stories⑧

アニばらワイド劇場
(第29話~第32話)





第29話「歩き始めた人形」~記憶~



あまりにも広大な敷地を擁するベルサイユ宮殿なので、普段なかなか足を運ばない場所というのがあった。
必要性というよりも、むしろ足を踏み入れないことが礼儀に近い、我々にとってそこはまさに別世界であった。
広義で言えば同志ともいえる存在でありながら、与えられた役割は天と地ほどに遠くかけ離れ、昨今では益々その任務の間に大きな隔たりができつつある。

彼らの存在理由を一言でいうなら「弾除け」であった。


王室にとって、じわじわとではあるが日に日に脅威となりつつある民衆。万が一ではあるが彼らが大暴動を起こさないとも限らない。荒れたパリ市内を日夜巡回し事件の芽を摘む。暴動に繋がるような集会があれば取り締まり、もしもの時にはこの者たちが先頭に立って鎮圧に向かうのだろう。だが、いざその時が来れば王室がフランス全土から別途大軍を召集することになるのは必至。

彼らは有事の前の無残な弾除け。

敷地内を吹きすさぶ荒涼とした風を肌に感じて、猛然と不安がつのった。


       


事前に立ち入りの許可を取り、任務の変更等不都合がないか確認してからの訪問であったが、それでも目の前の将校は訝しげな表情を崩さなかった。むしろ、この行き届いた配慮の方を警戒されている気がしないでもない。が、今後のことも考え・・・その辺りは出来る限り気を使えと、先日の異例とも言える王后陛下直々の接見時からこれは堅く命令されている事である。


「今日はどういったご用件で?」

扉を開け部屋に入って来たダグー大佐は軽く一礼すると私より先に言葉を発した。
その声のトーンといい背筋をピンと伸ばした静かな佇まいといい、実年齢よりも彼はだいぶ落ち着いて見える。が、実際は私と10歳も違わないのではないか?
この数日間で調べ上げた経歴により、思っていたよりもこの軍人が若いであろうことは想像がついた。

見慣れた近衛仕官とはだいぶ趣を異にした彼の前で、思いのほか長い時間私は沈黙してしまっていたようだ。ダグー大佐は「先日伺いました件でまだ何か?」と、気付けばただでさえ渋い顔を益々固く曇らせている。



オスカル・フランソワが理由も曖昧なまま現在の任を解いて欲しいと王后陛下に願い出られたと・・・近衛連隊長辞任の一報を聞かされたのは最後の閲兵式が行われる、その日の朝であった。

そのように重大な事柄を何故こんな突然にと、聞いた瞬間はもとより式の間中混乱を隠せなかった私ではあったが、やがて連隊長がなさる事すべてが衝撃であり、鮮烈であった過去を思い出す。そして、このような去り際は彼女にとっても我々にとっても逆に自然であるのかもしれないなと・・・強引に納得しようと努める事で私はなんとか平静を保っていた。
いや、私だけでなない。連隊長の就任から彼女と共に歩んできた隊員の多くが、同じ想いでいたに違いない。


連隊長の身に一体何が起きて、このような突然の辞任に至ったのか。その理由を追及しようとは思わない。ただ、彼女が新たな配属先に望んだ条件というのが気にかかる。それについては直接話を聞いた王后陛下が私以上に混乱していた為に真意の程は明らかではないのだが、目も合わせず「近衛隊以外ならば何処へでも」という言い方が、まるで「王妃マリー・アントワネットから遠ざかりたい」その一心でそう言っているようだったと・・・哀れなくらいに悲嘆に暮れ、涙すら浮かべておられたので、お掛けする言葉がなかった。

幸い・・・というか何というか、オスカル・フランソワがどんなに優れた軍人であろうとも国境警備隊や海軍に入隊できるはずもない。
彼女の功績がどんなに素晴らしいものであるにせよ、女性であるという事実は流石にベルサイユを離れてもなお軍籍に身を置けるものではなかった。
第一、そのような無謀な転属を王后陛下が認めるわけがない。よって新しい配属先はフランス衛兵隊B中隊と決まったわけだが、ある意味国境を守るより数倍、数十倍危険な労働がかせられる。現在のフランス衛兵隊とはそれ程に過酷で厳しい部隊であった。
その過酷さを・・・本当に王后陛下は理解していただろうか・・・?
いや、理解しておられたからこそ、あのような異例の接見であったのだろう。

自分と距離を置こうとする連隊長の様子を気遣い、王后陛下は極力口を挟まぬおつもりではあったようだが、陸軍総司令官であるブイエ将軍と現在のB中隊副官であるダグー大佐を呼ばれ直々に“女性”であるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェを特別に隊長として就任させる旨を伝えたのだった。




「何度も時間を取らせ、申し訳ない。今日は王后陛下の使いではなく・・・個人的に、大佐に伺いたい事があってやって来ました。約20年前のことだが、覚えておられるだろうか?」

「ひょっとして、陸軍士官学校のことでしょうか」


思った通り、多くを語らずとも彼は解ってくれた。

これから連隊長の片腕となる男、大佐という地位につきながら与えられている役職が衛兵隊B中隊の副官というのは不当に低い立場のようにも思われた。が、ある状況が巡って来て・・・ふと「すべてが運命だったのでは?」と思う事も、この世にはある。
『運命』だなどと・・・ここへきて何かと大袈裟な捉え方をしてしまう癖を自嘲しながら、私はダグー大佐に視線を戻す。


