stories⑨

アニばらワイド劇場
(第33話~第36話)





第33話 「たそがれに弔鐘は鳴る」 ~白馬~



敷地内の石畳が乾く暇のない程に雨が降り続く、まったくおかしな夏の始まりだった。

中途半端に熱気を帯びた邪魔っけな湿気のせいで兵舎の至るところがむんむんしている。こいつのせいでただでさえ取っ散らかってやりきれない男所帯が一層むさ苦しい。普通この時期ならもうちょっとマシな空気が吸えるはずなんだが。
本来なら今は一年で一番過ごしやすい季節のはず。一体なんだっていうんだ?でも、これが不快なだけかと言えば・・・案外そうでもない。むさ苦しさの中にも多少の覇気というか・・・普段これといった楽しみもなく漫然と日々を過ごす俺たちに、珍しく共通の関心事が出来たことによる連帯感っていうか何て言うか、そんなもので宿舎に変な熱気が感じられる為かもしれない。
その、なんだ?押し付けられた仕事にも少しは前向きに取り組んでやるとするかって・・・なぁ?壁一枚を隔てたところで今まさに、歴史的な話し合いがなされているわけで、要はそれに興味津々である俺たちにとって三部会の議場の警備というのはある意味願ってもない任務なわけだ。何の知識も教養もねえけどよ。それでも三部会って聞くと・・・ひょっとしてフランスは変わるのか?うまい飯を腹いっぱい食える時代がやって来るのか?とかって事を、一応は期待してみるわけさ。
そりゃ~気分だって多少は上がるわな?

とはいえ・・・一見ラクそうに見えたこの任務、実際やってみると、実はパリ市内で暴徒たちの小競り合いを鎮圧するよりもずっと骨の折れる仕事だったわけだ・・・
すこぶる行儀の悪い俺たちにとって一定の場所に日がな一日立ち尽くすという作業は過酷を極めた!動けないとなると途端に小便がしたくなる。子供じみていやがるが、じりじりして落ち着かないところへ降り続く雨でもって軍服はおろか下着までズブ濡れになりやがってよ・・・布地がやたらへばり付く感覚がしまいにゃ雨なんだか小便なんだか分からなくなる。でもって、どんどん憂鬱になりやがる・・・しんどいもんだぜぇありゃぁよ。

とにかく立ちんぼうなこの任務、王宮の飾り人形なんつって今まで馬鹿にしていたが、奴らもけっこう重労働こなしていたんじゃねえか?等と軽口を叩きつつなかなか経過しない時間に苛立つこと6、7時間を毎日毎日・・・実際、中で何が起こってるかなんて俺たちみたいなもんに知らされるわけもなく、膀胱の反乱を恐れながら大概は退屈な雨音なんかを聞きながら、ひたすら眠気と闘うことになるわけなんだが、まぁこれは俺のケース。他の奴らのこたぁ知らねえよ。
やれしかし、石畳以上に乾く暇のないまま着倒される軍服のむさ苦しさと言ったら・・・おまえ、悲惨なもんよ~・・・へへへ・・・・・・今だけはよ、三度の飯より着替え用の軍服を支給して貰いてえと心底思うぜ。

でな、暇な警備中によ、やれやれひとつ柔軟体操でもしようかと持ち場を離れようとすると、カツカツと規則正しい足音が響いてきて、目の前を青い軍服を着た金髪の・・・これは別に悪い意味じゃねえぜ?飾り人形みたく整ったお顔の隊長がぐずぐずの雨天にも関わらずやたら颯爽と通り過ぎたりするもんだからよ~・・・おちおち立ち小便なんかもできやしねえ。そら、あまりに失敬だわな?つ~かよ~、議場警備中に立ち小便なんかしたら営倉もんかね?と、待て待て!勿論冗談で言ってるだけだっての!!


まぁ、なんだかんだ言ってあの女隊長が来て以来、我らフランス衛兵隊のモラルもだいぶな、だいぶ向上したんじゃないかい?と、俺は思うわけだ。
つまりはよ・・・俺たちゃ~紳士なのよね、意外とさ。

へっ・・・実際はあの女に立ち小便がバレて現行犯逮捕されたとして・・・・・
う・・・恐ろしくて顔見られねえや・・・しょっぱなの決闘を思い出しちまう・・・!
いい時代が来るかもしれねえ、その矢先に息子ちょん斬られたくねえもん!
・・・へへ・・・へへへ・・・小心者なのよね、俺ってさ・・・

でも本当はよ~「うるせえっ!立ち小便くらいでガタガタ言うなっ!これが男ってもんだ覚えとけっ!!」なんつって啖呵きってみてえけどよ~。

あぁアラン、嘘うそ!仕事中それはねえわな?
おぅ・・冗談だよ、な?な?そんな度胸あったら三部会の大舞台で演説のひとつもして来いって話だわな?



はぁー・・・そりゃそうと、おめえ・・・・・よく帰って来たな・・・。
可哀相だったな・・ぁ・・・ディアンヌちゃん・・・・・・・
可哀相、だったよなぁ・・・・・・・



      
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愛する妹の死を受け入れるのに費やした時間、そういえば半年以上が経過している。でもそれが短いのか長いのか、俺には分からない。季節が秋から冬へ変わり、いつの間にか春も過ぎていた。

あぁ・・・そうか・・・軍隊で一番つらく長い季節を、気が付きゃ丸々、班長は休んだことになるんだなぁ・・・ぼんやりとそんな事を考えたところで「不謹慎なことを」と我に返る。
寒風吹きっさらしでも常にがちゃがちゃと騒がしい兵舎と妹の気配だけが漂う寂しい部屋。

ある日突然、ディアンヌが消えた生活はここよりもずっと凍える寒さであった事だろう。


班長がB中隊に戻って来た。
正直「三部会」なんて言葉は初めて聞いたもんで・・・それで今の生活がどうにか少しでもラクになってくれれば嬉しいけど、そんなに期待するものでもないような気がする。
ただ、班長がそれで戻って来た。
それが俺には嬉しかった。



      
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「久しぶりだからちったぁ懐かしいが、あいつらのくだらねえ話には辟易するよぉ」


はははと笑ってアランが豪快な伸びをした。
ラサールは不在でいた時間の穴をどうにか埋めようと、よりによって小便がどうのこうので長話をしてしまう仲間の間抜けさ、要領の悪さが好きだと思った。
きっと班長も好きだろう。
少しは元気になってくれるだろうかと考え「へへ・・・へへへへ」としまりのない笑いを返す。
どいつもこいつもしょうがねえ野郎だなぁ全く・・・アランがそう呟き振り向くのを見て、ふいに懐かしい気持ちが込み上げた。大袈裟なと思いながらも、ラサールの胸は懐かしさでいっぱいになっていた。少し老けたアランの苦笑いの表情も声もそこにあるのが当然で、一方でどうしようもなく新鮮で、仕方なかった。


・・・たまらねえな・・・あんな事になるなんてよ・・・班長、この世の中いったいどうなっちまったんだろう・・・たまらねえよ・・・。

      



「ラサール、俺のいない間、何か変わったことはなかったか?」

どっぷりと感傷に浸る仲間の中にいるのは億劫だと感じたのかアランは外の空気を吸いに中庭へ続く通路へと出た。今そばにいるのはB中隊最年少のラサールだけだったが、それでも若干居心地が悪そうに見える。同情なんかもぅたくさんだ、いつもの空気に早く戻ってくれねえもんかな・・・そんな思いが滲み出る背中は以前よりも少しだけ、ほんの少しだけ縮んだように見える。それがむしょうに寂しくて、ラサールはまたも堪らなく涙が出そうになるのをこらえた。

いけねえ、いけねえ!慌てて向きを変え目をこする。


「ま、何もなきゃそれでいいんだけどよ」

返答がないのでどうでもよくなったのかアランは口笛なんかを吹き始めた。
かすれた音が湿った石畳に吸い込まれて静けさが際立つような感じがする。
もともと尋ねてはいるもののアランの口調は特に何かを期待している様子ではなく、照れているのか久々のむさい友情にうんざりしているか・・・
逆に今は背中を向けて朝の準備体操を始めてしまい「ほっ」とか「よぉっ」とか言っている。


何かあったか、変わったこと・・・何か・・・・・訊かれたラサールは少し考え「・・・あぁ!」と何か思いついたような声を上げ、一言「馬が元気になりました」と答えた。


「なんでい、そりゃあ?」

予想外の返答に拍子抜けしたのか体操途中のへんてこな姿勢でアランが振り向く。すかさずラサールは「馬っすよ。馬の様子、みて来て下さい。みんな、なんか前より元気なんすよ」と子供みたいなくしゃくしゃな顔を一層崩し、その途端大きなくしゃみをした。それを見てアランは「もっと早く戻って来ればよかったかねぇ」とボソリと呟き、おかしな夏の始まりをくくくっと笑った。



「馬が元気ってなんでい?木偶のぼうみてえな仕事で最近はずっと出番がないから、そのぶん馬はゆっくりお休みできてますって事か?」

「それもあるかもしれないけど・・・そうじゃないっす。馬に救世主現るっていうか・・・たぶんアンドレが・・・アンドレが細かい世話をしてやるようになってから、あいつら生き生きしてきたみたいで。今まで馬のことまで気を使ったことなんかなかったけど、大事なんすよね!そーゆーのって」


思いがけない答えが返って来たことが良かったのかアランの顔色が急に明るくなったようだった。ははは~と笑いながら「どれぇ」と体勢を整え厩の方へ向かう足取りが、なんだかとっても軽そうだ。つられてラサールも、気が付けば小走りで、不恰好ながらなんとなくステップのようなものを踏んでいる。
はたから見たらそれはまるで、子馬のギャロップに見えた事だろう。




