本名=田邉聖子(たなべ・せいこ)
昭和3年3月27日-令和元年6月6日
享年91歳(釈恵聖)
大阪府茨木市室山1丁目7―8 慧光院(浄土宗)大阪茨木霊苑D2地区1区2~3番
小説家。大阪府生。旧制樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)卒。はじめ放送台本を手がける。昭和39年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で芥川賞受賞。巧みな大阪弁で男女の機微を描く。62年『花衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女』で女流文学賞、平成5年『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞、10年『道頓堀の雨に別れて以来なり』泉鏡花賞、読売文学賞受賞。ほかに『私の大阪八景』『すべってころんで』などがある。
「あとで考えると、たいてい恥ずかしさに目がくらむもんでね。こんどはそんな手紙をよんだというだけで、きみはケイを憎むし、また一生、 ケイに頭上がらへんような気になるさかいな」
「あッ、それこそ、あたしの大きらいな、インテレクチュアル スノビズムよ!」彼女はかっとして叫んだ。「なにさ、あんたは一生、銀紙のお皿にのっかってセロファンに包まれて、天国へ直通ですべりこみたいの? 恥ずかしいことや、きまりの悪いことをすんのが、それほどこわいの? どっからつついてもボロが出ない人間が、それほど偉いんですか?——バカ! 人生てものは、二、三か月さきには人生でなくなんのよ、いま、この瞬間だけが人間の人生なのよ!」
「そうおこるなよ、森さん」
「スカタンの豚野郎、あんたもあのケイと同じよ、男ってものはみんな、ほんとにこの人生を生きちゃいないのね、えせ人間、張りボテ人形、男のカン詰めばかりなのよ、ガラスの眼玉にプラスチックの手、ただへリクツこねてうんこするためだけに生きてるんだわ、 あたしは違うわよ、あたしは生きてるのよ、あたしが生きてるナマ身の人間だってことが、 どうしてクイやあんたにわかってくれないのよ…… 」
この長い弾劾演説の相田、僕はトーストを焼き、ベーコンエッグをつくった。それから大きな角盆にのせ、淹れたての紅茶といっしょに彼女の前にもっていった。
(感傷旅行)
遺品整理中に見つかった「十八歳の日の記録」、昭和二〇年四月ヨリとあり、〈若き日は過ぎ去り易い けれども多彩であり、豊かなる収穫がある。それ故に、“若き日”は尊い。〉と、短詞が添えられている。学徒動員で飛行機部品を作りながらひたすら小説を書いていた軍国少女の青春を綴った日記、21年大晦日の記述に〈来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている〉とあり、田辺聖子の作家人生はここから始まる。〈舞台が大阪で、会話だけ標準語なんて変でしょ。大阪弁こそ細かな心の襞が表現できる〉と、軽妙で巧みな大阪弁を使って男女の微妙な心理を描いた田辺聖子だが、令和元年6月6日午後1時28分、総胆管結石による胆管炎のため神戸市内の病院で死去した。
「神サマが〈はい、そこまで。こっちにおいで〉といわれたとき、ハイ、と答えてすぐ出かけなければいけない。たのしい思い出、うれしい思い出ばかりの人はそれができよう。わたしも、そうありたいとおもっている。」と記した田辺聖子の墓所・慧光院は、川端康成の祖父が寄進した山林田地や当時の豊川村信徒の勤労奉仕によって明治43年に創立された浄土宗の寺である。なだらかな斜面を拓き、幾段かにそろえた霊苑、はやくも傾きかけた弱い秋の陽が、優しい面持ちの白衣観音像が建っている先の崖上、白い小石を敷き詰めた田辺家の塋域の「倶会一處」と深く彫りこまれた黒い碑面を薄くやわらかな明るさで包んでいた。裏面下部に〈カモカのおっちゃん〉こと夫君の川野澄夫氏と田辺聖子の名が読める。
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