「厳密には18年前、1769年頃の事だと思うのだが・・・・・少女の頃のオスカル・フランソワを覚えておられるか?」

「・・・少女とおっしゃいますが、あの時の様子は・・・とてもお転婆などと言う形容で済むものではありませんでした」

この間まで面識のなかった二人の軍人がいい年をして厳つい軍の指令室にて少女云々の思い出話をする事になろうとは、あまりに思いがけない事であり、また、これがオスカル・フランソワの結びつける不思議な縁のひとつなのだと・・・不意に私たちは張り詰めていた糸がするするとほどけるような気恥ずかしく暖かい感覚に包まれた。


「私は国王の命令で近衛隊長を選抜するその日に、場外ではあったが・・・士官学校の特待生であったその少女に、こてんぱんに打ちのめされました」

「それは・・・随分昔の出来事とはいえ、お気の毒です。しかし、無理もありませんな」

緊張の解れたダグー大佐の顔に笑顔らしきものが浮かび、やがて声を上げて笑い出した。若干驚いたが・・・つられて笑う自分に18年という歳月が思ったよりも軽やかに重なり、不覚にも急に目頭が熱くなったので慌てて咳払いをした。

「彼女に勝てる者は士官学校内には誰ひとりおりませんでした。どういうわけか強かった。なんの訓練もしないうちから、なんと言いますか彼女には独特の霊気のようなものがあった。・・・血筋というものを、私はあれ程印象的に感じた事はありません」


笑ってはいても背筋は相変わらずピンと伸ばしたまま、恰幅のよさとはまた違う適度な威厳に満ちたダグー大佐の雰囲気が、同じ軍人として妙に清々しかった。それに「霊気」とは・・・・・実に的を得た表現をしたものだ。

そうオスカル・フランソワが人を惹きつけてやまないのは彼女自身から発せられる霊気のせいだ。決断力や統率力や・・・そんなものはみな後から付いて来る。ひとたび行動を共にすれば、彼女の霊気にあてられる。何よりも己の為に・・・彼女を求めずにはいられなくなる・・・・・・



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数々の名誉ある勲章の中で近衛連隊長の真新しい階級章が男の胸でひときわ目立って輝いていた。

同じ軍人ではあっても、目の前の男は自分とは全く異なる道を歩んで来たのであろう。洗練された立ち居振る舞いの全てに違和感と距離感を感じる。しかし一方で“貴族”という名の同胞が抱える得体の知れない不安感には妙に共鳴するところがあり、ジェローデル大佐の体から滲み出る危機感はわずかな会話の中でも十分自分の琴線に触れ、不思議なくらい気持ちを揺さぶるものがあった。



ふと、空気が変わった。とダグー大佐は感じた。更に重く、灰色の幕が覆うように・・・目の前の男の表情が深刻に曇っていくのが分かった。


「私が推したのだ。初めて自分を負かした相手に、どうしようもなく惹き付けられて。この人以外に隊長は考えられないと思った。・・・あの時、彼女を隊長にと・・・何がなんでもオスカル・フランソワを軍人として迎え入れるようにと・・・激昂した国王に、私が進言したのだ・・・」


ジェローデル大佐は私ではない何処か遠くを見つめながら、そう語った。

暫く沈黙があり、目が合った瞬間、ジェローデル大佐は苦しげな声で小さく「運命だと思った」と、呟いた。


         
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ダグー大佐が静かに語り出す。

「あの頃の私は既に生徒ではなく、指導する立場でもなく、その見習いといった状況でジャルジェ准将の活躍を見ておりました。フランスがオーストリアと同盟を結んで、ルイ14世陛下の崩御以来再びフランスが輝きだした瞬間だった。新しい時代に向け国中が活気に満ちていた。そして、目の前の少女はその象徴だった。我々の想像を超える時代がやって来るのかもしれないと、恐らくあの時いた誰もが感じておりました。・・・貴方だけではありません」


硬く一本調子だったダグー大佐の口調が柔らかく穏やかになり、ジェローデル大佐の心をどうしようもなく揺さぶった。


「あの時の少女を“隊長”と呼ぶ日が巡って来た事に、不思議な縁を感じます。もちろん、隊長が私を覚えてるはずもありませんが・・・」

ダグー大佐は再び表情を引き締め背筋を伸ばすとゴホッとひとつ、咳払いをした。



「大佐・・・話を聞いてくれて感謝する」

微かな安堵感に包まれ、ジェローデル大佐は数日ぶりに心が何か温かいもので満たされる感覚に酔った。


「ところで・・・関係があるかどうか解りませんが・・・」

ダグー大佐のやや意味深な口調で再び緊張感を取り戻したジェローデル大佐は、今度は安堵感とは似て非なる感情が複雑に湧き上がって来る感覚に苛まれた。

「つい昨日の事ですが、我々の部隊に突然入隊を切望するという者が現れまして・・・本来の審査基準で言うなら認めるべきではない事例でしたが、恥ずかしながら現在の衛兵隊は慢性的に人材が不足しているという状況もあり、多少の不都合には目を瞑り、入隊を許可しました」

