本名=竹内 好(たけうち・よしみ)
明治43年10月2日—昭和52年3月3日
享年66歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種14側10番
中国文学者・評論家。長野県生。東京帝帝国大学卒。昭和9年武田泰淳らと「中国文学研究会」を結成。『中国文学月報』を主宰、現代中国文学研究に活動した。19年評伝『魯迅』を発表。大きな反響を呼んだ。『国民文学論』『竹内好評論集』『近代の超克』などがある。
日本は近代社曾であるから、近代社曾にあるもので日本にないものは一つもない。近代藝術のもつもので日本の藝術のもたぬものは一つもない。それにもかかわらず、ただ一つのものが缺けている。それは、贋値を價値たらしめるもの、意味を付與するものである。つまり、價値の主體である人間が缺けている。日本の近代藝術は、この百年、ゆたかな花をきかせてきた。それを一概に、非人間の藝術だと言つたら言いすぎであろう。人間解放への指向をもち、藝術的低抗を権力にたいして行うことで、日本の褻術はそれなりにやはり近代藝術であつた。非人間的でなく人間的であつた。それをしも押しなべて非人間的と見るのは酷である。しかし、最後のギリギリの一鮎で、それなくしては藝術が自立しえない本源的なある部分に、ジークフリートの肩のように、空白があることもまた實感として否定しがたい。いわぱ日本の近代藝術は、砂上の楼閣に似ている。その楼閣が音立てて崩れるのをわれわれは一九四五年に目撃した。おそらく日本の藝術家にいちばん缺けているものは、対権力意識である。藝術が藝術として自立するために不可缺な根本要請おいて、ひよわなところがある。そのためコミュニズムの厭力が、権力問題としてとらえられずに、イデォロギィ上の好悪の間題にすり代えられるのである。天才主義者ニーチェは紹介されたが、プロシア帝國を手玉にとつたニーチェは日本に移植されなかつた。ゴーゴリや劉鐵雲はいたかもしれないが、ドストエフスキイや魯迅はついにあらわれなかつた。
(権力と藝術)
昭和51年10月、大学以来の盟友で、「中国文学研究会」を結成し、ともに中国現代文学研究の基礎を築いた武田泰淳が死んだ。葬儀委員長として痛恨の弔辞をよんだが、自らも体の不調から治療入院、12月に食道がんと診断された。
末期的な症状で肺などにも転移、翌昭和52年3月3日、抗う間もなく死去した。一週間後の3月10日に東京・信濃町の千日谷会堂で埴谷雄高を葬儀委員長とする葬儀が行われた。祭壇には『魯迅文集』の1、2、3巻が遺影の下に置かれていたが、最初に弔辞を読んでいた中国文学者増田渉が心臓発作で倒れ、まもなくあとを追うように亡くなるという不幸が重なった。
竹内を好(ハオ)さんと呼んで親しんだ丸山眞男はつぶやいていた〈武田が竹内を呼んで、竹内が増田を呼んだ〉。
2歳の時に故郷を去ったとはいえ安曇生まれの父親と佐久生まれの母親から、信州人気質をうけついだ竹内好の口癖は、〈男は信州人にかぎる〉というものであった。
昭和15年3月、父武一の一周忌に竹内好自身が建立した「竹内家之墓」、背後の左右に配された南天と若緑色の実を結んだ梨の木。 戦前から『中国文学研究会』をつくってその中心的役割を担い、戦後さらなる評論を展開して戦後論壇に大きな波紋を投げかけた竹内好の眠るところ。それほどの面積でもない塋域が広々と感じるのは、懐の広かった故人の影響でもあるのだろうか。
——竹内が敬愛した魯迅の墓は中国・上海市の魯迅公園にあるのだが、まだ万国公墓にあったころの小さくて、傷ついた墓に無言で頭をたれていた竹内好を誰が知ろう。
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