竹久夢二 たけひさ・ゆめじ(1884—1934)


 

本名=竹久茂次郎(たけひさ・もじろう)
明治17年9月16日—昭和9年9月1日 
享年49歳(竹久亭夢生楽園居士)❖夢二忌 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種88号9側 



画家・詩人。岡山県生。兵庫県神戸尋常中学校(後の旧制神戸第一中学校、現・神戸高等学校)中退。一時、文学の道を目指したが、転じて絵画の道を選び、24歳の時岸たまきと結婚。彼女をモデルにして描いた抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。『宵待草』絵入り小唄集『どんたく』自伝絵画小説『出帆』などがある。







だが 人間の心の奥底に帰るより どこに行きどころがあるというのだ。
だが 実業従事している人間は 分別がついてもいい年をして
まだ詩なんか書いている私を 笑うであろうか。

だが 一体諸君にしても、我々は どこへ行きつくのだ。

わたしはある日、ボイルハイトから、第一街へゆく
電車の中で、わたしの友人の ある貧乏な詩人に、トランスファを
くれた猶太の一婦人の善良な徴笑を思出す。
事の起りは、彼の襟にさしていた えにしだの花のためであったろうか。
いやいやそうではない。
あの猶太女のよき魂を わたしたちが 見つけたまでだ。
羞かんだ顔を描いてやった。
芭蕉は「奥の細道」にも 旅であった よき魂のことしか
書きとめていない。
                                                              
(よき魂)



 

 たまきをモデルに描いた「夢二式美人画」はたちまち夢二を人気作家に押し上げたが、二人で始めた絵草紙店「港屋」で出会った彦乃との恋によって、たまきとは離別、彦乃との同棲も彦乃の病(結核入院)によって破局、その後に暮らしたモデルのお葉とも6年後には離別。夢二を巡る三人の女性たちとの儚くも彩られた日々はもう帰ってこない。
 若い日に「なるようにしかならない」と自由奔放に生きた分だけ、晩年には侘びしい運命を辿った夢二であった。絶頂期から転げ落ちていった昭和7年、新境地を求めて旅立った欧米への旅も結核を発病して失意のうちに帰国、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所の人となって、見舞客もないまま昭和9年の9月1日早暁、高原の朝もやに包まれながら終焉を迎えた。



 

 「黒船屋」など哀愁のある抒情的な美人画で一世を風靡し、「宵待草」などの哀しい愛の歌を幾多遺して逝った竹久夢二の小さな墓石がここにある。自然石を割った碑面を磨き、「竹久夢二を埋む」と、画家有島生馬の筆が彫られてある。中央画壇とは相容れず、心の赴くままに漂泊の人生を送り、「たまき」、「彦乃」から「お葉」まで様々な女性と浮き名を流した華やかさはそこには感じられない。「大正ロマン」は遠い昔、夢のまた夢。ただ秋風とともに消え去っていったはずの残香が、仄かにとりまいているような気がしないでもなかった——。
 〈百合の香や 恋はいつも新しく 恋はかはらぬ病なり 月日を経れば 恋もいつか忘るべし さて忘るるは 墓へゆく日か〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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