「多少の不都合とは?」

「目を負傷しているのです。恐らく片目の視力は完全に失っているでしょう。それに、身元を偽っている可能性が高い。それでも不適合にならなかった理由として、志願者は基本的な身体能力には優れ、王家の軍隊の一員として問題なく通用する品格と常識を十分に兼ね備えており、要は現在街に溢れる浮浪者の類ではなかったこと。更に、是非とも彼をB中隊へと太鼓判を押す現役の隊員がおりました」

「男の名前はアンドレ・グランディエか?」

「身元を偽っているという部分がこれで確定しました。しかし偽名ではなかったわけで・・・採用を取り消すつもりはありません」


「・・・衛兵隊の人事にまで私が口を挟む所以はない」





従僕として付き添うのではなく、わざわざ一兵卒として入隊を志願するとはどういうわけだ?
目の怪我に配慮して連隊長が護衛の役目を解いたのならば・・・奴は自発的に後を追ったか?
無謀だが・・・・・なんと自由で、羨ましい男。
私には・・・私には、それをする資格も権利もない。


・・・・・本当に、そうか・・・・・?



別世界からの帰り道。
殺伐とした風の感触がやがてじわじわとした高揚感に変わり、たまらなく愛しいあの人の香りが眼前によみがえる。


オスカル・フランソワ、貴女と運命を共にしたい・・・
渇望とも言える、このような狂おしい感情が私の中に生まれた事は、貴女が起こした、果たして何番目の奇跡にあたろうか・・・?




出逢いの日から18年。
いつしか我が命より尊く大切な貴女を、願わくば、私ひとりのものに・・・・・!!!







第30話 「お前は光 俺は影」~薫風~



半年間のあいだ薄暗かった兵舎が最近ようやく明るくなったような気がする。
そう言って、兵士の一人が嬉しそうに笑った。

4月も中旬になり、暖かくなり出した大気は冬の間じっと息をひそめていた草木の命を一気に芽吹かせる。
特に、今朝の陽射しは格別だった。

普段ならば、夜が明ける瞬間の寒さでとりあえず目は覚めるもののそれから始まる朝支度は地獄だった。
冷たい石畳の通路を寒気がきんきんと音を立てるように走っては起きようとする気持ちを何度でもくじけさせる。しまいには半べそかきながらやっとの思いで布団から這い出るのだが、袖を通した軍服が夜間の冷気でうっすら湿ってるのを感じると、その感覚はまたも大きく俺たちの気持ちを萎えさせた。

やがて周囲から大きな溜め息と共に「うえー・・・」やら「畜生・・・」やらといった低い呻き声が聴こえ、誰かが激しく咳き込む音がしたかと思ったら当番の者が「早くしろや~っ!!」と寝起きのしゃがれた声で怒鳴りながら面倒臭そうに部屋のドアを蹴飛ばして行く・・・

こんな一日の始まり、憂鬱と言わないで何と言おう。

だからって、別に家に帰りたいとは思わない。帰ったところで何が変わるという事はなくパリの、今はもうスラム街といっていい程に荒れ果ててしまった地区にある自宅に居るのと比べれば・・・食事にありつける。
どんな環境であろうとここなら毎日3食、飯が食えるのだから・・・やはり素晴らしい!
起床時、辛いのを一瞬我慢しさえすれば・・・たいして美味くはないのだけど、何か胃袋に入れさえすりゃ~気分も自然と前向きになろうと言うものだ。で、前向きになった途端に「たいして美味くない」等と贅沢な事を考えていたことが家族に対して申し訳なく思えてきたりして・・・母や弟が今日一日、飢えないで過ごしてくれる事を固いパンをじっと見つめ願う俺。

それが今朝のパンはちょっとだけ柔らかいような気がして「やっと春が来たんだなぁー!」と思った。穴ぐらのような食堂だけに余計、窓から射し込む陽の光が昨日よりずっと明るい事が分かる。そっと手をかざすとやんわりと温かくて、のろまな俺が珍しく背筋を伸ばして、みんなよりもちょっと早く外に出て、大きく深呼吸なんかをしていた。

         

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誰かが小走りで近付いてくる音に気がついてアランは振り向いた。


「班長っ!春っすね!!今年の冬はいつ終わるのかってくらい長くてウンザリしたけど・・・、やっとこさ春が来たっすね!!」

どんなに背筋を伸ばしてみたところでB中隊で一番のチビ、ラサールが嬉しそうに話しかけてくる様子は、犬みたいだ。そして班長と呼ばれた男、アランは彼の頭をその度にころころと撫でてやりたい衝動に駆られ、実際撫でてやる。
犬っころみたいなくしゃくしゃな顔で嬉しそうにしているラサール、その目線が随分と眩しそうなので、改めて今朝の陽射しが昨日までのそれとは違うのだと思う。

「そうだな。春が来たんだなー・・・」

自分も大きく伸びをして「あーーーーー」と唸ってみると、頭上でバタバタと鳩の飛び立つ音がした。それでアランもなんとなく嬉しくなり、改めて「春が来たなぁ!」と叫ぶと犬っころラサールの背中をぽんっとやる。
あははははっと笑ったラサールにつられて周囲の何人かが笑い声を上げた。



「今日はパリ市内の特別巡回っすよね!俺そのメンバーに選ばれてて・・・今日の巡回経路、うちのすぐ近くまで行くはずなんです!それで、今まではちょっと抜け出して、お袋や弟の様子みて来れたんですけど・・・今日は・・・あの・・・その・・・新しい隊長が一緒だったら、そんなこと許されないですよね?」

