高橋和巳 たかはし・かずみ(1931—1971)


 

本名=高橋和巳(たかはし・かずみ)
昭和6年8月31日—昭和46年5月3日 
享年39歳(大慧院和嶺雅到居士)
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園3区1号865番 



小説家・中国文学者。大阪府生。京都大学大学院卒。夫人は小説家の高橋たか子。埴谷雄高に影響を受け終生師事。現代社会のあり方についての発言は、全共闘世代の支持を得た。『悲の器』で河出書房文藝賞受賞。『憂鬱なる党派』『邪宗門』『散華』などがある。







 われわれの一人一人が、思想とははたして思惟する動物である人間にとって何であるのかと。思想とはその存在にとっていったい何であるのかと問われているとはお思いにならないか? われわれは人間が猿であることを証明しようとしているのか、人間が苦悩する人間的存在であることを知りたいのか? それとも、日本の民族の〈血と土〉の特質か。(中略)学問と研究の崇高性はいったいどこにあるのか。学問もまた人間が人間であることの誇りと明証の一部門であろうが。にもかかわらず、われわれの研究に崇高性の片鱗でもあっただろうか? ある一個の存在が、厖大な、圧倒的な権威の前にさらされ、裸の、二本の足と二本の手と、破れやすい皮膚と体をまもりきれぬ髪だけの存在に還元させられ、最低の、生きてゆく権利を守るために絶叫する。それは絶叫であって、その声の悲しさだけが真実であり、その内容がAであろうとBであろうと、それは、〈生は生を欲する〉という一つの基本的原理を証明しているだけだ。
                                                             
(悲の器)

                                   


 

 昭和45年11月25日に三島由紀夫、翌46年5月3日に高橋和巳が相次いで逝った。割腹自殺と40歳に届くか届かない年齢での病死。当時20代半ばにも達しない世代だった私にとっても、それらの死が与えた衝撃はたとえようもなく激しいものであった。
 全共闘世代の若者は皆悩んでいた。生存の意義についての明確な回答を誰もが求めていたのだが、しかし、その暗闇を照らしだしてくれる光はどこにも見い出せなかったのだ。そんな八方ふさがりの状況の中に現れた右と左の旗手だったのだから。
 東京女子医科大学消化器病センターで、上行結腸がんのため逝った彼に同志小田実は「とむらいのことば」をおくった。
〈すべての気持ちをこめて、高橋和巳よ、ホナ、サイナラ〉。



 

 凍えきって縮んでしまった頬をこわばらせて、開園されたばかりの霊園に足を踏み入れ、緩やかな登り坂のダイナミックな大参道を朝の緊張した空気を吸いながら歩いている。孤独のために歩き、一歩踏み出すたびに孤独を味わう難儀さよ。
 〈苦悩教の始祖〉あるいは〈憂鬱なる党派の世代〉などと称せられ、政治と思想に苦悩する若者の教祖的存在であった高橋和巳。その墓は、埴谷雄高の筆を刻し、富士を背にした広大な霊園の画一化された墓石群の中にあった。過ぎ去っていった年月と共に飛び散った何かを思い起こすように、冬日に向かって明るく輝いている。
 湿った黒い火山灰土に転げ倒れた花生けを立て直そうとした私の足跡だけが、光の中に深々と残った。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   高田 保

   高田敏子  

   高野素十

   高橋和巳

   高橋新吉

   高橋元吉

   高浜虚子

   高見 順

   高村光太郎

   高群逸枝

   高安月郊

   高山樗牛

   滝井孝作

   瀧口修造

   瀧田樗陰

   田久保英夫

   竹内浩三

   竹内てるよ

   竹内 好

  武田泰淳 ・百合子

   竹中 郁

   武林無想庵

   竹久夢二

   竹山道雄

   田沢稲舟

   多田智満子

   立花 隆

   立原正秋

   立原道造

   立野信之

   立松和平

   田中小実昌

   田中澄江

   田中英光

   田中冬二

   田辺茂一

   谷川 雁

   谷川徹三

   谷崎潤一郎

   種田山頭火

   種村季弘

   田畑修一郎

   田宮虎彦

   田村泰次郎

   田村俊子

   田村隆一

   田山花袋