本名=高田敏子(たかだ・としこ)
大正3年9月16日—平成元年5月28日
享年74歳(翠光院紫游妙敏大姉)
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園1区5号198番
詩人。静岡県生。共立女学校(現・横浜共立学園)卒。昭和21年満州から引揚げ、長田恒雄らの『コットン・クラブ』に参加。のち同クラブは『現代詩研究』を創刊、同人。27年『日本未来派』同人。第一詩集『雪花石膏』を刊行。40年詩雑誌『野火』を創刊。『月曜日の詩集』『藤』『人体聖堂』などがある。

この夏の一日
房総半島の突端 布良の海に泳いだ
それは人影のない岩鼻
沐浴のようなひとり泳ぎであったが
よせる波は
私の体を滑らかに洗い ほてらせていった
岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと
私の夏は終っていた
切り通しの道を帰りながら
ふとふりむいた岩鼻のあたりには
海女が四五人 波しぶきをあびて立ち
私がひそかにぬけてきた夏の日が
その上にだけかがやいていた。
(布良海岸)
そのやさしさゆえに「台所詩人」「お母さん詩人」などといった嫉妬をうけることにもなったが、女性の、あるいは家庭の平穏と思われる日々の哀歓を、かくも平明に歌いきった詩人を私は知らない。三人の子供たちはそれぞれの道に踏み出した。同居するままに協議離婚した夫も見送った。
昭和63年3月、胃の全摘手術を受けたが、本人への癌の告知はなされぬままであった。自宅での療養を望んで詩誌『野火』の選考、詩作講座の再開、外出もできるようになったのだが、再入院、平成元年5月28日午後2時20分、東京医科大学病院で胃がんにより逝くことになった詩人を愛惜して見送ったのは、彼女の好きだった藤の花で紫色に染まった遠い山々であったのかもしれない。
この霊園にある日本文藝家協会によって建立された「文学者之墓」には767名もの(平成24年現在)名前が刻まれており、文学ファンがよく訪れるところではあるのだが、この区画にも梅崎春生、森田たま、由起しげ子、秋元不死男など多くの文学者の墓が並んでいる。
1区5号198番、「敏子の墓」は富士を眺める場所にある。「藤」に縁のある敏子と次女喜佐の眠る「富士」の見える塋域。数日前の溶け残った雪を踏みこむと、凍っている表面がぐしゃっと崩れて、湿った柔らかい火山灰土の上に黒々とした沓形を印した。墓前に手を合わせて顔を上げて見ると、富士は背面に雲を引いて穏やかに消え去ろうとしていた。
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