楽しげだったラサールの表情が少し曇り背中を丸めるものだから益々チビになる。

「そうだなぁ。普通はそういうこと、しねえわなぁ・・・」

仕方ないと思ったのか小さな溜め息をつくと意外な程に早い立ち直りを見せ、またラサールは笑顔になった。



「なんか・・・こんなこと言うと変に思われるかもしれないんですけど・・・新隊長が来てから兵舎が明るくなったような気、しませんか?」


ラサールの奴、何を言い出すのかと思えば・・・・・しかし、それは至極単純で当たり前かつ健全な発想のような気が・・・しないでもない。そしてそんなことを屈託無く言ってのけるラサールが妙に新鮮で可愛く思え、再び“春”の到来を実感する。

「そうだなぁ・・・兵舎が明るくなったような気、するかもしれねえなぁ~」

麗らかな陽の光の中ですっかり気分の上がったアランはニヤニヤしながら続けた。

「ったく・・・おめえはいいなぁー・・・あれが春風に感じられるなんざぁ結構大物じゃねえか、おい。でもな、ボケッとしてたらあの春風、あっという間に竜巻みたくなって、運河の果てまで吹っ飛ばされるぜ。気をつけろよ!」

「は?竜巻?・・・班長、何を言ってるんですか?それに気をつけろって一体何に・・・」


せっかくからかってやったのにラサールには俺の言いたかった事がいまいち通じなかったようだ。だが、分かってか分からないでか・・・と言うか、どういうつもりなのか逆にこっちが分からないのだが、奴は照れつつもなんとなく胸を張り、あははははっと笑っている。

そんなラサールを見て、久しぶりに愉快な気持ちになったのは事実で、しみじみ・・・春が来たんだなー・・・と思う。

まぁ・・・仕事が始まればそんな悠長な気分ではいられないだろうが、4月の朝の風景。今までとは違う明るく爽やかな風が吹き抜けたような気がして、久々に楽しい一日の始まりだった。


         

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翌日。
面会日の今日はよほど緊急の事態でない限り休養日なので、多くの隊員が普段よりもずっとリラックスした表情で思い思いに寛いでいた。面会日と言っても全員が家族持ちなわけではなく、いても会いに来るとは限らない。なので、実際は仲間同士で談笑して過ごすのが多くの兵士にとっては普通の過ごし方になっている。

そんな穏やかな時間の中で起きた・・・あれはここへ入って初めて見る凄惨な集団リンチの現場だった。


新しくやってきた女隊長とほぼ同時期に入隊した片目の男、アンドレ・グランディエを「新隊長のスパイだ」と決め付け、猛然と敵視した数人が彼を襲った。

ここまで酷くはないが軍隊というところはわりと頻繁にこのての揉め事が起きるもので・・・終わってみればだいたいが原因なんかはたいした事なく、ただストレス発散したいが為に誰かがターゲットにされ、パァーと暴れて、次の標的がいればそっちへ移行していって、そんな殆ど恒例とも言える隊員同士の他愛もない諍い、そんな現場ならば何度も見たことがあったし、自分が殴られた事も一度や二度ではなかった。ところが、今回のリンチは違った。起こる前から一部の連中に根暗で鬱々とした空気が充満していて・・・本人たちにしてみれば他に言い分があるのかもしれないが、リンチに至った理由は嫉妬、それが全てだったんだろうと思う。

そこそこ腕に自信があった男が、しょっぱなあんな惨めな負け方をした事。それについて自分の引き際が悪かったせいだなんて全く考えない事がそもそも問題だと思うのだけど・・・とにかく自尊心を徹底的に傷付けられて何かしないではいられなかったんだろう。でも、“陰でこっそり”というところが惨めさの上塗りになるだけだ。と俺は思う・・・
あんな事をして、気が晴れるものなのだろうか?
結局、班長からの評価もあれで滅茶苦茶になったわけだし、何より・・・アンドレ・グランディエは自分を痛め付けた相手のことなんて全く恐れていない。それどころか、誰であったのかさえ覚えてないのじゃなかろうか?
ストレス発散したかったのはむしろ彼の方で、あの時一方的に喧嘩を吹っ掛けられたのはむしろ好都合だったのかもしれない。
それくらいに、なんというか・・・“覇気”があったのは彼だった。

俺は、あの騒ぎを十分止められるところにいたのに最後まで何も言わずに見物していたアラン班長を見て、「買われているのは彼の方だ」と直ぐに分かった。
のろまだ、犬っころだといつもからかわれている俺が感じるのだから、俺以外の人たちも当然そう思ったに違いない。


それまでの数週間、あくまで陰口の範疇ではあったが彼は女隊長の手先だひもだと罵られ、隊長も「あの女、軍隊に自分の男を潜入させて俺たちの一体何を探ろうって言うんだ?」と訝しがられ、・・・リンチに加わった5人に至ってはもっと下世話な噂をしていたし、B中隊の中でとにかく二人は、事実はどうあれ散々な言われ方をされていた。
それが、あの出来事があったおかげで事態は収束したと言っていいんじゃないだろうか?
卑怯な真似をした5人に最後ぐっと凄んだ班長の目が実際マジだったので・・・その効果も勿論あるだろうが、それよりもアンドレ・グランディエが思ったような腰抜けでなかった事がみんなを落ち着かせる事になったんだと思う。だからこそ、彼は班長の『友達』なのだろう。

