山本周五郎 やまもと・しゅうごろう(1903—1967)


 

本名=清水三十六(しみず・さとむ)
明治36年6月22日—昭和42年2月14日 
享年63歳(恵光院周獄文窓居士)❖周五郎忌 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園29区4側 



小説家。山梨県生。横浜市立尋常西前小学校卒。大正15年発表の短編『須磨寺附近』が出世作。『日本婦道記』が直木賞、『樅の木は残った』が毎日出版文化賞、『青べか物語』が文藝春秋読者賞に推されるがどの賞も辞退。『赤ひげ診療譚』『さぶ』『ながい坂』など作品多数。






  

 十月下旬の暮れがた。土堤の斜面の下に、一人の若者が腰をおろして、泣いていた。
斜面は草が茂っているので、士堤の上を通る人には見えない。かなり強い西風が、その茂ったくさむらを絶えまなしにそよがせ、茶色にほほけた草の穂が、風の渡るたぴに、若者の着物をせわしく撫でた。空には、金色にふちどられた棚雲がひろがり、士堤の上へ片明りの強い光をなげかけているが、斜面のこちらはもう黄昏の冷たそうな、青ずんだ灰色のなかに沈んでいた。
 若者は立てた膝の上に両手を置き、手先をだらっと垂らしたり、片手で眼をぬぐったりした。ふと大きく溜息をつくかと思うと、首の折れるほど頭を垂れ、その頭を左右に振り、そしてまた眼をぬぐった。
 棚雲のふちを染めていた眩しいほどの金色は、華やかな紅炎から牡丹色に変り、やがて紫色になると、中天に一つはなれた雲が、残照を一点に集めるかのように、明るい橙色に輝いたが、それも見るまに褪せて、鼠色にかすみながらはがね色に獲みあがった空へ溶けこんでいった。士堤の上も暗くなり、ときたま往き来する人たちも、影絵のようにぼんやりと黒く、こころもとなげに見えた。
 斜面のこちらは東の空の反映で、却って明るくなったようだ。しかし、本当はまえより暗さを増しているのだろう、風に揺れ動くくさむらも、すっかり色や陰影を失って、ただ非現実的な青銅色ひといろに塗りつぶされてしまい、そこに若者がいるということも、いまは殆んど判別がつかなくなった。     
                          
(『あおべか物語』土堤の秋)



 

 「曲軒」は山本周五郎のあだ名である。人より一寸五分ばかり曲がっていると尾崎士郎が山本周五郎につけた。馬込文士村と呼ばれている地域で親しく交わった二人だからこそのあだ名である。
 〈苦しみつつ なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である〉、このストリンドベリイの『青巻』にかかれた箴言は、教訓として彼の心を強く励まし、人間を人間らしく尊厳を持って描き続けていったのだった。
 〈文学は文学賞のために存在するものにあらず〉と一切の文学賞を辞退し、〈原稿が前においてなかったら、生きている甲斐がない〉と死の10時間前まで掘り炬燵で筆を執っていた。昭和42年2月14日、63歳の冬、肝炎と心臓衰弱のため横浜・間門園の別棟仕事場で急逝した。



 

 〈死ぬときは、いままで書いた小説を、全部焼いてあの世にいきたい〉とか、〈葬式は不要、戒名も墓もいらない。遺灰は海へ撒くように〉と、常日頃身内に言い残しておいた言葉はついに実行されなかったが、唯一、遺灰の一部が青春をもがいた千葉・浦安の海に撒かれた。数万基の墓石が林立する鎌倉霊園のひな壇塋域、どっしりと緑色を帯びた自然石に「山本周五郎」と刻まれたこの墓前に立つと、遠く湘南の海からやってきたほのかな潮風が「お前はこの後どう生きていくのか」と私の鼻先をなぞっていく
 〈人間にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある、来し方を徒労にするかしないかは、今後の彼の生き方が決定するのだ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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