し、空前の家康ブームをまきおこした。元来保守系で保守団体〈日本を守る会〉を結成したり〈自衛隊友の会〉の会長も務めていた覇気の人も、晩年はホジキン氏病という悪性リンパ腫の難病に罹り、昭和53年7月、癌研究会附属病院に入院。9月30日ついには還らぬ人となった。
東京郊外というよりもここはもう川崎市だが、小田急線生田の丘陵に日本で初の民間公園墓地「春秋苑」がある。「信長」「秀吉」「家康」、三人の覇者を壮大に描いた歴史作家の墓がこの丘の上にあった。山岡家墓所には生家「山内家」、養家「藤野家」の墓が並ぶ。
〈山岡荘八こと藤野庄蔵ハ 北越小出町の山内家に生れ 加賀安宅の藤野家に入る 昭和三十九年一月廿七日 養母益世を去るに及び ここに遺骨を埋め妻秀子 と共に両家の祖霊を 併せ供養しやがて自らも この地に眠るべきものとする 昭和四十年一月 山岡荘八〉——。墓誌に刻まれた13年後に、俗名藤野庄蔵の名も墓石に記され、今し方、冬の瞬風になぞられている。
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