考えてみれば・・・『アラン・ド・ソワソンの友達』って、アンドレ・グランディエ以外に俺たちは知らないのだった。



アラン班長の友達、アンドレは散々殴られ蹴られボコボコにされはしたものの、B中隊でそれなりの評価を得る事となった。
・・・そしてこれはみんな見ていなかった事だろうが・・・隊長に介抱、とまではいかないけど怪我の手当てをされている最中、心底彼は大事にされていた。



「これで万が一使い物にならない身体になった場合は即退役を命じるぞ」

確かそんなような・・・
味気ない言葉を投げ掛けてはいたけど、彼に触れる隊長の手は震えていた。

受けてしまったダメージがどれ程のものなのかを用心深く探りながら身体に触れていく手が時折怖々と、遠慮がちというか何と言うか・・・になるのだけど、その仕草にはとても大切なものを触る時の優しい緊張感があった。

そんな感じでありながら言葉少なく、ろくに目も合わせない二人のなんとも言えない様子を見ていて・・・・・てか、「なに覗き見してんだ!」と言われたら、あの・・・その・・・困るんだけど、何故かその場が気になって、動けなくて・・・遠くから見ていた二人は少なくともスパイや、腹に一物あるような感じではなく・・・・・「何か全てに、深い事情があっての事なんだ」と思わせた。


隊長は・・・何故女なのに隊長なのだろうか?

物凄くシンプルかつ基本的な疑問で、俺は頭がいっぱいになりそうだった・・・

       


日に日に陽射しが強くなり、緑が萌え、空気が澄み、眩しさが増す季節。

思わぬ方向からやって来て、硬かった種を何やら不思議な力で芽吹かせようとする、それは生まれて初めて感じる薫風。

吹き抜けていく鮮やかな色をした風は春から初夏へ。
そして、やがては灼熱の真夏の厳しさの中を、どのように吹き渡るのだろうか?


どのように吹き渡るのだろうか・・・・・?








第31話 「兵営に咲くリラの花」~波紋~



降りしきる雨の中、突如乗り込んで来た憲兵隊がラサール・ドレッセルを連れ去った。
死神のごとき無情な態度で奴らはラサールを尋問し、殺すのだろう。
裁判どころか恐らく一言の弁解すら許されまい。
哀れラサール!!B中隊一臆病で影の薄い男の命は、紙切れ一枚よりも軽く、たいした記録も残さず明日明後日にはこの世から消え去ってしまうに違いない。

・・・誰のせいだ・・・?

ラサール・・・なんだってよぉ・・・・・要領の悪い奴なんだ・・・。
野郎、いつだって一人で損してやがる。初犯で憲兵隊に挙げられあっさりお陀仏なんてさ・・・いくらなんでもあんまりだ。

誰のせいだ?一体誰のせいでこんな事になったんだ?
誰のせいでラサールは連行されちまったんだ!?

      



突如命じられたスペイン王国のアルデロス公護衛の任務。
これまでの衛兵隊B中隊の経歴を鑑みて、これは極めて異色の任務と言えるが、振り返ってみるまでもなく過去の実績から特に見込まれた末の命令などではない。実際どうしても守らなければならない人物ならば天下の近衛連隊が護衛するのが筋だろう。近衛とはそういう仕事をする為の専門の軍隊ではなかったか。

ったく・・・今みたいな状況で一体何しに来るのかは知らねえが、それでもわざわざスペインからやって来るって奴らを華々しく護衛してやる役目を担うのはどう見たって俺たちじゃねえ。
外国の物好きが呑気に物見遊山中、暴民に襲われ殺されでもしたら流石の厚顔フランス王家も諸外国に対して申し開きが出来なかろう・・・ってわけで、これは何処かで保護しなきゃならねえわけだが、かといって全て犠牲にして必死で守らなきゃならねえ程にはアルデロス公って奴は重要人物じゃあねぇ。まぁ、こんな時でも見栄を張りたい程度の国賓ではあるが、出来ればお偉いさん達は危険を冒したくないんだろ?

というわけで、面倒な役目を丸投げしてやるのにちょうどよかったのがオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。

で、運悪くそれは今フランス衛兵隊B中隊の隊長の地位にあり・・・俺たちの上官だったちゅうわけだ。

      


実際あんなに危険で面倒臭い任務はなかった。荒れた市民に絡まれたり焼き討ちや爆弾騒ぎに巻き込まれるのならまだ分かる。っていうか命が脅かされそうな現場なら、正直俺たちは近付いていない。とにかく、最初からテロリストのターゲットにされるのを承知で出動するなんざぁ~・・・耳を疑うぜ、隊長さんってなもんだ。


遡ること一ヶ月、今日から女が隊長と聞いてナメるなふざけるなと憤った野郎が殆どだったが、中には荒んだ任務から解放され、これからは王家の軍隊たる少しは優雅でまともなお役目に与れるのではないかと期待した輩も居たに違いない。少なくとも俺はそのクチだ。そんな少数派の淡い期待をだ、木っ端微塵に吹き飛ばす程にあれは凄まじい女で、その女が持って来たアルデロス公護衛の任務なんざぁ特殊を超えた、まさに命懸けの修羅場だったわけだから参っちまう。

