瀧井孝作 たきい・こうさく(1894—1984)


 

本名=瀧井孝作(たきい・こうさく)
明治27年4月4日—昭和59年11月21日 
享年90歳 
岐阜県高山市愛宕町67 大雄寺(浄土宗)



小説家・俳人。岐阜県生。高山尋常小学校卒。明治42年高山を訪れた河東碧梧桐に出会い師事する。大正3年上京し、翌年創刊された句誌『海紅』の編集助手となる。8年時事新報記者となり芥川龍之介や志賀直哉を知り小説にすすむ。芥川の弟子のひとりと目された。昭和2年『無限抱擁』を刊行。『折柴句集』『俳人仲間』などがある。







 朝になり雨戸を開けた。障子は青白く、酸素吸入の瓶の水は沸続けてゐた。松子の顔は目が隠れる程浮腫れ、断続の急な呼吸、糸のやうなかぼそい生命が目に映るやうであった。病人は股の間を気にし、台所から出て来た母にそれを知らせた。母は優しく宥したが、病床の足の方に廻り、例の掻巻を持上げた。動かすのは危ないと信一は感じたが、直ぐ制止するまでに頭が到らなかった。下を拭ひとり少し足を動かしたハズミに、松子は
 「アツ」
 と云うて、瞬間醜い顔になった。傍で手を握ってゐた彼の頭に沁こんだ。手に応へがなく病人の眼色は消え、口は固く閉ぢ、歯に衝当る舌の音、咽喉の音……。
母は直ぐ手を握り耳の傍で呼んだが、変な音は絶え、唇にわづかに泡が吹出した。枕の上の容顔は、彼内面的な醜さは直ぐに消えてゐたが……。
 信一は室の有様が急激に異ったので驚いた。この室から妻の精神が抜去ったやうで、奈辺に往きつゝあるのだらう? しばらく盆槍してゐたが、吹出してゐる酸素吸入の漏斗をば、其顔によくあたる様正しく直すのであった。

(無限抱擁)

               


 

 〈ぼくは収入が少いから妻が産婆家業で活計を足してゐる始末だし、ぼくの仕事の目的は銭取仕事でないし……〉などと、まことに率直な弁明を書いた市井的作家瀧井孝作。昭和10年に創設された芥川賞の選考委員も第1回から70回まで、38年もの長きにわたってやり遂げた。
 56年の暮れ、十二指腸潰瘍で入院以後はベッド生活に陥り、老衰も相まって自ら執筆することもできなくなった。それから3年、俳句の師として仰いだ河東碧梧桐、小説家として兄事した志賀直哉や芥川龍之介はすでに亡い。弟子であった島村利正や妻リン、妹も先に逝った。絶句〈秋の風味けはしや薬かみにけり〉、昭和59年11月21日午前9時44分、90歳と7か月の生涯であった。



 

 夏とはいえ早朝6時はかなり涼しい。そのうえ今朝はあいにくの雨だ。土砂降りの雨に濡れながら、七夕の笹や飾りが重々しく垂れ下がっている飛騨高山の軒々を足早に通り過ぎて、東山遊歩道をつないだ寺町に到る。小規模ながら総本山知恩院の伽藍を模した東林山香荘厳院大雄寺、裏山墓地は薄暗く、樹木や墓石をとりまいている雨煙でかなりもやっていた。
 指物師であった父新三郎、その姿を描いた10編のいわゆる父親物で世評を高めた作家の一族が眠る瀧井家墓所。ひときわ大きな「涅槃城」、笠つき墓石の側面に大正15年春、瀧井新三郎建之とある。
 孝作の納骨の最中も強い雨が降っていたとか。苔生した大小の石碑、赤土の庭、名も知らぬ緑の草々、雨音がビニール傘を持つ手に激しく響いてくる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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