田中冬二 たなか・ふゆじ(1894—1980)


 

本名=田中吉之助(たなか・きちのすけ)
明治27年10月13日—昭和55年4月9日 
享年85歳(草雨亭忍冬居士)
神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目7–14 青柳寺(日蓮宗)



詩人。福島県生。旧制立教中学校(現・立教池袋高等学校)卒。銀行勤務の傍ら詩作。昭和4年第一詩集『青い夜道』、5年『海の見える石段』を刊行、注目された。16年『四季』同人。『晩春の日に』で高村光太郎賞を受賞。ほかに詩集『花冷え』『故園の歌』などがある。







愉しかるべきタ餉の食卓に
いささかのことに妻と争ひ
戸外に出づれば
戸外はかたちのよくなりかけし月の夜なり
かくてわれ美しの月の夜を
ひとりさまよひゆくほどに
かの食卓に毀せし皿のごと
破れしわが心にも月光はしらじらとさし入るならずや
むなしき憤りのやうやくさめ恥ぢらひつ
しばし小暗き木かげに佇めば
かの時幼きものの涙ぐみし妻に
——母よ父は御飯があつかりしなり と
とりなせる言の葉耳朶にかへり来て
わが心蕭々として襟へに易水の寒を覚ゆなり

——そのかみの幼きもの今やなし 二十二歳にして世を儚み
自らのいのちを断ちしなり 断腸の思ひす  
                             
(返らぬ日の歌)    



 

 〈私は苦心に苦心してつくっている。推敲に推敲を重ねる。一行二行の詩にも、数カ月を要することさえある〉と郷愁の叙景を清廉な詩篇にして詠った〈青い夜道の詩人〉田中冬二。
 出発時期を同じくした詩人たち、三好達治や丸山薫、村野四郎もすでに冥界に旅立っていった。ただひとり自分だけが生き延びてきたという感慨があった。
 昭和55年の初頭より体調不良が続き、幻覚症状さえ覚えるほどに少しづつ、衰弱は進んでいった。〈あぢさゐのいろの夕の空に 暮れのこる一本の山桜の花 わが青春の日の悔のやうに〉。——4月9日午後4時20分、いつものように往診にきた医師が「入院ですな」といった直後に息絶えた。 



 

 野田宇太郎を葬儀委員長とした葬儀が行われた寺、相模原市上鶴間の青柳寺は俳人であった友人八幡城太郎が住職であった。
 うららかな春の日の別れも過ごした4月29日、この寺で詩碑の除幕式があった。〈すぺいんささげの鉢を 外へだしてねてもよい頃となりました 今夜から明日の朝へかけて 太平洋の沿岸は 暖いあめになるだらうと 海洋測候所は報じてゐます〉。
 最初冬二の遺骨は、父の郷里、富山県黒部市生地山新の専念寺に葬られたのだが、のちにこの寺の新墓に埋葬された。「田中冬二之墓」、草野心平筆が刻されてある。4年の後に逝った野田宇太郎の墓が同じ意匠で隣に並び、近くに詩人乾直恵の墓も建っている。 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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