そしてテロリストの放った凶弾の犠牲になり、実際に何人もの仲間が死んだ・・・。

      


ラサールが連れ去られた後、呆然として口をつぐんだ隊員たちの中で最初に声を上げたのはアランだった。
なんとも妙で・・・それ、今いう事か?と周りの誰しもが思ったと思う。



「おいアンドレ、おめえ何年あの女に雇われてるんだ?」

突然尋ねられ困惑気味の片目を振り返り、アランは「ヘッ」と一瞬笑ったかと思うともう一度、今度は奴の胸ぐらを掴んで「何年あの女の従僕やってるんだって訊いてんだよ!」と怒鳴り、次の瞬間には「おめえ、不自由なのは左目だけかと思ったぜ・・・」と溜め息をついた。

「おい・・・ふざけるなアラン・・・オスカルはそんな事しない。ひどい誤解をしている」

片目は一人で結論を出してしまったかのようなアランを見て焦ったようだが・・・俺たちにしてみれば二人のやりとりは何が何だかサッパリ分からねえ。とりあえず、ラサールを憲兵隊に売ったのが隊長だと思い込んだアランに、片目は「それは違う」と言ったんだろうが、・・・まぁその他の複雑な事情なんて、有ったところで別に知りたくもねえ。



「なぁアンドレ。・・・目ぇ覚ましてやるよ」


突っ走った恐ろしい形相でボソッと呟いたかと思うとアランは「よぅ、司令官室に行きたいんだがなぁ。おめえ、付いて来るだろ?」と言い、依然困惑顔の片目を鋭く睨み付けた。

       


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アルデロス公を護衛せよとの任務は・・・多大な犠牲を払ったものの守るべき対象の命はなんとか取り止め、よって任務自体は成功という結果で終わった。

薄々気付いていた事だが・・・ピエール・モーロワはこの期に本格的な反逆行為に打って出たらしく、これまた思った通り見事な返り討ちに遭い、呆気なく死亡した。

懲りない奴・・・では済まない。
これは確かに衝撃的な出来事ではあったが、その後のテロリストとの攻防戦があまりに凄まじかった為、これはその前に起きた小さな出来事になってしまい、あやうく奴は静かに忘れ去られるところだったんだ。ところが、後からアランが「俺たちが片をつけた」と言うのを聞いて、改めてそれは突発的な事件などではなく、そういう時代が来たのだと・・・・・・・

昨日までの同胞が今日はテロリストとなり直ぐ隣から銃を突きつけて来る異様な感覚に、俺の全身は鳥肌でぼこぼこになった。


ピエール・モーロワは隊長を狙撃しようとして失敗し逆に命を落としたわけだが、奴が常軌を逸した行動を取るようになったのは何も昨日今日のことではない。隊長が着任するずっと以前・・・何ヶ月か、もしかしたら何年か・・・パリの街が優雅さを忘れ殺伐とした空気だけが充満するようになった頃から、奴は目の色を変え、貴族を罵倒し、何処か遠い世界に気持ちが吹っ飛んじまったような危ない態度を見せるようになっていた。それが異常かと言えば・・・正直どうでもよかった。そんな事いったら世の中みんな異常だ。誰も彼もが凶暴化し、どんな時代が来るんだ?これから一体どんな時代が来るんだ?という事ばかり。

腹が減るのにはもう慣れたが、やべえ妄想で仲間が自爆していく現実には堪えられねえ・・・
・・・さすがに、堪えられねえよ・・・。
      
       

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思ったよりずっと根性がすわってる新任の隊長は、今まで俺たちが思い描いていた金髪美人の幻想をたった一ヶ月で徹底的にブチ壊してくれたわけだが、一方でやっぱり女ってのはよぉ~・・・とも思わしてもくれた。
とんでもねえ破壊力のわりには妙に慈悲深い・・・女だからって理由じゃいまひとつなんだが、女だからよぉ~って思っとくのが結局一番納得できるので、まぁ仕方ないわな?

・・・しかし、女なんだろ?腕が立つのは分かったが、なんで女が軍隊にいるのかって基本的なところが全く分からねえ。



攻防戦で殉職した4名と重傷を負った数名の隊員、ついでに自分の命を狙って果たせず死んだ軍服を着たテロリスト1名。
軍葬の経験は何度かあるが雨の中で一兵卒の亡骸にひたすら頭を垂れ続ける司令官というものを俺たちは見た事がない。
自分が司令官として赴任して来た事がこの隊にとって最大の不運だったのではないかと、自責の念に駆られているかのような、そんな姿に、ふと俺は軍人であることを自覚した。
不思議なことだが・・・俺は軍人だったのだと、自覚した。

軍隊に入った理由なんか今更特に思い出しもしねえし、それ以上にこの先あれをしようっちゅう理想も何もねえんだが・・・いま俺は軍人なんだと、思い至った。


       
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「死んだ奴のことをあまり悪く言いたかぁねえけどよぉ、奴だったらやりかねないと思うぜ」



