本名=田中英光(たなか・ひでみつ)
大正2年1月10日—昭和24年11月3日
享年36歳
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園立山地区1種ロ2号10側8番
小説家。東京府生。早稲田大学卒。大学在学中、ボートの選手としてオリンピック(ロスアンゼルス)に参加。太宰治に師事。昭和15年『オリンポスの果実』で注目された。戦後『桑名古庵』『N機関区』『少女』などを発表。太宰の死の衝撃からアドルムと酒と女に溺れ、自殺。『地下室から』『さようなら』などがある。

(死をみること帰するが如し)ヨセヤイ。暗殺は勿論、自殺でさえも人間に對する罪悪なんだ。人間は自分の愛する周囲の人たちや、未来の人類に信頼と責任感を持ち、生命を大切にしなければならぬ。(中略)その未知な人類の未来を信じ、彼らの築く黄金境の磁石を作るべく、どんなに辛く恥ずかしく厭らしくても、生きて努力するのがぼくたちの義務と責任である。或いは無償の行為に似た美徳でもある。決してあっさり、この世に、「さようなら」を告げてはいけない。
僅かに残っているぼくの理性は、メチャクチャなぼくの生活感情に、こうした忠告をしてくれるのだが、現在、ぼくは自分とその周囲を見渡してウンザリし、正直な話、「皆さん、それでは左様なら」と例の春婦とルンペンを愛し、しかも革命に協力したといわれるソ連初期の詩人マヤコフスキーみたいに遺書を残し、冷たい拳銃の口を自分のこめかみに押しつけたい欲望にもかられる。
(さようなら)
6尺20貫の大男と自ら書き付けた英光。いかめしい体とやさしい心、この肉体と精神のアンバランスが文学の方向を決定づけた。オリンピックの漕艇選手と文学青年のイメージ、純潔な理想主義者でロマンチックな夢想家。冷たい妻と家庭によって、満たされぬ愛に飢え、同棲した春婦との悲惨な交錯。酒とアドルムによって心の空虚を満たそうとした死の直前の退廃生活。無頼におぼれ、無頼にすがり、無頼に打ちのめされていった。
太宰治より以上に生活人であり、純粋であった英光は、師太宰治の情死の翌年、昭和24年11月3日、三鷹・禅林寺の太宰の墓前で睡眠薬を飲んだ上に手首を切って自殺を図り、搬送先の病院で死んだ。
青山霊園の西の端、外苑西通りに架かる陸橋を渡った左手立山地区にある一群の墓。坂道を下っていくと薮蘭の咲く石段の先に「田中家之墓」があった。
墓前には、やはりカーネーションの花二束が供えられている。薄墨のかげりに染まった砂利石の傍らに「田中英光私研究」という本が無残にも雨滲みの表紙を投げ出していた。
——近年、芥川賞作家の西村賢太氏が自費出版で第八輯まで刊行されたもので、ことあるごとに赴いておられたということを読んで、あの本は西村氏が献じられたものだったのかと思ったのだった。
——平成24年3月その墓前で英光の次男で作家の田中光二氏が首と手首を包丁で切りつけ自殺を図った(未遂に終わっている)ということがあって話題になった。
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