田沢稲舟 たざわ・いなぶね(1874—1896)


 

本名=田沢 錦(たざわ・きん)
明治7年12月28日—明治29年9月10日 
享年21歳(浄徳院真如妙覚大姉)
山形県鶴岡市日吉町9–47 般若寺(曹洞宗)



小説家。山形県生。共立女子職業学校(現・共立女子大学)中退。明治28年『医学修行』『しろばら』で文壇に認められ、同年12月、山田美妙と結婚、合作小説『峯の残月』を発表したが、病気のため3か月で破局。帰郷後急性肺炎で夭折した。新体詩『月にうたふさんでの一ふし』、遺稿『五大堂』などがある。







 「うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいましツ」泣いて我手にすがられて、今宮殆ど当惑せしが、屹度思ひついて「イヤ其お心は忘れません、しかし糸子さん、あなた私のかきおき御すらんなさツたの」「拝見いたしましたとも」「そんならよオく聞きわけて、私一人死なせて下さい」糸子は涙の声ふるはせ「あなた今更そんな事を仰るのは、私をおいとひ遊すからでせう、考へても御覧遊せ、あんなにひどくかかれては、たとひどうでも私も生きて両親に顔向はできません……だからあなたがたつて一所に死ぬのは否だと仰るなら、私は一人で死にますから」と言ひつゝつと身をおこして、崖の方にはせいだすを、あはてて今宮引とめて、これまでなりと決心し「そんなら御一所に死ませう」「ほんとうですか」「ほんとですとも」「オヽうれしい」とよろこぶあはれさ、思へば夢にもおとりたる、痴情のはかなさを、うき世の人はそしるとも、迷ひにまよひし今宮は、いかにうれしとおもひしならん。おりからさツと潮風に、雲はらはれて月影も、ふたゝびくまなくてらすにぞ、手に手をとツて稍暫時、顔と顔とを見合せて、これが此世の名残かと、言葉はなくてもろともに、涙にくるゝ四の袖、吹浦島の岸による、浪も二人の身のはてを、かなしむごとき風情なり。
                                               
(五大堂)



 

 明治29年、三人の女流作家が相次いで亡くなった。2月10日に若松賤子が31歳で、9月10日に田沢稲舟が21歳で、11月23日に樋口一葉が24歳で。ともに望まぬ病死であったが、その夭折によってなお残月の輝きのごとく、後の世の人々に想いつがれてきたのだろう。
 山田美妙との出会いによって文学の道に踏み入った稲舟にあって、美妙は愛惜の対象であり、文学そのものの認識であったのだが、わずか3か月に満たない結婚生活の破綻から、山形県西田川郡鶴岡五日町68番地(現・鶴岡市)に帰郷、虚しく郷里の空を仰ぎ見ることとなってしまった。悲嘆と悔恨の日々がつづく中、半年を経た初秋の朝に急性肺炎のため、薄倖の最期をむかえたのだった。



 

 夜行列車で降りたった北国の駅舎をでると、うらぶれた秋の朝道が寒気と共に浮かび上がってくる。夢から覚めていまだおぼろげなる旅人の体をまだ朝の陽は包んでくれない。ほどなく訪れた山門の奥に、露も清やかな甍を波だたせて閑かなお堂がたっている。
 こぼれくるオレンジ色の灯明を拝して踏み入った墓地、陽も充分に届かない朝6時まえの聖域に、彼岸のこととはいえ、ちらほらと墓参者が見えるのには驚かされた。藤沢周平の小説にも登場するこの寺の広大な墓地にしても、代々医者であった田沢家の塋域は広い。百余年のうらがなしい時を経て黒ずんだ「田澤錦子墓」、思わずさすってみた手のひらに、ゆえ知らず命を問うようなざらっとした感触がいつまでも残った。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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