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「ぅお~~~い」


厩の扉を開けると大きく叫んで「戻って来たぞ」とアランは呟いた。
久しぶりに嗅ぐ飼い葉の臭いは連日の悪天候のわりにはそこまで気になるものではなく、むしろ柔らかく懐かしく、不思議と優しい気分にさせた。
殺伐とした部屋の中で独り過ごした時間と比べて、確かに此処は生命力に溢れた雰囲気がある。

人間の複雑な事情なんか何も知らないであろう馬たちから一斉に無垢な瞳を向けられ、今度こそ、アランの気分は晴れやかというレベルに達し、やっと心からホッとできたようだった。


「へー・・・艶がよくなったか?おまえ、元気そうじゃねえか、おい」

相棒だった馬に近付き、機嫌よく話しかける姿を見て「よかった」とラサールは思う。
馬と妹は・・・そりゃ比べ物になんねえけどよ、でも、こいつらだって待ってたはずだ。なんかよ・・・不思議なんだけど、俺も前みたいに家がやたら恋しいとは思わなくなったんだ。ここにも大事なもんがあるって思うようになったからかな?俺さ、今まで自分の事でいっぱいいっぱいなくせに、それでも残して来たおふくろの事が気がかりで、気が付きゃ辛い辛いとばかり思ってたところがあってよ。何も楽しい事なんかないって、悲観ばっかりしてたけどよ・・・元気の素って気付かないだけで案外すぐ近くにあったりすんのかもって、おかしいけどよ・・・なんか気付かされたような気がしてよ・・・

さて、声に出して何から話そうか考えてるうちに扉の外に人影が見えた。アンドレだった。

いつも大人しく、ふとした隙に姿を消してしまうので一体何処へ行ってるのかと思っていたら、彼は常に厩であれこれ作業していたというので驚いた。見つけた時は「おい、それ時間外労働だろ?おかしな奴!」って叫んでしまった。なんで馬の世話なんかしてるんだ?誰も考えつかないだろ?どーゆーつもりなのかサッパリ分からなかった。人種が違うにも程がある。と心底思った。でも、その後・・・効率がよくなったというか、仕事の質にハッキリあらわれるようになった。つまりはやさぐれた馬の感情が緩和した事で、今度は俺たちがおおいに癒されるようになったんだ。




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「アラン、来てたのか。おまえの馬、調子いいよ。聞いてなかったけど、こいつの名前。あるんだろ?教えてくれないか?」


班長以上に機嫌よく厩に入って来たアンドレは開口一番に馬の名前を尋ねている。
数ヶ月前の俺らなら理解不能な台詞だったろう。現にほら・・・班長の目が点になっているぞ。あぁ・・・沈黙を破って吹き出してしまいそうだ。

「あー・・・」と返答に詰まっているアランをニコニコ顔で見守るアンドレ、馬の救世主がやけに大きく見える・・・厩でこんな特殊なオーラを放つ男は初めてだ!!
たまらなく愉快になったので心の声で勝手に煽っていると厩の奥からひときわ凛々しく盛大にヒヒーンと嘶く声がした。

・・・やれやれシャンデリアがお呼びだ・・・。

・・・っと、シャンデリアは俺がこれまた勝手につけた名前。最初はブランシュと呼んでいたんだけど、こいつは雄らしいから語尾に余計なもの付けるなと怒られるかもしれないと思い・・・ある時改名したんだ。
主そっくりの気高く美しい姿でこっちを見つめている。
輝くような白いからだに真っ黒で大きな瞳が長い間薄暗かった厩を照らす・・・それはまるで王宮の豪華なシャンデリアのようだった。


「時間が出来たんでたまにはブラッシングしてやろうと思ってさ。じゃ、またなアラン」

凛々しい嘶きが子馬のような甘えた鳴き声に変わる。アンドレに懐くシャンデリアの姿が微笑ましい。なんて考えてる俺もすっかり変人の仲間入りだ。そして、小声で「・・・おいラサール・・・おめえの馬、なんて名前だっけ・・・?」とか言ってる班長も、多分だ。




「・・・あぁ・・・班長、今日は晴れるみたいですよ!」

ふと見上げた空にはいつの間にか陽が射し、去った雨雲のあとにはなんとなく馬みたいな形をした白い雲がぽっかりと浮かんでいた。


そして、ヒヒ~ンと甲高く嘶いたような気がした。








第33話 「たそがれに弔鐘は鳴る」 ~憧憬~



ムードン城のこじんまりとした庭園は、周辺の森林から届く涼やかな風と爽やかな緑の薫りに包まれていた。穏やかに優しく流れる時間の中、小鳥たちの無邪気なさえずり声が響く。




「あんなに嬉しそうに笑うジョゼフを見たのは久しぶりです。ありがとう、オスカル・・・あの子にとって今日あなたと過ごした時間がどれほど幸せなものであったか。本当に、ありがとう」

王妃マリー・アントワネットはそう言って静かに微笑むとオスカルから遠く霞む森の先に視線を移し、小さく溜息をついた。


「わたくしのせいなのです・・・今のあの子の苦しみは。きっと、今までわたくしがして来たことを神様が怒っていらっしゃるのね・・・ならば、わたくしにだけ罰を与えて下さればいいものを。神様とは残酷なことをなさるものですね・・・」

日に日に悪化する愛し子の病状を前に覚悟を決めたかに見えるマリー・アントワネットは、絶望というよりは既に達観の表情を浮かべていた。


「・・・アントワネット様・・・」

少しでも慰めをと思索するも言葉に詰まるオスカル。マリー・アントワネットはそんな彼女に視線を戻し再び優しく微笑んだ。

「あぁオスカル、いいのです。ごめんなさいね・・・あなたはいつだってジョゼフを笑顔にして下さるというのに・・・わたくしがこんな話をしてあなたに辛いお顔をさせているのを知ったら、きっとあの子にも怒られてしまうわ」


うつむいてなおも思案顔でいるオスカルにマリー・アントワネットは笑いかけると、少しだけ悪戯っぽくトーンを変えた声で問い掛けた。


「ねぇオスカル、一体あの子は今日、あなたに何の話をしたのかしら?」

顔を上げ狼狽の色をみせるオスカルを見つめると、マリー・アントワネットは左の人差し指を唇に当て、内緒話でもするかのようにゆっくりと囁いた。

「当ててみましょうか?」


懐かしい仕草と楽し気ですらある王妃の姿にオスカルは久しぶりに少女の頃の面影を見る。
途端に、温かく不思議な感慨に包まれた。
ふいに悲しみとは別の感情で涙が込み上げ、オスカルは瞬きを繰り返す。

その時、庭園を吹き渡る風が小さなつむじ風となって噴水を巻き上げ、王妃が大袈裟な悲鳴をあげた。
水飛沫に濡れた顔を互いに見合わせ、どちらからともなく吹き出した。

緊張が解けたように、同じタイミングでマリー・アントワネットとオスカルが深呼吸をすると、何処からやって来たものか可愛らしい子リスが2匹、二人の周りをクルクルと走り回っていた。


「もう少し大きくなられたら、今度はもっと・・・田園地帯まで遠乗りに出掛けましょうと、そう殿下とお約束致しました」

「ふふふ・・・オスカル、あの子は・・・ちゃんと次期国王の自覚があるのですよ」


細い指で額の水飛沫を拭いつつ、いつの間にか潤んだ瞳の王妃マリー・アントワネットは、静かな口調でオスカルに語り出した。



トリアノンで過ごす間 あの子が話す事と言ったら、もぅオスカル・・・あなたのことばかり。誰に似たのかしらね?信じられないくらいにませたところがあって・・・

まだ元気だった頃、ジョゼフの誕生日にあなたやジェローデルが来て下さった事があったでしょ?近衛の閲兵式の様子を見せて下さった時のこと、覚えているかしら?あの子の喜びようといったら・・・っ!
わたくし、てっきり将来は近衛兵になるんだ!って・・・そう言い出すのかと思いましたのよ。でも、そうじゃなかった。あの子ったらメルシー伯のところへ行って『大きくなって結婚するひとは僕が自分で決められるのですか?』って・・・わたくしの答えは当てにならないと思ったのかしらね?おかしいでしょう、メルシー伯に訊くなんて!
メルシー伯も突然ジョゼフにそんなことを訊かれてビックリしたでしょうね。それで、彼ったら何故そのようなことを申されるのですか?って真面目な顔で訊き返して・・・

ふふふ・・・ジョゼフがなんて答えたのかは・・・もぅ、分かるでしょう・・・?




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「僕、オスカルを王妃様にしてあげたいんだ!」


目を輝かせながらそう叫ぶ王太子に仰天したメルシー伯爵は咄嗟に周囲の様子を伺うも身を屈め、質問を繰り返した。


「あの、ジョゼフ殿下・・・どなたを王妃様にと・・・?」


「オスカル!」


「殿下・・・それはちょっと・・・いや、かなり難しいかと存じますぞ。オスカル殿は母君と同じご年齢でありますゆえ・・・殿下とは、釣り合わないのではないかと・・・」


「じゃあ、僕が急いで大人になればいいんだね?僕、頑張るよ!たくさん運動して、本も読んで、お勉強だってするよ!」


「いや・・・その・・・オスカル殿は既に近衛の隊長をされているわけで・・・・・お忙しいと思いますぞ!そのうえ王妃様となると・・・やはり、難しいのではないかと・・・・」


「大丈夫さ!そのぶん僕がうんと頑張ればいいのでしょう?オスカルに大変な思いはさせないよ」


幼児らしい頑なさでオスカルとの結婚を主張する王太子にうろたえ気味のメルシー伯は言葉を濁しながら続けた。


「あの、殿下・・・ご結婚となりますと、その・・・相手のお気持ちが大事になって参りますので・・・オスカル殿がなんとおっしゃるかー・・・」


「そうだね・・・今はまだこんなに僕は小さいもの・・・・・オスカルは困ってしまうかもしれないね。メルシー!このことはまだ誰にも言っちゃダメだよ。早く大きくなって・・・守ってあげられるくらいに大きくなって・・・オスカルが安心してくれたら、お願いするんだ。僕と結婚してくださいって、僕がオスカルに言うからね!」