先程までの決闘の興奮がようやく冷め、落ち着いてみれば何の解決にもなっていないような鬱積した空気の中、一人の兵士が呟いた。

「隊長じゃないってのか、密告したのは」

小さく呟くもう一人の兵士。内心引っ掛かってたところを声に出しふっと力が抜けたようになった数人の気配を感じたのか一方で声を荒げる男が居た。

「何言ってやがんだ、あの女以外に誰がいる?だいたいなぁ、未だになんであの女がこんな下っ端の指揮官になりに来たんだか全く分からねえ!!分からねえ相手を信用できるか?やった事ねえ特殊任務を押し付けられんのも、それで仲間が死んだのも、ラサールが連行されたのも、全部あの女のせいだ!!アランだってそう思ったから決闘になったんだろうが!」

「・・・分からねえってのは否定しねえよ・・・でもさ、アランの奴、なんていうか・・・変に感情的でよ・・・いつものアランらしくねえっていうか・・・なんか怒りの出どころがよ、それこそよく分からねえんだよ・・・」

「一方的に隊長が密告者だと決め付けてたな」

「だろ?なんでだよ?」

「知るか!お前こそ何細かいこと気にしてんだよ!!あの女を信じられるのか、お前は!?」

「ラサールは信じてたからよぉ・・・・・」

「ああ?」

「ラサールが、妙にあの女のこと・・・信じるってのは変だな・・・懐いて・・・ってのも違うな・・・なんちゅうか、ときどき隊長って呟いて、笑ってたなぁ・・・」

「・・・馬鹿なのか?」

「おう、あいつは馬鹿だな・・・」

「ラサールの奴、女ってだけで母ちゃんでも思い出してたんじゃないか?」

「・・・あんなに過激な母ちゃん居るか?」

「そういう問題じゃないだろ?」

「・・・お前ら、いい加減にしとけよ・・・」


血管が今にも切れそうになっている男の顔を見て再び隊員たちは沈黙してみたものの、納得し難い今回の出来事に誰もがもやもやとした晴れない心を抱いていた。


「あのよぉ・・・ちょっと気になったんだが、ラサールが銃を売る時、仲介してやったのはピエールで・・・奴はもうこの世に居ない。けど奴には仲間が居たって事だろ?それこそ、密告なんてそんな細かい事するかどうか分からねえが、隊長を陥れる気なら念には念を入れて・・・って事もなかったとは言えない。それかもっと単純に、ラサールが目障りだったのかもしれねえぜ。その・・・貴族に尻尾振ってるような、そんな態度に見えたのかもな・・・」

         

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降り続く雨が黒い水溜りとなって、そこにいくつもの波紋が起きる。
静かに調和した水面にひと雫が落ちてさざ波が起きるように結束と疑心とが跳ね返り合い、芽生えた友情に影を落とす。



わき腹を裂いた感覚があの女にあったかどうかは知らねえ。

・・・何、かすり傷程度だ。あのまま何食わぬ顔して、ブッた斬ってやる事だって出来たんだ。
けどよ、それじゃ分からないままだ。


あんな女のどこがいいんだ・・・?
どこに、そこまで惚れる価値があるって言うんだ?


濡れた軍服がべったりと傷口に張り付き、血が滲み続ける箇所がどす黒く変色していた。
髪の毛から滴り落ちた雨粒が目へと流れアランの視界を遮る。


アンドレもラサールも、何を見てやがる・・・・・あの女の一体何を見てやがる・・・・・








第32話「嵐のプレリュード」~再生~



・・・それでね、聞いて下さいますか?
今日はほんのちょっとだけど、お話しする機会があったんです。兄の新しい隊長さんと。
兄ったらオスカル隊長の赴任以来、なんだかとっても楽しそうで・・・よく言うんです。
「殺風景な場所に場違いなくらいの逸材だ」って。
・・・いろんな意味でなんだって、後で付け足してました。

それと、オスカルというお名前なのですけど・・・『神と剣』という意味なんですって。

ヘブライ語なんて知るはずもない兄がどうして隊長さんのお名前の意味だけ知っていたのだろう・・・って。
私、それを考えるとおかしくなってしまって。
以前から知っていたわけではないと思うんです。ヘブライ語だもの・・・話す事はもちろん聞く機会だって読む機会だって、私たちにはありません。

ええ、・・・兄は、あれでいて結構心神深いところがあるんです。
私が小さかった時、忙しかった母の代わりに兄がよく夜更けまで物語を読んで聞かせてくれたことがあって、その時は聖書にまつわる話が多かったように思います。
幼い頃に父を亡くしたもので・・・母を助けてきっと大変なことがたくさんあった兄は神話に登場する英雄とか・・・そういうものに特別な憧れとかが、もしかしたらあったのかもしれません。こんな風に強くなって家族を守るんだって。

あ、私は赤ん坊だったので・・・父の記憶はありません。
父という言葉からはいつだって兄を連想してしまうんです。年の離れた兄妹だったので・・・ずいぶん可愛がって貰いました。

それで、兄は忙しい仕事の合間にきっと調べたんだと思うんです。
『オスカル』の名前の意味を・・・。
なんでわざわざって思います?尊敬する方には熱心に尽くす性格なんです。
ええ・・・その気持ちの前には相手が男性だろうが女性だろうが、兄にはそんなことは関係ないと思います。
驚かないで下さいね・・・オスカル隊長は、女性なんですって!


