高見 順 たかみ・じゅん(1907—1965)


 

本名=高間芳雄(たかま・よしお) 
明治40年1月30日—昭和40年8月17日 
享年58歳(素雲院文憲全生居士)❖荒磯忌 
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



小説家・詩人。福井県生。東京帝国大学卒。昭和10年長篇小説『故旧忘れ得べき』が芥川賞候補作となり注目された。15年『如何なる星の下に』で高い評価を受ける。21年から『わが胸の底のここには』『あるリベラリスト』など、晩年は『激流』『いやな感じ』などを発表。詩集『死の淵より』などがある。







ほの暗い暁の
目ざめはおれに
おれの誕生を思わせる
祝福されない誕生を
喜ばれない
迎えられない
私生子の
ひっそりとした誕生
死ぬときも
ひとしくひっそりと
此の世を去ろう
妻ひとりに静かにみとられて
だがしーんとしたそのとき
海が岸に身を打ちつけて
くだける波で
おれの死を悲しんでくれるだろう
おれは荒磯の生れなのだ
おれが生れた冬の朝
黒い日本海ははげしく荒れてゐたのだ
怒涛に雪が横なぐりに吹きつけてゐたのだ
おれが死ぬときもきっと
どどんどどんととどろく波音が
おれの誕生のときと同じやうに
おれの枕もとを訪れてくれるのだ
                                                 
(『死の淵より』荒磯)

                             


 

 福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として生まれる以前から暗い影を背負った高見順の生だった。永井荷風の従兄弟として生まれながら私生児としての扱いしか受けられなかった宿命に負けず、時代を敏感に息づいた文学。〈生きるためなら、切れるものはなんでも切るよ。手でも足でも、なんでも切ってくれ〉——。すさまじいほど生への執着をみせもしたが、昭和40年3月、食道がんの四度目の手術後は、日に日に痩せ衰えていくばかりであった。
 8月16日、建設に尽力した駒場の日本近代文学館の起工式には口述筆記したメッセージを夫人が代読するしかなかったのであったが、翌日午後5時32分、死闘14時間あまりのち、58年の生涯を閉じた。



 

 江戸期にあっては縁切り寺、駆け込み寺といわれた北鎌倉の東慶寺。細く長く谷を入り込んだ杉木立のそのまた奥に清爽、深閑とした墓地があった。
 山の斜面に沿った石段をのぼっていき、墓地のほぼ全域が見渡せる苔生した高台を踏んだ。すぐ目の下には、文学者墓地と思えるほどの数々の著名小説家・哲学者・歌人・詩人・評論家諸氏の墓が建ち並んでいた。比較的広いこの土庭に、「高見順」と自署で彫られた自然石の墓碑、右側に「カエデの赤い芽」を刻した「空をめざす小さな赤い手の群  祈りと知らない 祈りの姿は美しい」の詩碑が控えていた。
 ——〈如何なる星の下に生れけむ 我は世にも心弱きものなるかな〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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