「・・・おー・・・殿下、頼もしいですなぁ・・・このメルシー、感服致しましたぞ!さすがは将来のルイ17陛下でいらっしゃる!それに何と申しましょうか・・・目の付けどころが違いますなぁ。応援致しますぞ。ええ、メルシーは殿下を応援致しますとも!」




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「全員配置につきました」



ベルサイユ宮殿―――
翌日に控えた三部会の開会式に先立ち、サンルイ教会ですべての議員を集めミサがあげられた。
教会へ向かう議員の行列を守るのはスイス近衛連隊、そしてフランス衛兵隊―――



オスカルは宮殿の窓を見渡しながら呟いた。



「・・・アンドレ、私は王妃になりそこなった・・・」





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「は?どういうことでしょうか・・・?」


ダグー大佐は言葉の意図をはかりかねていた。


三部会の開会が決定してからというもの特別訓練や長時間に渡る議場警備の任務が追加され衛兵隊は連日休み無しの状態が続いている。
交互に訪れる炎天と雨天の中、日がな一日議場に立ち尽くさねばならない警備の仕事は時に死と隣り合わせの市内巡回をも上回る過酷さで、最近では過労で倒れる兵士も現れた。
そういう状況なので、それぞれの健康状態を気に掛けるというところまでは理解できる。
いや、もっとも、これまでの経験で言えば隊員の一人、二人欠けたところで気付きもしない上官というのが普通なので、ジャルジェ准将の対応には驚くべき点が多々あるのだが、それについては慣れて来た私がいる。
慣れて来て・・・・・という表現は適切ではないのかもしれない。
軍隊の統率とは本来こうあるべきだと、長年待ち望んだ理想の形が徐々に出来上がってゆく様を見ているうち、それを実現しているのが女性なのだという事実に感動を覚え、そしてすべての言動に納得せざるを得なくなっているのだ。

副官とは名ばかりで、これまでの自分は単なる傍観者でしかなかった。


ある日突然、王后陛下の命によりやって来たあの時の“少女”―――


彼女はこれまで出会ったことのないタイプの軍人であり隊長だったが、不思議と親近感を覚える部分があった。不謹慎を覚悟で言うならば、彼女は妻に似ていた。


私の愛する妻は昨年、37歳という短い生涯を終え 天国へ旅立った。

胸を患い、あっという間にやって来た別れの時を、私は傍にいてやることさえ出来ずに・・・この兵舎の窓から見送った。


ちょうどその頃、やって来たのが・・・いま目の前にいる隊長である。


   

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「ダグー大佐、アンドレ・グランディエが入隊した際、身体検査のような事をしたと思うのだが・・・その時の記録を見せてくれないか?」


「は?どういうことでしょうか・・・?」




隊長は議場警備の際 兵士一人ひとりの顔つきや姿勢等を入念に見て周る。それは勿論、三部会という歴史的議会の警備担当として服装に乱れはないか、無駄な動きはないかをチェックする為の行動であるが、もう一つ、彼女は部下の体調の変化に対し何よりも気を配っていた。
日照具合をみて兵士の配置場所を変え、日陰に給水所を設けることで脱水症状と体力消耗を抑え、それでも明らかに顔色の悪い者は速やかに控えの者と交替させた。

割に合わない重労働に逃げ出す隊員が後を絶たず、慢性的な人員不足に陥っていた以前のフランス衛兵隊を思えば、我がB中隊のここ1年の安定ぶりには目を見張るものがあった。

大切なのは有事の際、職権により部下を強引に命令に従わせることではない。
組織を管理するため自ら動き、それによって自然と人心を掌握してゆく様子は隊長の名に相応しく誠に彼女は有能な人物だった。


私が見て来た中で最も理想的な形でリーダーシップを発揮しているジャルジェ准将。
だが・・・そこには我々との決定的な違いが一つあった。




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「アンドレ・グランディエに何か問題でも?」


隊長と同時期、彼が身元を偽ってフランス衛兵隊に入隊したという事実は以前、近衛連隊のジェローデル大佐と接見した時に明らかになっていた。しかし、今になって身体検査の記録を見せろとは一体どういうわけか?
入隊直後からいろいろと目立つ兵士ではあったが、取り立てて言う程の不祥事があったわけでもなく、それどころか我が隊では際立って品行方正な・・・アンドレ・グランディエは貴重とも言える人材であった。



「彼の・・・特に視力についてだが、知っておきたい事がある」

「・・・見た通り左目は失明していると思われますが・・・右目に関しては・・・」

「・・・・・右目に関しては・・・・・なんだ?」


知りたいと要求しながら、返答を恐れるかのような微妙なニュアンスだった。
注意深く隊長の様子を窺う。


「右目に関しては、特に問題なしでしょう。でないと審査に通りませんので」


「・・・ならば記録を見ても無駄だな・・・」


微かに溜息らしきものをつくと隊長は訝し気な表情で私を見つめた。
次に言うであろうことはだいたい察しがついたので先にお答えする。


「近衛連隊のようなエリート揃いの部隊ではありませんので、身体検査などあってないようなものです。ただ、誰にでも入隊を許可するわけではありません。実はアンドレ・グランディエを強力に推した隊員がおりまして、その者の我が隊における功績から・・・多少の問題には目を瞑り、特別許可を出しました」


片目と告げただけでジェローデル大佐の口からすんなりアンドレ・グランディエという名前が出てきた時点で彼が近衛連隊と繋がりのある人物であることは明白であった。そのうえ同時期に入隊ともなれば彼はジェローデル大佐よりもジャルジェ准将とより深い繋がりのある人物だと思った方がいいだろう。そしてそれが憶測でないことは隊長の醸し出す雰囲気からも伝わった。



「彼の左目の怪我は私に責任があってのことだ・・・」


思いがけない一言だった。
普段あまり感情を表に出すことがない人であったが、この瞬間の隊長は明らかに動揺していた。
一兵卒として隊長に追従する姿からは他の隊員との差を目立って見出すことは出来なかったが、アンドレ・グランディエはジャルジェ准将と相当に近しい人物であるらしい。


「5歳の時から共に過ごして来た。アンドレは 私の従者だ・・・」


私が抱いた疑問に簡潔に答えた隊長は、すぐに私から視線を反らし、じっと窓の外を見つめた。
それきり会話は途絶えたが・・・実に呼び慣れた調子で響いた「アンドレ」の一言が、彼とジャルジェ准将の関係性を如実に物語っていた。




「何故 急に・・・そのような話を私になさろうと思われたのですか・・・?」


「mon chéri ・・・」 


「は?」


「mon chéri と呼ばれていた・・・陸軍士官学校で」


いよいよ私は仰天してしまった。
しかし、このタイミングで、一体どうしたことだろう・・・

20年近く前のことを・・・だが少女は覚えていた―――



そして私にも、思わず口をついて出て来た言葉があった。



「・・・・・ma princesse」



    
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「懐かしいな・・・」


暫し時間を忘れて見入ってしまう程に―――
無邪気に微笑んだ隊長には、あの頃の少女の姿がくっきりと重なった。



私は確かにmon chéri と呼ばれていた。
普段一切笑うことのなかった私のもとに面会にやって来た妻、そのやり取りをたまたま見掛けた友人が茶化して付けたあだ名だった。

私には勿体ないほどに美しく聡明だった妻は言葉に尽くせない幸せを私に与えてくれた。
だが、唯一いけないところがあった。恥ずかしいので、せめて人前ではそう呼ぶのをやめてくれと何度も頼んだのに・・・彼女は頑なに、私のことをmon chéri と呼び続けた。そして面白がって同じ呼び方をした友人の真似をして、気が付けば学校中の者が私を見ては面白おかしく「mon chéri ―愛しいひと―」 と呟くようになっていた・・・。





「mon chéri ・・・すまん・・・いつかまた、呼び掛けてみようと思っていた」


恥ずかしさの入り混じったような、なんとも複雑な笑顔で隊長は私を見つめる。
突然の出来事に唖然としながらも、不思議なくらいにma princesse に妻の面影が重なり、私はふと意識が遠のくのを感じた・・・


成績優秀とは別の意味合いでも圧倒的存在感を誇っていたオスカル・フランソワは、憧憬と羨望と嫌がらせの意味が込められた「ma princesse ―お姫さま―」というあだ名を嫌い、取っ組み合いの喧嘩を引き起こす事もしばしばだったが・・・


ma princesse――― そう呼び掛けたくなる可憐さが、どんな姿をしていても 目の前の女性には確かに在った。




 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


あの日以来、隊長の言動を注意深く観察している。

視力を失くした左目を気遣ってのことだろう。
アンドレ・グランディエに話しかける時は極力右側から、彼の視界を意識して指示を出しているのが分かる。


休みなく一カ月以上、荒れる三部会を暗示しているのか冷たい雨が続いている。

隊長は、今日も兵士一人ひとりに気を配りながら、濡れた石畳の上を行く。




だが・・・足を止めて、振り返り見つめる先には――― いつも彼がいる。


アンドレ・グランディエに注がれた隊長の視線には、不躾ながら見覚えがあった。
妻と、同じ目をしていた。

誰よりも私が愛し、・・・誰よりも私を愛してくれた妻と、隊長は同じ目をしていた。






フランス中を探してみてもこれ程 有能な指導者を探し出すのは難しいだろう。
だが、我々との決定的な違いが そこにはあった。


オスカル・フランソワは女性である。


男よりも遥かに脆く儚いその身体は・・・今、病魔に侵されつつあった―――









第34話「今“テニス・コートの誓い”」 ~命~



1788年、フランス政府はかつてないほど深刻な財政困難に陥り、打開策として新しい税を増やそうとする国王側と高等法院の対立に、ついに三部会が召集されることとなった。
第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)、すべての国民の代表である議員からなる三部会は波乱の予感を漂わせながらも翌1789年5月、その開会式が挙行される。
荒れる三部会。新しい時代へと思いを馳せる平民議員、一方頑なに旧体制を守ろうとする僧侶、貴族議員たち。議論は平行線をたどり、日に日に過激さを増すパリ市民たちのシュプレヒコールは6月の雨空などものともしない程に高く激しく、パリ全域でうねりを上げていた。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

