柳田国男 やなぎた・くにお(1875—1962)


 

本名=柳田国男(やなぎだ・くにお)
明治8年7月31日—昭和37年8月8日 
享年87歳(永隆院殿顕誉常正明国大居士)❖国男忌 
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中2区3–15 



民俗学者。兵庫県生。東京帝国大学卒。明治30年田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を刊行するなど新体詩人として知られた。他方、農商務省勤務。以後、全国の農山村を歩き、民間伝承に関心を傾けた。42年『後狩詞記』を刊行。以後『遠野物語』『石神問答』などを発表した。






  

 西川一草亭主人のまだ健在であつた頃、私は幾度かこの一つの問ひを携へて、門を敲かうと企てたことがあつた。風景は果して人間の力を以て、之を美しくすることが出来るものであらうかどうか。もしも可能とすればどの程度に、之を永遠のものとすることが許されるか。我々は旅人であるが故に、たゞ一佇立時の怡楽を以て、萬劫の因縁を結べば足る。次々去つては又来る未知の後生と、それではどういふ風に心を通はし、思ひを一つにすることが出来るかゞ間題なのである。花は日を經て萎れ草木は枯れ朽ち、象潟の海はあせ松島はポンポン蒸汽の巣にならうとも、曽て類ひも無くそれを美しくした國民の心情は、時をかへ處をかへて幾度でも、随意にその求むるものを求め出すのでは無かつたか。是にはつきりと答へ得るやうな、修行を積んだ先覺と同じ世に住みながら、僅かな怠りの為に永い疑ひを殘してしまつた。一草亭の流風餘韻は、今も傳はつて江湖に在るのであらうが、それを収束するにも再び又若干の歳月を要する。新たに生まれんとするものを待ち望む力を興へられぬ限り、名所古蹟がまだ暫くは、我々を誘導するのも是非がない。國土開發の悠揚たる足取りに比べると、人の生涯の如きはあまりにもはしたである。一代の長さに完成し得ないからとて、何の寂寞なことがあらう。山川草木の清く明かなるものは、太古以来悉く皆、我々の味方では無かつたか。人を幸幅ならしめずに終る筈が無い。學問藝術も亦復是の如し。たゞ大事なのは發願である。
                                                            

(美しき村)



 

 〈国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。〉と興奮を序した『遠野物語』は柳田国男の発表した説話集で、柳田学とよばれる日本民俗学の創始者たらしめた名著であった。
 自然を嗅ぎ、道を探り、草木虫魚に触れ、人を訪ねた日本民族学の巨人、柳田国男は、昭和37年8月8日午後1時頃、東京・世田谷区成城にある自宅で心臓衰弱のため、悠久なる自然に還っていった。かつてなかった民俗学という新しい学問を形づくっていった行程を思うと、普遍的な、強い人間の精神力というものを信じる気になってくる。
 ——〈我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い〉。



 

 多摩丘陵に位置するこの霊園には多くの文学者が眠っている。尾崎士郎、坪田譲治、阿部知二、山岡荘八等々、それぞれの墓が円形劇場のように配置されているが、ほころび始めた紅白の梅木を左右に配した塋域に、碑面いっぱいに刻された「柳田國男/室孝子墓」には、扇状の最上段から拡がってくる靄いだ青空にも増して春の兆しが溢れていた。
 柳田家の墓は、谷中霊園の五重塔跡近くに国男が建てた墓碑があり、養父直平にかわいがられた長男の為正は谷中の墓に埋葬されたのだが、春秋苑のこの墓は、生前に国男が自ら歩いて探し、富士が見えるからという理由で求め、神道式の墓碑を建てたものであったが、今となっては富士も見えない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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