辰野 隆 たつの・ゆたか(1888—1964)


 

本名=辰野 隆(たつの・ゆたか)
明治21年3月1日—昭和39年2月28日 
享年75歳(文徳院殿自在日隆居士) 
東京都新宿区西新宿7丁目12-5   常圓寺(日蓮宗) 




フランス文学者・随筆家。東京府生。東京帝国大学卒。建築家辰野金吾の長男。大正10年フランス留学。日本人で初めて母校東京帝国大学のフランス語講座を担当。昭和6年教授、23年退官。門下生に渡辺一夫、小林秀雄、三好達治らがいる。37年文化功労者。著書に『ボオドレエル研究序説』『さ・え・ら』『忘れえぬ人々』などがある。




 



 雨の日なら、春夏秋冬、いつもぼくは氣分が快いのだ。降りだすと、ぼくは、雨をながめながら、 聞きながら、愛讀の蕪村句集を取り出しておもむろに讀みふける癖がある。この稀有な視覺型の詩人の視野においては、「みのとかさとがもの語り行く」道のほとりに、あるひは「人住みて煙壁を漏る」 陋屋の內に、「春雨や暮れなんとしてけふもあり」といふ情景もゆかしく、「さみだれや佛の花を捨てに出る」その花のあせた色も香も、「秋雨や水底の草踏みわたる」散策子のあしうらの感覺も、「楠の根を靜かにぬらすしぐれ」の沈靜な風趣も、ことごとく好もしい。
もし晴天に風が伴なはなかつたら、ぼくは必ずしも靑空をのろひはしない。しかし、少なくも微風よりも強い風が吹きはじめて、砂塵をあげだしたら、その瞬間から、ぼくは靑空のいたづらに靑きを憤って、雨を思ひ、雨を呼ぶやうになる。雨さへ降ってくれれば常に心なごみ、神休むのである。どうも、ぼくの前世は田んぼのかへるか、たにしであったらしい。

(雨の日)



 

 日本におけるフランス文学研究の第一人者であり、日本の大学に最初にフランス文学科を設立し、多くの俊英を学会だけではなく、文芸界やジャーナリズムにも送り出して多大な影響を与えることになったのは辰野隆の功績であった。愛弟子の小林秀雄、三好達治を念頭に常日頃から「ぼくの弟子には日本一の評論家と日本一の詩人がいる」と自慢していたという。元来のスポーツ好きで晩年は特にゴルフに興じ「毎日ゴルフばかりしないで、学生との接触をもう少し…」との弟子の苦言に「毎日とはなんだ。僕は日曜日以外は、月水金と火木土しかゴルフをやっていない」と大真面目で怒鳴りつけたという逸話には仰天するが、昭和39年2月28日午後11時25分、胃がんのため虎ノ門共済病院で永眠した。





 

 遺言により遺体は虎ノ門共済病院で解剖、角膜は順天堂大学附属病院のアイバンクにおくられたが、遺骨は新宿大ガードの西、青梅街道沿いを少し歩いた先にある日蓮宗の福聚山常圓寺の墓所に埋葬された。本堂裏の墓地は細い道を挟んで南北に別れていて辰野家の墓所は北側の左区画にある。東京駅や日本銀行などの設計で知られ「日本近代建築の父」と称された父「辰野金吾/室秀子墓」を中心に右側に「辰野家之墓」、左側に少し小ぶりな「辰野隆/室久子墓」が並んでいる。授業料を立て替えてもらった貧窮の卒業生が、2、3にとどまらなかったといい「ぼくの父は家を作る商売だったからぼくは家をつぶす役をしているよ」と口癖にしていたというが、隣に眠る父はなんと思っていることだろう。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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