本名=田久保英夫(たくぼ・ひでお)
昭和3年1月25日—平成13年4月14日
享年73歳(華文院釈世英)
千葉県松戸市田中新田48–2 八柱霊園4区1種21側48号
小説家。東京府生。慶應義塾大学卒。山川方夫らと第三次『三田文学』を刊行する。昭和38年『解禁』で芥川賞候補となり、注目された。『深い河』で44年度上芥川賞受賞、『海図』で読売文学賞を受賞。ほかに『髪の環』『触媒』『氷夢』『木霊集』などがある。
「こんなに生きることも死ぬことも、生者も死者も、敵も味方も、深閑とむなしい一点から眺める場所を、私はずっと求めていたんだから。今、私は辛くもそこに辿りついたんだ。このむなしさこそ、充実だ。零こそ無限だ。私は修辞的に言ってるんじゃない。この零という座標こそ、正と負の二つの世界を、ともに存在させる一点なんだ。この薄暗い部屋に一人で腰かけて、外界の光と影が、是と非が、出生と衰滅が、私という空虚な眼を仲立ちに、触れあい、変貌し、かがやく意味を帯びるのを見つめている。これこそ、私がよたよたと辿りついた地点だ。」
耕介はその噴れ声を聞くうち、急に自分の浅墓な勝ち誇ったような気持が、崩れるのを感じた。この老人の中には、意外に切れそうで切れないピアノ線に似たものが、潜んでいる気がして、一瞬とまどった。この男はそんなものを見つめるために、紗のカーテンを下した暗い部屋に、毎日坐っているのか。そこで見るものは純粋の認識なのか、単なる狂気なのか、彼は相手がそのために長い一生をかけ、醜く狡知をつくして生き延びてきたようで驚いた。
あるいはこれを量りがたい認識の一端とすれば、天城さんは行動の一端なのかも知れない。彼らがお互に否定しあい、それによって相手を「生かし」つづけたとすれば、その両極の働きあう全体こそ、時間そのものかも知れない。耕介はまるで「時」が生き物のように脈うつ血管に、自分が触れたような身震いを感じた。一瞬、自分の中の小さな雪豹が、永遠の頂きへ走りぬける願いにかられて、背すじが疼いた。
(触媒)
戦後、第三次『三田文学』の編集者として共に名を連ねた山川方夫は、昭和40年2月、34歳の若さで輪禍に倒れ、平成11年7月、江藤淳は自裁した。2年後の4月14日、代々木八幡の病院で食道がんによる動脈破裂のため急死した田久保英夫は、〈自分が死んだあとに、この世界が壮大に(ときに悲惨に)、あるいは華麗に(ときには醜く)存在しつづけても、何の意味があろう〉と問答するのだ。
——〈おれのこの気海丹田、全て自分本来の故郷、この本来の故郷にどうして便りなどあるか。 おれのこの気海丹田、ただ自分の心の浄土、心離れた浄土に何の荘厳さがあるか。 おれのこの気海丹田、すべて自分の身中の弥陀、ほかの弥陀が何の法を説くか〉。
昨夜の大型台風が通過した霊園のいたるところで樹木は折れ、松ぼっくりや小枝が散乱して惨憺たる有様であったが、ときおり曇気が切れると、この塋域の小さな青い実をつけた椿の木の葉にやわらかな生気が蘇ってくるようだった。
以前は浅草の寺にあった「田久保家之墓」は、戦災によって自然消滅して現在の形となったそうだ。昭和17年5月、輸送船の撃沈によりわずか20年の歳月を海底に沈めた異父兄光太郎。彼とともに〈船に乗ってた俺たち乗務員や、南方に行く大勢の商社員たちの夢〉。海底で氷ったという褐色の〈氷夢〉に触れ、〈光と影 墜ちていく時間と昇っていく空間 死者たちとそうでないものたち〉と作家は交感しながら飛翔しているのだろうか。
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