衛兵隊パリ特別巡回。
三部会が開催される事となり一旦は収まったパリ市民の貴族たちへの怒りは、このところの議論の停滞により再び激しく湧き上がり、昼夜を問わずベルサイユには暴動の報告書が届くようになっていた。
新しい時代への希望と、閉鎖された空間で遅々として進まぬ話し合いへのジレンマで、今やパリ市民の抱えるストレスは爆発寸前であり、警備にあたる者たちもその任務の過酷さに次第に命の危険を感じざるを得ない状況となっていた。
そして、主にこれらの役目を任されているのがフランス衛兵隊であり、A中隊とB中隊とが三部会の議場警備とパリ巡回を交互につとめる事になっていた。

     


「昨日の、サンアントワーヌ地区で発生した暴動の犠牲者の数は・・・?」

ベルサイユの一室で膨大な量の報告書に目を通しつつ尋ねると、訊かれた男は微かに溜め息をついたようだった。

「把握できるだけで女子供を含む市民18名とA中隊の兵士2名が命を落としました。怪我人まで合わせると・・・40から50人規模だと思われます」

ダグー大佐は目の前の私を通り越し、何処かもっと遠くを見つめているかのような表情をする。
もっとも、彼に訊けば同じ事を答えるに違いない。
“ジェローデル大佐、何処を見ている?君に何が出来る?何をしようとしている?”と。

無言の圧力の中で私は何度もその問い掛けを聞いてきた。だが、回答のしようがない・・・。
私の不甲斐なさを解っているから、彼も言葉に出して訊かないのだろう。時折僅かな時間でもこのように面談に応じてくれるだけで有り難い。それというのも連隊長がひたすら現場主義を貫いて、ベルサイユに伺候せねばならぬ案件は殆ど全て副官である彼に任っせきりだから・・・という背景があるのだが。
まぁ、なんにせよ、今はこれが私に出来うる全てなのだ・・・。
本人が・・・連隊長がたとえベルサイユ宮に居たとして、このように面と向かって話をする機会は金輪際、私には訪れようはずもない。

今日は連日報告される殺人、テロ、暴動について、その詳しい状況をベルサイユに被害が及ぶ前に警備鎮圧の責任者から直接話を聞きたいと・・・そういう名目でダグー大佐には手間を取らせてしまっている。
思いがけず陸軍士官学校の話題を共有してからというもの、いや、士官学校などはどうでも良かった。連隊長の過去と現在を知る者同士お互い妙な縁を感じているのが分かる。
もちろん、彼女と私の仕事以外の経緯など大佐は聞いたはずもないだろう。
だが、彼は知っている。
何よりもここでこうしている私の立ち居振る舞いの不自然さが、全てを物語っているに違いない。
偏屈者が、何をそんなに執着してみせる?と。
彼は不思議に思うだろうか?私の表情のひとつひとつはどのくらい見苦しく貴官の目に映っているのだろうか?愛する女性を日々命の危険に晒し、それについて何の手立てもない私を無能だと軽蔑しているのだろうか?
いや・・・ダグー大佐の視線に蔑みの色は感じられなかった。

これは私の願望というか希望も入っているのかもしれないが、大佐も恐らくオスカル・フランソワを指揮官以上の特別な目で見ている。そしてそれは私のように生々しい感情を伴ったものではなく・・・言うなればもっと慈愛に満ちたものであるように思われてならない。

だからこそ、私も心で叫びたくなるのだ
気がかりでならない、盾になってやりたくて堪らないのだ!!と・・・




「近頃では同時多発テロも頻発し部隊もバラバラで行動せざるを得ません。多勢に無勢です。しかも相手は決起した農民などではなく武装したテロリスト集団である場合が殆ど。少人数では鎮圧に至る前にやられる。それに緊張感は24時間保ち続けられるものじゃない・・・昨日殺された兵士の一人は12、3歳の少年に刺されて息絶えたのですよ。少年が群集に揉まれ押し潰されそうになっていたところを彼は救出しに行き、安全地帯で応急処置をしていた。その直後、少年は隠し持っていた短剣で・・・・・今や女や子供までもがそのような状態で、我々としてもぎりぎりの状況です」
話し終わるとダグー大佐は今度こそ深々とため息をついた。


酷い世の中になったものだ。

このように惨たらしい報告を聞いても、耳を疑うこともなく、その場の光景をまざまざと思い浮かべる事が出来る。一体いつからだ?いつから人々の心はこんなにも荒んだものになってしまったのか。夢を語り恋を歌ったセーヌ川に、やがて死体が浮かぶ時代がやって来る等と・・・あの頃の一体誰が想像できただろう。

パリ全域が特別警戒区域となった今、明日をも知れぬ思いでいるのは何も平民達ばかりではない。去り際に振り返ったダグー大佐の唇が何か言いたげだったのが気にかかるが・・・恐らくは連隊長に関することなのだろう。だが、それを言葉にして私に伝えることが憚られたに違いない。結局無言のまま行ってしまった。私のあまりの不甲斐なさに言葉を飲み込むしかなかった大佐に申し訳なさが込み上げた。



結婚などと大それた夢をみたのは、もう過去のこと・・・
未練がましいと非難されようとも構わない。

貴女を愛しいと思う。
この世で一番、かけがいのない存在だ。
この先永遠に願い続けるだろう。私の命と引き換えでもいい。

オスカル・フランソワ・・・貴女の命と安らぎだけが、私のすべてだ。




 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥
     

「けどよー・・・先週のA中隊のよー・・・パリ巡回の話、ありゃ、やば過ぎだよなぁ・・・」

止めとけばいいものを話題に出し、怖気づく気持ちを吹き飛ばそうと急に一人の兵士がケラケラと笑った。

「びびちまってよ!2ブロック行くのにも勇気振り絞んなきゃなんないわけよ!見ろよ。あの角曲がったら何が起きるか分かんねえぜ。常に肝試しだ。・・・ははは・・・この安月給でよ、身がもたねえぜ全くっ!!」

毒づく台詞が煤けて乾いた路地に反響し、虚しく石畳に吸い込まれた。

「・・・あ~ぁ、鼻歌うたいながら適当に流してた頃が懐かしいわ」

「おいルイ、静かにしろよ」

アランにたしなめられて「はいよ」と大人しくなった兵士はB中隊でも古参の部類だったが最近の命がけ任務に納得できず、真剣に転職を考え始めているようだった。
「ここにいるよりよ、田舎に引っ込んで自給自足した方がまだ生き残れる可能性高いぜ」
昨夜も宿舎で独りごちていた。けれどアランは誰よりも彼がパリ好きであることを知っている。
「この大転換期に離れられんのか?逃げて田舎で生き延びて、それでもパリジャンかよ」とからかってやったら男は「もう俺の気に入ってたパリじゃねえけどな」と、精一杯おどけて苦い作り笑いを見せていた。

A中隊で殉職者が出て以来、パリ巡回は警戒レベルを引き上げ、フル装備で常に5、6名からなる班単位で行動するよう義務付けられていた。夜の間降った雨が蒸気となりゆらゆらと立ち上っては一同の気持ちを一層滅入るものにしていたが、大多数である善良な市民たちを危険から守れるものならば守りたい。ベルサイユの砦としてではなく軍人として当然持ち合わせている意地やプライドのようなものがどうにか原動力となって兵士たちを日々命がけの任務に向かわせていた。



オスカルは馬の足を止め耳を澄ます。
入り組んだ路地の中には人々の生活があり、そこにはまだ温かな会話もあるのだろう。
貧民窟というわけではなく比較的まともな暮らしを営む界隈には子供たちの笑い声さえ微かに響いていた。石畳を駆け回るタッタッタッタという木靴の音が楽しげに響き、複数の母親らしき女の声がする。

水の流れる音、木々の揺れる音、食器を並べる音、衣擦れの音、人々の笑い声・・・・・

どれもがかけがえのない命の音なのだと思う。
銃声や爆竹の破裂音などが轟くのを許してはならない。


ふと振り返り共にいる者の顔を見渡す。
アンドレ、アラン、ラサール、ルイ、ジャン・・・・・・
緊張感が伝わる・・・耳を澄ませば早鐘のような彼らの心臓の音までが聞こえるようだ。



オスカル・・・出来る限り耳を澄ませ。

命をかけて守らねばならないものが、ここにはある。







第35話 「オスカル、今、巣離れの時」 ~双璧~



王妃マリーアントワネットは苦々しい思いでその光景を見ていた。

平行線を辿るばかりの三部会。その中でロベスピエールを中心にした平民議員は一部の貴族、僧侶の合意を得、独自に「国民議会」を名乗ることを決議。これに反対する王党派は一時議場を閉鎖するも解決には繋がらず再び議会を招集。しかし王党派による数々の弾圧により一層結束を強めた平民議員は公然と国王の命令を拒否するところとなり、議場を占拠。更には謀反人とみなされた平民議員を議場からの排除するよう命じられた軍の指揮官が次々とその命令を拒否・・・

その指揮官がオスカルとジェローデルであった。

かつての近衛連隊長オスカルと現職の近衛連隊長ジェローデル。
共に王室警護の最高峰であり、ルイ16世が最も信頼を寄せる者たちだった。
彼らの反逆とも取れるこの行動はフランス王室にとって大打撃であり、かつてない衝撃を国王夫妻は受ける事となる。しかし、王妃が極めて不快と感じる理由は命令を拒否された事とは別のところにあった。

