本名=田宮虎彦(たみや・とらひこ)
明治44年8月5日—昭和63年4月9日
享年76歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園26区1種32側16番
小説家。東京府生。東京帝国大学卒。昭和11年『人民文庫』創刊とともに参加。女学校教師などをしながら小説修行をする。22年『世界文化』に発表した『霧の中』が認められる。『絵本』で毎日出版文化賞受賞。『物語の中』『落城』『末期の水』『菊坂』『足摺岬』『愛のかたみ』などがある。
重たく垂れこめた雨雲と、果てしない怒涛の荒海との見境いもつかぬ遠い涯から、荒波のうねりが幾十条となくけもののようにおしよせて来ていた。そのうねりの白い波がしらだけが真暗い海の上にかすかに光ってみえた。それはうねりの底からまき上り、どうとくずれおち、吼えたてる海鳴りをどよませながら、深い崖の底に噛みついては幾十間とわからぬ飛沫となって砕け散った。にぶい地ひびきがそのたびに木だまのように尾をひいて共鳴りを呼んでいた。思わず私は立ちすくんだ。幾十条もの白い波頭が、身をよじらせながら絶壁に打ちよせてくるその速さが、私が毎日みつづけている青い色のついた夢の中の得体の知れぬものの速さに似ていたのであった。立ちすくんだ私を、ちぎれとんだ古綿のような雨雲が殴りつけていた。もし、あの死のうと思い立った旅で私が自殺することが出来ていたとしたら、その瞬間であった筈だ。だが、私は怒涛の中に身を投げるかわりに、ぬれそぼった身体を力なく後ずさりした。
(足摺岬)
いつのときも絶望や悲哀がある。もちろん憎悪や暗鬱、怨恨なども言うに及ばずだ。田宮虎彦の作品に流れる悲壮な曲調は止むことがなかった。『霧の中』や『落城』、『足摺岬』においても然りだったが、昭和32年11月に胃がんで亡くなった愛妻千代との往復書簡集『愛のかたみ』は多くの人々の感動を呼び、ベストセラーとなった。
それから30年後、田宮虎彦は昭和63年末に脳梗塞で倒れ、右半身不随となった翌年の4月9日午前9時15分ころ、76歳の生涯を閉じた。しかし、それは『足摺岬』の烈しい飛沫の上の巖頭からではなく、東京・北青山のマンション11階からの投身自殺によってであったが、なによりも無常観を漂わせた死であった。
黄昏の迫ってくる墓原に幼子たちの甲高い声が響いてくる。多磨霊園の西はずれの浅間山公園近くにある墓碑。夢遊病者の休み処に似て牧草地のように刈り込まれた芝の上、淡桜色の墓石も台石も地に伏せるように低く敷き組まれており、その左上角に彫り込まれた「田宮虎彦之墓」の小さな文字が、墓前に供えられたオレンジ色の百合花の向こうの淡い石色に溶け込んでいた。
以前蔓薔薇を這わせていたと思われる背後の木製の柵は、這わせる薔薇の面影は何処にものこっておらず、白ペンキで塗られた痕があちこち剥がれ、青い斑点となって昔のその面影を偲ばせている。雲も風も色も匂いもなにもない空の、霞がかったささやきだけがこの墓の意識だった。
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