本名=高村光太郎(たかむら・こうたろう)
明治16年3月13日—昭和31年4月2日
享年73歳(光珠殿顕誉智照居士)❖連翹忌
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種ロ6号1側
詩人・彫刻家。東京府生。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。明治33年新詩社に加わる。明治39年渡米、萩原碌山を知る。帰国後、「パンの会」に参加。大正3年長沼智恵子と結婚。詩集『道程』『智恵子抄』を刊行。昭和13年智恵子と死別以後戦争詩を多く書き、戦後は責任を痛感して岩手県の山小屋で自炊生活を送る。

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
(レモン哀歌)
高村光雲を父に、生まれながらにして彫刻家としての道を選ばされていた光太郎は宿命的な彫刻家であった。ながく父の庇護下にあった生活、「私の支柱、私のジャイロ」といって憚らなかった智恵子との出会いと別離、智恵子と暮らした思い出深い千駄木の家も空襲で空しくなった。疎開先の岩手県花巻ではじめた山小屋生活からもとっくに去ってきた。彫刻家として、詩人として激しく揺れた人生も、もう幕を引く時がきたようだ。
ああ、もうすぐ、智恵子に会える——。
昭和31年1月から衰弱がなおすすんだ。3月には数度の喀血、4月2日、前日吹き荒れた春の大雪が東京を埋め尽くした早暁3時45分、中野桃園町の中西氏アトリエで肺結核のため一人静かに終わりを迎えた。
初夏、新葉の世界が蘇る赤芽垣で囲まれた塋域に、古代の石棺のようにがっしりと石組みされた高村家の「先祖代々之墓」がある。静かな園内の道から見上げるその墓碑は、厳格な父光雲の建てたもので、高村家一族十数人の戒名が刻まれている。智恵子の戒名も光太郎の戒名に並んで記してある。
新しい時代の明治の社会や芸術の世界にも古い価値観は固くこびりついていたが、光太郎と智恵子、二人は純粋さを守るため果敢に挑んでいったのだった。智恵子は結核に病んで先に逝ったが、芸術は守った。〈広漠とした風景〉の前で光太郎は思うのだ。——〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る 道は僕のふみしだいて来た足あとだ だから 道の最端にいつでも僕は立っている〉。
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