そもそも一連の事態について慌しく報告はされたものの彼らが何故命令を拒否するに至ったのか、事の真意は分からぬままである。そればかりか最高権力者であるはずの国王さえももはや部外者であると言わんばかりの軍上層部の態度は目に余るものがあり、その混乱ぶりは三部会によって分裂したベルサイユの様子を改めて浮き彫りにする結果となった。そして深刻を極める政情の中で想定外の事態に直面し困惑している事を差し引いたとしても、懲罰執行にばかり躍起になる軍の様子は本来あるべき一線を超えているように王妃の目には映ったのである。

      


オスカルを前に引き下がった近衛連隊に激怒した陸軍元帥始め将官たちは見せしめだと言わんばかりの形相で大広間に“謀反人”らを集めた。
そしてひっ捕らえたジェローデル大佐に向かって無期限の懲役を宣告すると、国王や王妃などは目に入らないかのような醜悪な態度でそれに続く近衛仕官たちを激しく威圧、叱責していた。
国全体の情勢不安が軍の運営にも影響しているのは明らかだった。
混沌とした時代にあって頼るべき軍隊こそが不安に駆られ正常に機能しなくなっている。
国王夫妻にとって間近で軍隊の醜い内情を垣間見たこれが最初で最後の出来事であった。


何を言われようと頭を垂れどんな懲罰も受け入れる覚悟のジェローデル。
彼の一体何がそんなに気に入らないのか、将官たちは去ろうとしない。
王妃は見ているのが辛くなり、さすがに声をかけようかと思った次の瞬間、決定的に不愉快な出来事が起こった。



「貴様、あの女に一体何をされた?」

「・・・・・・!?」

声を殺し一応は周囲に気を使ったように思えたが元帥の下衆な問い掛けはハッキリと王妃の耳に届いてしまった。
そして、言葉の意味を察したのかジェローデルは初めて顔色を変え、射るような視線を元帥に向ける。その態度で更に火が付いたのか元帥は憎悪をあらわにし彼の胸ぐらを掴むと、今度は衆目も気にせんとばかり激昂した。


「言ってみろ!衛兵隊の雑魚どもといい、オスカル・フランソワは貴様らをどうやって手懐けている?あの女はどんないかがわしい手を使って大の軍人を骨抜きにしているんだ!?情けない男たちめ・・・女ごときに何をどう調教されこうまで堕落したのか、貴様ここで白状しないか!」


見るに堪えない状況だった。

完璧な支配下にあると信じて疑わなかった者たちに背かれ、よほどプライドに傷が付いたのか陸軍総司令部は我を忘れ想定を遥かに超える醜態を晒してしまっている。
今回の騒動で最も心が折れた瞬間はと問われれば、王妃にとって間違いなく、それは今この瞬間の常軌を逸した陸軍上層部の姿だと言わざるを得ない。

息を殺して状況を見守っていた国王夫妻は暗澹たる思いで目を閉じた。

その時、それまで黙って元帥の暴言を聞いていたジェローデルが初めて言葉を発した。


「堕落したのはどちらだ・・・」

何を!?と逆上した陸軍最高位である元帥の手を厳しく払い除け、ジェローデルは蔑むよりは哀れみの表情を浮かべ、冷たく言い放つ。

「陛下の御前で何を言われましょうか?この期に及んでそのような汚らわしい想像しか出来ぬとは恥知らずにも程がありましょう。軍人として、心より閣下に御同情申し上げる」

思わぬ反撃にあい血相を変えた元帥は今にも斬りかかろうかという勢いで身構えた。そしてそれを凝視し一歩も引かぬジェローデル、口を挟んだのはブイエ将軍だった。


「命をかけての行動ですぞ」

大広間中の注目が集まるなか、ブイエ将軍が元帥に歩み寄る。

「この度のことは軍法会議にかけるまでもなく軍人として、許されざる大罪です。現に私はジャルジェ准将に、彼女の部下12名を上官への命令違反の罪で銃殺に処すと申し渡している。その上での行動ですぞ。ジャルジェ准将は自分の命も捨てる覚悟で近衛隊の議場突入を阻んだのです。・・・ここでこのような事を申し上げるのは筋ではないが、ジャルジェ准将が己の命の危険を顧みず行動し、結果王室を救って来た事例は過去にいくつもある。そして、此処に居るのはそれを目の当たりにしてきた部下たちですぞ。もっとも、どのような理由があったにせよ、今回の事で彼らに弁解の余地はありますまい。私はジャルジェ准将に対し、その覚悟通りの厳罰を言い渡すつもりでおります。しかし、だからといってこれまでの王室に対する彼らの忠誠心まで疑うような事はあってはならない。ましてや閣下が憶測のみで彼らを侮辱する等という行為は断じて許されるものではない。そのような発言は陸軍全体のみならずフランス王室そのものへの侮辱であるとお気付きにならないとは、我々最高司令部も落ちぶれたものだ!」


「おのれ・・・誰に向かって口をきいている!?」


怒りと羞恥心で蒼白になった元帥はブイエ将軍の言葉を受けガクガクと震え出した。


     


そうだった・・・確かに此処、この場所だった。


マリー・アントワネットは一瞬、意識が遠くへ飛ぶ感覚を味わい、その後思いがけない過去の光景と遭遇した。


あれはまだ・・・そう、嫁いで数年の王太子妃だった頃。
自分のふとした遊び心がとんでもない大惨事を引き起こし、大切な人々が窮地に立たされた出来事があったわ・・・

暴走する馬から命がけでわたくしを救ってくれたオスカル。
わたくしの我儘をきいてくれただけなのに、15世陛下に死刑を宣告されてしまったアンドレ。
アンドレを助けようと強大な権力を前に、なおも勇敢に立ち向かったオスカル・・・フェルゼン・・・・・

嗚呼、そうだわ・・・。きっとあの頃と何も変わりはしない。
わたくしを取り巻く愛しい人々・・・・・
オスカル、アンドレ、ジェローデル、・・・フェルゼン・・・・・!!

何も、何も変わりはしないのだわ・・・!!!




「もうよい。そのくらいで。このような時にお前たちまで、それ以上無様な姿は見せてくれるな。余は平民議員を武力をもって排除せよとの命令を下した覚えはない。おとなしく彼らが会議場を後にしない時はどうするつもりだったのだ?・・・先ずは三部会半ばにして大量虐殺などという最悪の事態にならずに済んで良かったのではないか?陸軍元帥よ、考えてもみよ。命拾いしたのは・・・我々の方かもしれないぞ」


国王ルイ16世は威厳とは無縁の人物であった。
だが、愚かな裁断を回避したこの時、国王の存在感を多少は発揮できたそれは歴史上数少ない一瞬であったのかもしれない。

王妃マリー・アントワネットは不甲斐なさを噛み締め自嘲気味でいる夫の手にそっと自らの手を重ね、静かに囁いた。


「陛下、どうか、どうか誰にもお咎めのないように・・・お願いでございます」



      
 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


マリー・アントワネット様の御温情により一切お咎め無し。

ベルサイユからの急使の到着があと数分遅かったら、私は正気でいられただろうか?
間髪入れず斬られる運命だったとしても、たった数秒間だったとしても、その地獄絵図を直視できただろうか?

灯りを失った部屋で不思議なことに彼の気配だけが私にとっては自分を確認する唯一の術だった。
だが、窓を叩く雨の音が暗闇の中では一層激しく響いているようで、私は私の胸の鼓動に対し・・・またも聞こえぬふりをした。


死を覚悟した瞬間、脳裏に浮かんだものは何であったか・・・
これまでの長い年月、自分でそれに気付かぬよう頭の隅に追いやって来た感情は何であったか・・・・・

力を尽くして、ただひたすら生きてきた。
その間・・・私を支えてきた存在は何であったか・・・?


アンドレ、この期に及んでまだ私という人間は自分の感情に素直になれずにいるらしい。
他のことならば、他のことならばどんなにかなりふり構わず動けるものを・・・!



アンドレ・・・、たとえ一瞬とはいえ私が後では愛するひとの死を見ることになる。それはあまりに哀しい。

私とて同じだ・・・。
とうの昔におまえは気付いているのだろうな。
いつの間にか、同じ感情を抱えて生きている。

今はもうこの世の何よりも確かなものだ。私の生きてる証・・・・・



でもアンドレ、すまない・・・私にもう少しだけ、時間をくれるか・・・・・?
・・・時間をくれるか・・・?







