立野信之 たての・のぶゆき(1903—1971)


 

本名=立野信之(たての・のぶゆき)
明治36年10月17日—昭和46年10月25日 
享年68歳(真光院精章道信居士)
東京都北区滝野川3丁目88−17 金剛寺(真言宗)
 



小説家。千葉県生。旧制私立関東中学校中退。二年間の軍隊生活をもとに昭和3年『標的になつた彼奴』『軍隊病』を発表、プロレタリア作家として認められた。6年に転向、転向文学先駆けの『友情』を発表。戦後は『叛乱』で直木賞を受賞した。ほかに『明治大帝』『昭和軍閥』などがある。







 七月に入ると間もなく、入浴場の西側の空地に、新らしい赭土の堆土が見えた。入浴の往復のたびごとに発券されるのだが、入浴場の窓にはカーテンを下げてあるので、浴場からは見えない。五つある堆土は、あまり高くはなかったが、緑の夏草の中に見える赭土の色は、何か毒々しく、見る者の眼に忌まわしい感じを与えた。堆土のわきには、細長い壕を斜に掘ってあった。——何だろう? いつもそう思うのだが、よく分からなかった。
 だが、それが何に使われるのか、間もなく分かった。死刑囚をその中に入れて、これを射殺するための壕だった。
 叛乱将校らの死刑が執行された七月十二日は、朝からよく晴れていた。
 前日、中橋らが次々と入浴に出て行くのを、格子の間から見ていた大蔵は、「近いな」と思い、ずっと前の監房から眼を離さずにいた。すると夕食後、斜かいに見える対馬が、向かいの誰かに手信号で通信しているのが見えた。  
 読んで行くと、
 「——アスシケイ」
 やっぱり! と、大蔵は呼吸を詰めた。

                              
(叛乱)



 

 軍隊生活を元に反戦的な作品を書き、プロレタリア作家としての地位を築いていった立野信之であったが、プロレタリア作家同盟のメンバーたちが治安維持法違反容疑で次々と投獄されていった昭和5年5月の中旬、小林多喜二らと共に投獄され、七か月間、豊多磨刑務所に収監された。収監中の煩悶によって転向し、翌年2月上旬に保釈となって以後は、合法的な文学活動に進む意志を固めたのであった。終戦後は二・二六事件を題材とした『叛乱』によって直木賞を受賞したり、日本ペンクラブの幹事長、副会長などの要職を務めたが、昭和46年10月25日午後3時50分、東京・お茶の水の順天堂大学医学部附属順天堂医院で胃・十二指腸動脈血栓症のため死去した。


 

 付近一帯は石神井川の深い渓谷と八代将軍徳川吉宗の命により植えられた楓によって、江戸の昔より紅葉と滝の名所として名高いところであり、紅葉橋の角にある真言宗の金剛寺は、通称紅葉寺と呼ばれ今も親しまれている。立野信之の墓は密葬が行われたこの寺の、道を隔てた向かい側の墓地にあった。遅咲きの躑躅がようやく咲き始めているこの墓地には、連作詩『ウルトラマリン』で有名な詩人逸見猶吉の墓もあるのだが、その墓の左手奥、無彩色の塋域に明るいピンクの花を咲かせた一塊の躑躅が潤いを与え、「立野家之墓」は颯爽と建っている。墓誌を挟んだ右には立野の母で、のちに婚家を出て日本橋で洋裁裁縫所を開き、桜丘女子商業学校(現・桜丘中学・高等学校)を設立した「稲毛多喜之墓」があった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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