竹内てるよ たけうち・てるよ(1904—2001)


 

本名=竹内照代(たけうち・てるよ)
明治37年12月21日—平成13年2月4日 
享年96歳 
山梨県大月市猿橋町藤崎619 妙楽寺(臨済宗)



詩人。北海道生。日本高等女学校中退。生後間もなく父方の祖父母の元で育てられた。10歳の頃上京。女学校を肺結核療養のため中退し、婦人記者生活を経て結婚。一児をもうけたが脊椎カリエスのため離婚。以後、詩作に励み『銅鑼』などに発表。昭和5年第一詩集『叛く』を刊行。『花とまごころ』『静かなる愛』『海のオルゴール』などがある。



 



生まれて何も知らぬ 吾子の頬に

母よ 絶望の涙をおとすな

その頬は赤く小さく

今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも

いつ人類のための戦ひに

燃えて輝かないといふことがあらう

生まれて何もしらぬ 吾子の頬に

母よ 悲しみの涙をおとすな

ねむりの中に

静かなるまつげのかげをおとして

今はただ 白絹のやうにやわらかくとも

いつ正義のためのたたかひに

決然とゆがまないといふことがあらう

ただ 自らのよわさといくじなさのために

生まれて何も知らぬわが子の頬に

母よ 絶望の涙をおとすな 
                                       
(頬)



 

 昭和18年、てるよは自らの略歴を記した。〈明治三十七年十二月二十一日北海道札幌市に生る。幼にして生母に生別し、(略)小学校三年のとき東京へ来る。高等女学校三年退学、一家のため生活戦線に立ち、少女の腕に祖父母、幼妹たちを支え、二十歳の春、涙と共に或事情にて結婚、(略)長年生死も不明なりし父来宅、父の許に妹達をおくり、ひとり婚家に残る。その時みごもれるためなり。一子の母となりし昭和二年春、脊椎カリエス、不治と診断され、翌三年二月二十五歳にて男子徹也をおきて離婚となる。云々……〉と。
 その後25年ぶりに再会した子息徹也と山梨県大月市で暮らし始めるが、まもなく徹也は舌がんのため若くして死んだ。最晩年は新潟市に移り、平成13年2月4日、老衰のため永眠する。



 

 山の中腹にある寺の石段をのぼっていく。遠く鉄橋を渡る貨物列車や小さな集落が見下ろせる本堂裏、ひな壇のように積み上がった墓々の最上段に「竹内家」墓はあった。子息徹也23回忌記念に母てるよが建てた墓。裏面に詩『頬』の一節が彫られている。
 〈生まれて何もしらぬ 吾子の頬に 母よ 悲しみの 涙をおとすな〉。
 やわ風はそよぎ、鶯が鳴いている。杉や檜の木立を背に黄色いレモンと黄色い薔薇と黄色いタンポポの花が供えられた墓石に美しい陽はそそぐ。〈生きたるは 奇蹟でもなく 命の神秘でもない 生きたるは 一つの責である〉と証した母子の墓。
 てるよを産んで間もなく18歳で石狩川に身を投じた、札幌・花街の半玉であった母の名も、不甲斐なかった父の名もそこにはない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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