第36話 「合言葉は“サヨナラ”」 ~満天~



『このところ雨の日が続いているせいか日中のパリは湿気てまとわりつくような重苦しい空気に包まれている。混沌とする情勢の中、王制への不満で爆発寸前の市民たちは続々と到着する王家の軍隊と街のそこかしこで奇声を上げ小競り合いを演じている。が、それで発散できる者はまだましなのかもしれない。

大多数の市民は飢餓や病に苦しめられつつもただ黙々と日々を過ごしている。
そして軍服を着ている者はその者たちから冷たい視線を向けられ、たちまち憎悪の対象となる。
我々衛兵隊とて例外ではない。それどころかパリ巡回中狭い路地でふいに出くわした見知らぬ兵隊とパリ市民との板ばさみになり、結果双方から罵声を浴びせられるような事態も珍しくない。

7月に入り国民代表による三部会での話し合いが決裂し王室と国民の関係が一気に険悪化する中、このような面目の立たない状況に置かれ真っ赤になって悔しがる隊員が続出。

彼らの鬱積した思いはいよいよ行き場を無くし、深い溜め息となっては虚空をただただ彷徨う。
些細な出来事に神経を尖らせる一方で、日常繰り返される悲惨な光景には慣れつつある自分がたまらない。

一日一日がひどく長く思える・・・・・・・・・』


    


妙に頭が冴え、寝付けずにいたアンドレは溜め息をつくと書きかけの日記を閉じランプの火を消した。そして遠くからコツコツと響いて来る足音を聞いて小さく「やれやれ」と呟く。
アンドレは上着を取り、静かに部屋を後にした


日が暮れると同時に吹き始めた涼やかな風がパリの街に重たく覆いかぶさった空気を動かした。
ずっしりと肩に圧し掛かるかのように思えた湿った熱い大気は涼風に流され、ふと身体が軽くなったような感覚を覚える。
肌を撫でてゆく夜風の感触は火照った気持ちや身体を優しく鎮め、疲れた心をゆっくりと癒していくかのようだった。


夏とはいえ深夜ともなればだいぶ涼しい。
気が付けば、夜中の警戒監視の任務は衛兵隊員達にとって苦行ではなく、むしろ“安らげる時間帯”といっていいものになっていた。



心地よい夜風に吹かれ石畳を蹴って歩く軽快な足音が、静まり返った衛兵隊の敷地内に二重になって響く。
そして意外な程に冴え渡った7月の夜空を見上げ、アランは拍子抜けするようなかすれた調子でヒュ~・・イと口笛を吹いた。アンドレは始まったな・・・と、一瞬ニヤリとし、耳を澄ます。

「ちぇっー・・・、あいつらだけはな、下界で何が起きていようがまるでお構いなしだ」

アランのわざとらしいくらい感傷的な言い方がかえって笑えもしたが、普段の雑談とは少し違ったセンチメンタルな口ぶりにアンドレはいつになく興味を引かれた。


「あいつらって?」

「お星様のことよ」

「お星様?」

「高けえところから何千年も何万年も、俺たちの暮らしぶりを見てやがるんだろ?いい加減飽き飽きだろうさ」

「お星様って・・・アランおまえ、面白いなぁ・・・!」



 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


今夜のように起きて待っていた場合でなくとも冬場と違い夏のこの時期、歩哨の交代時間を知らせる合図はかえって気持ちがいいくらいだよ。そう言ってアンドレは笑った。
日中のパリ巡回と比べて夜勤時間帯の敷地内は穏やかそのものだ。だから、むさ苦しい兵舎で仲間のいびきや歯軋りといった不快な音を聴きながらじっとり寝汗をかいているよりも外に出た方が爽やかだと言える。

昼間の暑さで疲れた身体に多少寝起きのだるさは残るものの、夕涼み感覚でブラブラと歩きながら二人は夜空を見上げ、アランは特に上機嫌な様子で鼻歌など唄っている。そして、中途半端なところでくわ~と大きな欠伸をした。
少し後ろを歩いていたアンドレは、つられて飛び出しそうになった欠伸を我慢し若干潤む目で素早く首を振るとアランに駆け寄り「なぁ、アラン。おまえ天文学に興味があるのか?」と、こちらは豪快な欠伸によって完全に涙目になったごつい男の顔を覗き込んだ。


「天文学だぁ?俺にそんな高尚な趣味はねえよ。ただ、空を見上げるくらいしかないだろう?大昔の羊飼いとたいして変わらねえな。昔から居眠りする仲間の横でよ、夜勤の時たいがい俺は星空を眺めて来たわけだ。不思議と歩哨の間寝ちまった事はねえなぁ・・・アンドレ、むろん知ってると思うが季節によって見えるお星様がよ、違うんだぜ?」

ちょっと得意気でいるアランの様子がおかしくて、今度こそアンドレは警戒中だというのに声を上げて笑ってしまった。それを見て「なんでえ」と不満そうな顔をするアラン。よっこらしょ・・・といつもの場所に腰をおろして「見てみろ。この雄大な星空を!」と芝居がかった言い方をし、ぐいっと大きく仰け反ってみせた。


夜勤時の相棒となり、アンドレはアランから入隊以来いろいろな話を聞かされてきた。それでも星空について何か語っているアランというのは初めてで、またもこの男の意外な一面に触れてアンドレははっとする。

すっかり眠気も消えて座り込まないまでも夜空を見上げ、アンドレは大きく2回、深呼吸をした。


「俺も星が好きだよ。パリに天文台があるんだ。17世紀にルイ14世陛下が建てられた。美しい建物で、宇宙や天体に興味のある者に広く開放されたんだ。子供の頃にオスカルと何度も通ったよ・・・」

「へーーーー・・・・」と唸り声を上げつつニヤニヤした顔付きのアランが仰け反ったままアンドレの話に耳を傾ける。天とアンドレを交互に眺めて「天文台ねぇ・・・」と小さく呟く声を聞いたアンドレは、それに笑いかけながら「大三角が見えるだろ?」と夏の夜空に大きなトライアングルを描いてみせた。

「あれが白鳥座のデネブ。そしてわし座のアルタイル。あそこに見えるのがこと座のベガだ。オスカルと競争したっけなぁ・・・どっちがどれだけ多く星座を覚えられるかってさ」

「どっちが勝ったんだ?」
面白がってアランが尋ねる。

「俺だよ。星が出る時間にも俺は屋外で働くことがあったし、その時傍にいた大人から覚えるコツもいろいろと教わったんだ。結局、俺が覚えた星座をオスカルに教えてやったくらいだよ」

ほぅー・・・・・とアランは低く唸ってもう一度、星空を大きく仰ぎ見た。

「・・・なぁ・・・おめえと隊長さん、一体いくつの頃からの付き合いなんだ?」


アランの質問に何故かアンドレは不思議そうな顔をしていた。

「ああ・・・確か、初めて会ったのは俺が6歳でオスカルが5歳の時だったな。でも、いつからあいつを知っているのかって訊かれれば、もっともっと昔からのような気がするよ」

次の瞬間、屈託ない笑顔でそう話すアンドレの様子が妙に逞しく思えた。
アランは身を起こし深い溜め息をつくと今度はぼりぼりと頭をかきながらアンドレを見つめた。

「子供の頃からってよ・・・そんな小せえ時から四六時中一緒にいて、まぁ失礼な質問かもしれねえけど、よく飽きねえなぁ?」

アランの問いに一瞬目を丸くしたアンドレはプッと吹き出し「アラン、おまえだって飽きずに夜空を眺めてるじゃないか」と言って満天の星空を見上げた。


「・・・綺麗だなぁ・・・」


遠い目をして天を仰ぐ男の姿がやけに牧歌的で昼間の混乱した状況が一瞬別の世界の出来事のように思えた。


「見えるのか・・・?」


このタイミングで意地が悪いかと思いながらも空を眺めて微笑むアンドレの様子にアランは訊かずにはいられなかった。

「おめえの見てるのは記憶の中での星空であり隊長だ。今の姿じゃねえ。・・・違うか?」


アランの質問にアンドレが特に動揺した素振りを見せることはなかった。
だが直ぐに返事をすることもせずアンドレは暫く星空を眺め続けていた。そしてふっと笑うと「アラン」と呟き、アンドレは静かに振り向いた。

    

「オスカルって美人だろ?」


・・・何いってやがんだ、こいつ?
と、最初の頃の俺なら確実に引いたと思われるアンドレのこの台詞だが、今となっては目の前の相棒のペースがだいぶ掴めてきているんだ。だから逆にからかってやる余裕すらある。
しかしアンドレのやつ、オスカルって美人だろ?ときやがった。夜勤の時間帯に星空を眺めて・・・まぁ最初に話を振ったのは俺だが・・・オスカルって美人だろ?と。

つくづく変わった奴だと思う。
・・・おう、それが何だ?美人だと何だってんだ?


ペースを掴めたとは思ってもやはり予測した通りにはいかないアンドレの言動に苦笑しつつアランは身を乗り出した。


「おいアンドレ。寝言は寝てから言えよ。満天の星空の下で隊長への熱い想いを語られちまってもよ。聞かされる俺は一体どうすりゃいいんだ?」


苦笑いするアランを見てアンドレもはははっ!と笑う。

「アラン、オスカルはさ、子供の頃から本当に綺麗だったよ。初めて軍服を着た時も近衛連隊長に昇進した時も、いつも輝くようだった。俺が想像した以上なんだよ。だから今もオスカルはきっと・・・・・・・」

急に言葉に詰まるアンドレを、アランは息を殺してじっと見つめていた。

「おかしいと思われるかもしれないけどさ、アラン、・・・俺は今ほどオスカルを近くに感じたことはないよ。目で見えることが全てじゃないし、言葉に出したことが真実だとは限らない。もっとさ、自分の感覚を信じていいんだって・・・分かった」


普段は無口な男だが、今夜のアンドレはなかなか面白かった。
話せばマイペースで味のある野郎だ。

このアンドレの穏やかな物腰を眺めていて、出会って間もない頃の俺なら気取りやがってこの野郎と幾分胡散臭さを感じることはあっても感心するなんて事はまずなかったに違いない。だが、どうだろう。今となってはこれが育ちってもんか・・・と、素直に思う。
貴族の臭いもそう悪いもんじゃねえな。そう思っている自分に気が付いた時は流石にちょっと驚いた。が、まぁ、実際、悪いことばかりじゃねえ。目の前の男と、隊長も同じ臭いがする。特権階級であるのとは別に・・・“貴族”の臭いだ。
気に入らねえ言い方だが、俺たちにはねえこの鷹揚さと高潔さはやはり、貴族の持つ何某から漂ってくるものなのだろう。


アランはアンドレの様子を観察しながら過去と未来を繋ぐ思考の波の間をゆっくりと漂っていた。



「・・・お互いを映し出す鏡みたいなものだ。だから、今の自分の状態を思えば、オスカルのことが分かる」


真剣な口調で話すアンドレの表情がふいにもどかしげに歪んでくるのを見て、アランは我に返り身を起こす。


「・・・オスカル・・・」


そして苦しげに呟いたアンドレの横顔が何もかもを見通しているかのように感じ、アランは静かに溜め息をついた。

     


「・・・生きるも死ぬも一緒か?」


問いかけたアランが石のように硬直し、じっと動けずにいた。

暫くして振り向いたアンドレは普段通りの穏やかな表情で明るく笑い、固まった相棒の肩を威勢よくポンと叩く。そして、「オスカルほどの美人はな、そうはいないぜ、アラン」と悪戯っぽい口調で囁いた。

           

    
 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「お父さん?今日は随分早いお帰りね。急ぎのお仕事なのでしょう?陽が射しているうちは帰れないっておっしゃっていたのに」

表通りも路地裏も喧騒に包まれすっかり落ち着きをなくしてしまったパリにあって此処の一角だけは奇跡的といっていい程に穏やかで安らかな空気の漂う場所であった。
予定よりも早く帰宅した画家のアルマンは出迎えた娘の笑顔にホッと安堵の表情を浮かべ沈んだ気持ちが少し軽くなるのを感じ息を吐いた。

「そのつもりだったんだが・・・だいぶお疲れのご様子でな。今日はゆっくり休まれることをお勧めした」

椅子に腰掛けてもまだ画材を抱いたままでいる父の表情がいつになく深刻なのに気付いて娘のアンヌは心配になり腰を屈めて覗き込んだ。

「オスカル様は具合がお悪いの・・・?座っていられない程に?お父様がこの仕事をお受けになった時から私も考えているのよ。きっと、何か深いわけがあるのね・・・・」

ポッドを抱えたままじっと考え込む娘の様子を見てアルマンはようやく自分が画材をおろし忘れていることに気付いた。古びたケースを膝に置き大事そうに撫でると静かに溜め息を付いて目を閉じる。こうすると、今でも鮮明に思い出すことが出来る。20年前の黄金色の髪をした凛々しい近衛隊長。そして・・・それよりも更に昔、まだ子供でいらした頃のあどけないあの方のお姿を。

「お父さん・・・私、オスカル様にはとても感謝しているのよ。だって、お父さんが絵を描くのなんて何年ぶりかしら?あのアトリエだってずっと閉めたままで、いま大事そうに抱えていらっしゃる画材だって長いこと埃をかぶっていたのよ?私、お父さんの絵を描いている姿が大好きだったから、今回お話を戴いて引き受けられた時・・・本当に嬉しかったの」

優しい笑顔で屈託なく話す娘が愛しくてアルマンは目を細めた。

「ねえ、オスカル様はどうしてお父さんを選ばれたのかしらね?理由をうかがったの?」

子供のように好奇心に満ちた娘の瞳と“あの日”の記憶が重なり目頭が熱くなる。アルマンは慌てて瞬きをした。

「・・・若い頃にシャルル・ペローの童話に挿絵を描いたことがあってね。あの方はそれをお読みになったらしい。随分とお気に入りの本だったようで・・・私の絵が強く印象に残ったとおっしゃって下さった。そして探し出して下さった。今はこんな老いぼれで絵筆も、もう何年も握っておりませんとお答えしたが・・・それでもいいと」

「そうだったの。シャルル・ペローの童話って、私が子供の頃毎晩読んで貰っていたのときっと同じものね。なんだか不思議・・・・そんな高貴なお方と同じものに心を動かしていたなんて!」

アルマンは笑って娘の顔を見つめ返した。

「それだけじゃないよ。さすがにこれから先はあの方の記憶にはないだろうが・・・私は子供の頃のオスカル様に会っているんだ」

えっと目を丸くしてアンヌは身を乗り出した。

「ちょうど・・・その童話を喜んでお読みになっていた頃だろう。まだ10歳にもならない頃のことだが、間違いなくあの方だ。パリの天文台から依頼されて絵を描いたことがあってね。それがどんな風に飾られるのかが気になって何度か見に行ったことがあった。そこであの方と出逢った。決して目立つ場所ではなかったが私の絵が飾られて、それを長いことじっーと見つめる二人の少年がいた。あまり熱心に眺めてくれるので私は嬉しくなって話しかけたんだ。この絵、そんなにいいかい?って。そうしたら元気よく返事をしてくれたよ。『うん、何時間見ていても飽きない。すごくいい絵だ!大好きだよ』と・・・子供に絵を褒められるのは初めてだったが、本当に嬉しかった」


昔話をする父を見るのは初めてではなかったがこれほど懐かしく幸せそうな様子でいる事はそうはないと思いアンヌは微笑んだ。

「お父さん、何を描いたの・・・?」

「ヘラクレスさ」

「ギリシャ神話の?」

「そう。大人になってからの勇猛果敢な姿は有名かもしれんが・・・私が描いたのは子供の頃の姿だ。ヘラクレスともう一人、イピクレスという子供がいて、二人は双子なんだ。ヘラクレスは神の子。イピクレスは人の子。大変な宿命のもとに生まれてあえて苦難の道をゆく・・・ヘラクレスの道だ。それを準えて銀河を描いた」

「・・・ヘラクレスが双子だったなんて初めて知ったわ」

「有名なのは片方だけということが世の中には多いものだ」

「その絵を見て『大好き』っておっしゃったのね。さっき二人の少年がいたって言ってたけど・・・」

「もう一人の少年は、まだあの方のそばにいる・・・。それで、ハッキリと分かった。あの時の少年たちだと」

「そう...そう言えば、見える時期が違うのかもしれないけど、ふたご座の二人も神と人間でいろいろと大変だったんじゃなかったかしら?」

「普通よりも過酷な運命を背負わされる子だから、助け合えるように、最初から二人で・・・なのかもしれないよ」


アンヌは遠い目をして窓の外を眺める父にハッとした。そして軽く首を振ると背筋を伸ばし、ポッドを手に立ち上がった。

「オスカル様がお元気になられることを、私、祈っています。・・・お茶、入れるわね」


明るく言う娘にアルマンは再び笑顔でこたえると絵筆を取り出し、じっと眺めた。


「今日は・・・陽があるうちに画材の手入れをしようか」


黄金色の絵の具をほんの少し指に取り優しく伸ばす。
するとそれは柔らかい夕暮れ時の陽に照らされて、ブロンドの髪のようにキラキラと眩く輝いた。

   


     
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大蔵大臣ジャック・ネッケルが罷免されたとの情報が流れるや否やパリの街は轟音を上げて動き出した。
それまで塞き止められていた川の流れは怒りや混乱といった負の感情と新しい時代を渇望する熱い心によって濁流となって溢れ出し、広場や大通りにまで武器を手にした市民たちが飛び出し群がった。


1789年7月11日。
決起した民衆を取り締まることは事実上不可能となり軍隊は一旦後退を余儀なくされる。
弾圧に十分堪え得るだけの力を徐々に発揮しつつある民衆に対し、王家の軍隊は冷徹に戦闘態勢を整える。
パリの街は一触即発の危機に直面していた。



緊急出動に備え武装した状態での待機を命じられている王家の軍隊の中にあって、衛兵隊内の空気だけはどこか違っていた。
緊張感よりも、寂寥感と言った方がしっくりくるような乾いた風が兵舎の中を吹き抜ける。
目標の見えぬ、満たされぬ思いがいくつも集まった敷地内には諦めとは別の沈鬱としたムードが漂い辺りを包む。そうかと思えば熱い何かを求めてやまない高揚した意気が瞬間的に走っては燻り続ける兵士たちの心を静かに揺さぶるのだった。




「・・・え・・・これからアントワネット様に?」


司令官室で今後の任務に関して隊長の指示をきいていたアンドレは思わず聞き返した。


「うん。恐らく、最後の進言になるだろう」

「だが、今ベルサイユに行けば・・・」


不安に思うアンドレの心中を察したのかオスカルは彼の言葉を遮り、窓辺から振り向くと少しだけ小首をかしげ、困ったような仕草をしてみせた。

殆ど機能しなくなった右目に加え、窓から差し込む陽射しで逆光になり、アンドレはオスカルの表情を確認できなかった。だが危険を予測しての行動なのだろう。オスカルの雰囲気と口調からは静かな覚悟と緊張感が感じられ、困難な試みに対する彼女の複雑な思いが伝わった。


「危険人物としてマークされているからな。今、ベルサイユに行けば身柄を拘束され、二度と戻って来れないかもしれない・・・そう思うか?」


オスカルの言葉が耳に届いた瞬間、ふいに雲間から強い光りが差して彼女のシルエットが白く霞んだ。
アンドレは目を細めてなんとか彼女の姿をとらえようとするも、ぼやけた視界はたちまち光に包まれ瞼がオレンジ色に染まった。

オスカル・・・?

何故か言葉にならず息苦しさを感じた。
頭の中に響いた自分の声があまりに頼りなく、思わず拳に力を込める。
何かを話すオスカルの声がどうしてこんなにも遠いのか・・・
鮮明なのは硬直する身体に汗が滲む感覚だけで、他のすべての事が不確かでもどかしかった。
激しい耳鳴りがする・・・反射した光の矢にこめかみを射抜かれたかのような鋭い痛みに襲われ、アンドレは顔をしかめた。

目の前の光景がぐにゃりと歪んで今にも平衡感覚を失いそうになりながら、頭蓋が割れそうな程の激しい頭痛と闘う・・・・・片目を失ってからというもの頻繁に襲い来るこの症状に精神力だけで堪えてきたアンドレは、この時も両目を閉じ、静かにゆっくりと深呼吸を繰り返した。



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? 
アンドレ、また、ここへ帰って来たら・・・その時、話したいことがある」


「・・・・・・・話したいこと・・・・・・?」


それは、金縛りが解けたようにすべての感覚が戻った瞬間だった。
目を開ける。すると霞んでいた視界が晴れオスカルに焦点が合う。
時間が正常に動き出し、呼吸が楽になったのを感じ、アンドレはふー・・・と息を吐いた。


窓辺からゆっくりと歩いて来るオスカルは真っ直ぐに俺を見つめ、少しだけ寂しそうな目をしながら微笑んでいる。
不謹慎を承知で、ああ・・・綺麗だな・・・・・・・・と思った。



「じゃ、後を頼むぞ」


部屋を出る瞬間、オスカルから漂った香りは昔と少しも変わらない・・・
俺の居るべき場所はここだ。

強い確信を得て、自分の存在を今、誇りに思う。




「・・・必ず、戻って来るさ」

部屋に射し込む柔らかな黄金色の光の中でアンドレは呟いた。



           
   
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近衛連隊から衛兵隊へ転属後、三部会の議場警備のあり方を巡って抗議を重ねたうえ重大な軍規違反を繰り返す事となったオスカル・フランソワ。
この一連の出来事で彼女は陸軍幹部から注視され警戒を受けるようになっていた。
ところが、本来ならば厳罰に処されるべき命令違反に対しても、国王夫妻の恩情により一切処分なし。更に要注意人物として彼女を常に監視下に置くようにとの元帥命令は王妃マリー・アントワネットによって即日却下される事となる。

オスカルに対する王妃のこの温情は軍の内部に少なからず波紋を呼び、怒り狂った元帥はただちに軍法会議を招集した。しかし、何が何でもオスカルを断罪しようという幹部の思惑に反して、近衛連隊の突入を食い止めたのはむしろ賢明な判断であったと国王自らが発言。三部会会議場に武力介入した際に出たであろう犠牲者の数と、その後勃発したに違いない諸問題の大きさを改めて検討した末の、正しく“賢明な判断”であった。

かくして、それまでの軍における功績に免じてオスカル・フランソワには改めて寛大な措置がとられる事となり、元帥は再び、凄まじい形相で歯軋りをする展開となったのである。


    


王妃マリー・アントワネットは話を切り出す際、私に若干気を使った様子であった。

「貴方ほど職務に忠実で完璧な人をわたくしは他に知りません。貴方は信頼に値する人です。それは今回オスカルの命令に従い軍を引いた事からも分かります。おかしいですね・・・貴方は本来の命令を無視したというのに。いえ、平民議員をどういった手段で排除しようと、その事の是非についてわたくしがあれこれ論じるつもりはありません。ただ・・・そう、オスカルを撃たなかった貴方に、わたくしはお礼を言いたいのです」


王妃は最初不安と安堵の入り混じった複雑な表情を浮かべ私を見つめていたが、直ぐに毅然とした態度に戻り「よく思いとどまってくれました」と微笑んだ。


この出来事に妙な違和感と戸惑いと、そして不思議な連帯感を覚えた私は改めて、自分の立場というものに思いを巡らせてみた。
何故、連隊長を撃たなかったのか?と問われれば・・・出来るわけがない。そんな事が出来るわけがない。と答えるしかない。
連隊長の命令の方が正しかったからなのか、それとも個人的な感情からなのか、・・・いや、明確な理由などは無くていいだろう。少なくとも、それは言葉で説明できる類の感情ではなかった。そして、同じ感情を目の前の王妃も抱いている。

私たちは何に翻弄されているのだろう・・・・・・・・

動揺する心は連隊長とて同じに違いない。
大きな波に呑まれそうになりながら、もがき生きるその姿は今にも壊れてしまいそうで・・・二人の女性が哀れでならない。


だが、そう思う私は独りよがりなのかもしれない。

王妃マリー・アントワネット・・・長年このお方に仕えているが最近驚くことがある。
混乱する情勢と次々と身に降りかかる不幸にも関わらず、この方は強くなっておられる。
国民から敵視され、貴族からさえあたかもブルボン王朝を傾けた張本人のように陰口を叩かれる日々を過ごしながら、この方は確実に強くなっておられるのだ。それは時に権力の暴走にも通じるような愚かで痛々しいものではあった。が、しかし、私は以前よりもこのお方に対して忠誠心を感じている。運命と言うものがあるならば、たとえ破滅する道だとしても私はこの方を最後までお守りする立場でいるであろう。

・・・私の心にそうせよと命じるもの・・・・・

オスカル・フランソワを想う自分自身が、そうせよと強く、強く己に命じていた。


愚かなのは誰だ?鏡を見て苦笑する。
だが、自分の感情に流され軍人としての本分を忘れたわけではない。

オスカル・フランソワに対する私の想いとは何であろう・・・?

同じ問いを何度自分の中で反芻してきたことだろう・・・
常識や理性で割り切れない感情を恋心と呼ぶならば、私の中にあるそれは少し種類が異なるもののような気がしている。
いや・・・分からない・・・・・・
確かなのは私の抱くこの想いの常に上を、あの人が行く・・・という事だ。
常識や理性では量れない鮮やかな行動力で様々な局面を切り抜ける彼女を見て、私は自分の役割を思い知る。
彼女の大胆さは私を鼓舞し、彼女の謙虚さは私を落ち着かせ、見つめる時間はいつしか・・・

そう、幸福で満たされていた。




    
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もうじき太陽が沈む。
真っ赤に染まった雲が大空を流れ暗闇がゆっくりとベルサイユを包んでいく。


瞬きもせず真っ直ぐに私を見つめる連隊長の瞳が美しい。

過酷な任務で痩せられたのか、いちだんとか細い肩が風に吹かれ時折小さく震えて見える。




「私を、自由にさせておいていいのか?」


連隊長の声が胸に響いた途端、全身が熱くなり心が奮えるのを感じた。



アントワネット様とのお目通りは恐らく、“訣別”という形で終わったのだろう。

連隊長の眼差しは共に命をかけて王室をお守りしたあの頃と少しも変わらない。
だが、全身から立ち上る超然とした雰囲気からはもう貴女がこちら側の人間でないことを如実に感じ取ることが出来た。
それが何を意味するのか・・・・・・
分かっていればこそ、猛然と貴女を抱き締め束縛したい衝動に駆られるのが、恐らくは恋心というものなのだろう。

だが、いま私の中に渦巻く感情はそれだけではない。
貴女を失いたくない一方で、誰にも手の届かぬ場所に飛翔する姿を見てみたい。
自由という何よりも尊いものを手にした貴女がどのように生きるのか、見てみたい。
・・・そう思う。

そして、その為に出来ることがもしあるとするならば、私はたとえこの瞬間、命を絶たれたとしても悔いはない。





「王后陛下は私がお守り致します」


互いに身じろぎもせず視線を交わした間に伝わった想いはどれ程のものであったか。

私とオスカル・フランソワの間には特別な繋がりがあり、だからこそ私だけが彼女に誓うことが出来る、これは最大級の“約束事”である。

     


「ジェローデル、私は以前『もし人は生まれ変われるのだとしたら、自分はどうなりたいのか?』と、考えていた・・・」


静かに語り出した連隊長は瞳を閉じ、風の吹く方角に向かってゆっくりと深呼吸をした。


「・・・どうなりたいのですか?」


連隊長は私の質問に少し戸惑った様子で、しばらく黙ったまま遠くを見つめていた。
そして静かに振り返り、小さく咳払いをして何かを呟いた。まるで独り言のように微かな声だったので私に聞こえるはずもない。だが、不思議なことに・・・風の音にかき消されて聞こえなかった言葉は耳にではなく、心に届いたような気がした。


「ジェローデル、貴方ならどうだ?」

ふいに訊かれた事だったが答えはとうに決まっていた。


「生まれ変わった後のことなど、考えたくもありません」


一瞬訝しげな顔をした連隊長は額にかかる髪を払い、再び穏やかな表情に戻ると、じっと私を見つめた。


「貴女と共に過ごした・・・この人生こそが全てです」


風のせいか連隊長の瞳がうっすらと潤むのが分かり、切なくて溜まらない・・・


「それでは答えになりませんか?・・・では、たとえ生まれ変わったとしても、私は今と全く同じ人生を選ぶでしょう」




いつの間にか空の色は朱色から紫へと変わり星の明かりがひとつふたつキラキラと輝き出した。


どのくらい無言で向き合っていたのだろう。
一瞬であったのかもしれないが私には永遠の価値がある、愛しい・・・愛しい時間であった。


心なしか風が落ち着き、やがて無数の星が空に現れる。
連隊長の唇が微かに動くのを見て私は耳を澄ました。



「・・・・・同じだ・・・私も。生まれ変わっても、きっとこの人生を選ぶだろう」



薄紫の光に照らされて微笑む連隊長があまりに美しくて、私は言葉を発することが出来なかった。
私が全力で守りたいものはただひとつ、貴女の自由であるべき未来だ。体中で叫びたい衝動に駆られるも、声にならない。

勇気を出し一歩、また一歩と連隊長に近付く。

その間、じっと動かずにいたオスカルの頬に触れた瞬間、込み上げる感情に嗚咽しそうな自分がいた。彼女の柔らかな肌の感触が指に伝わり20年分の想いが溢れ出す。

気が狂いそうな程に貴女が愛しい。
私は目を瞑り、歯を食いしばるより他なかった。




ふと、掌に熱いものを感じた。
流れ落ちるオスカルの涙が私の指を濡らす・・・・・


このままでは自分を抑えられなくなりそうで、私は静かに彼女を手放した。



「どうか・・・お体をお大事に」

当たり前の台詞を言うのが精一杯だった。


素早く涙を拭い、何事もなかったかのように私に背を向け、彼女は歩き出す。

決して振り向くことのなかった貴女の背中を見つめ、遠く過ぎ去った青春の日々を想う。
幾度となく眺めた光景がどうしようもなく恋しく、溜まらない。

      


最後に、私にとって小さな奇跡が起きた。


静かに立ち止まり、初めて連隊長が振り返る・・・

そして彼女はいつもの凛々しい声で私に呼びかけた。




「ジェローデル、貴方に出逢えて良かった」




それから一切振り向くことなく、足早に去って行った連隊長。

天上で瞬く星のように・・・一瞬の煌きだけ残し、彼女は去った。




もう二度と、私には手の届かぬ存在である。