神と剣・・・・・兄ったら子供の頃に夢中になって読んだ神話の本のことを思い出したのかもしれません。
それで・・・ちょっと感動したのかも。

え?オスカル隊長の外見ですか?
女性の身で軍隊におられるのだから、さぞや屈強なお姿を想像されていることでしょうね?私も最初はそう思いました。誰だってそう思うと思うわ。
でも・・・ご想像とはたぶん正反対、だと思います。
お美しい方なんですよ。
今日言葉を交わして、益々そう思いました。

・・・お美しい方なんです・・・本当に・・・・!!


あぁ、私、自分の言いたいことだけ言って・・・お返事も聞かず走って帰って来てしまいました。
あの時なぜか急に、涙が溢れそうになって・・・どうしてもそれ以上お話しは出来ませんでした。
いろいろな想いが込み上げました・・・・・白馬に乗ったオスカル隊長を見ていたら、いろいろな想いが込み上げたんです。
あの・・・、不思議な感覚でした。

一瞬、子供の頃の・・・兄の姿も脳裏に浮かんだりして・・・・
オスカル隊長と兄は全然タイプが違うんですけど、・・・なんていうのかしら・・・兄の頭にある憧れの存在を見た気がしたんです。あ、これは全部私の想像ですけど。
ふふふ・・・兄にしてみれば「また何言ってやがる」って感じかもしれませんね。


えぇと、私の感覚だけで言うと・・・オスカル隊長は英雄よりも女神様や妖精のイメージです。
そう、たとえば・・・アポロンが恋するダフネという妖精がいるんです。森の中を颯爽と駆けてゆく美しいひとです!恋焦がれたアポロンが追いかけても追いかけても捕まえられない、風のようなひとです。

しなやかな身体に風になびく綺麗なブロンドの髪、・・・本当に場違いなくらいに、新しい隊長さんは美しい方でした。

あぁ、ごめんなさい!!私ったら・・・これでは昼間と同じだわ。ひとりで勝手にお喋りして、本当にごめんなさい。


そうだわ!・・・これを一番先にご報告しなきゃいけなかったんです。
今日、兄に私たちの結婚のことを話しました。
照れ屋の兄なもので短い会話でしたが・・・心から祝福してくれました。
私、嬉しくて・・・今夜はついつい余計なことまで喋り過ぎてしまったようで、恥ずかしいです!


・・・・・貴方・・・?
あの・・・どうかしたんですか?


何処を見ているの?何故そんな哀しい顔をしているの・・・・・・?



        
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「そういや、ディアンヌが結婚するらしいんだ」

パリ・オペラ座へ向かう馬車の中、昼間よりも大きく響く石畳の感触に揺れながら、軽快な口ぶりでアンドレが言った。

「ディアンヌ・・・?」

「アランの妹だよ。自慢の妹だって言ってあいつ、大事にしてたらしいんだ。なんせ、アランのガードが固いせいで、誰も近付けなかったんだってさ。・・・でも、兄貴の見ていないところでいい男が出来たってことらしい。知らないうちに大事な妹を掻っ攫われて、アランのやつ、寂しそうに笑ってたよ」

友達の小さな不幸を笑いながら語るアンドレ。その様子をふと横目で見て、口ぶりとは裏腹に瞳が愁えているのに気付く。

「そうか・・・」

「俺にも妹がいたとして・・・・・と想像してみたが、分かるような分からないような。さぞや複雑な心境なんだろうなぁ・・・・」

どこかもの悲しさが漂う口調に変わり、アンドレが静かに目を閉じた。
何を考えているのだろう?と思い、横顔を覗き込む。するとアンドレの唇が微かに動いて一瞬微笑んだかと思うと、次に小さな溜め息をついた。


「相手が・・・その、もし自分が見込んだ男だったとしたら・・・その辺りの心境に多少の変化があったりするのだろうか?」

私の投げかけた質問に、アンドレは少し大袈裟なくらい眉間にシワを寄せてみせると、一呼吸おいて、あるんじゃないかな・・・と答えた。


「・・・たとえば、おまえがその相手だったとしたら、どうだ?」




こんな話をするのは久しぶりだった。
随分長いこと・・・何ヶ月か、何年か・・・会話どころか目を合わすことさえ、私たちは臆病になっていたような、そんな気がする。
私もアンドレも、もう子供じゃない。お互い何を考えて、そしてどう行動するのか、手に取るように分かったあの頃は遥か昔のこと。だから、今はこんな些細なことでお互いの反応をうかがいたくなる。


「ん?どうなんだ?アランの心境に変化はあるのか?」


もう一度、アンドレを覗き込んで訊いてみる。すると彼は目を閉じたまま「んー・・・」と唸ったかと思うと、一言、「張り倒されるんじゃないかな?」と呟いた。


「・・・アランのやつ、熱くなると手が早くなるのは困りものだな・・・!」


なんだかおかしくなって、からかい半分同情してやる素振りをみせると、先程よりも深く寄せた眉間のシワを中指でこすりながらアンドレが身を乗り出した。


「そう、それはそうだ!人の話は最後まで聞くものだ。・・・けどな、オスカル、張り倒されるにもいろいろ理由があってな、この場合、アランの心境が問題なんじゃない。ディアンヌがどんなに素敵な娘でも、俺は彼女を貰えないな。残念だが、この縁談は断るしかない」


「何故だ?」と訊く必要はあるまい。うつむいて複雑な笑みを浮かべるアンドレを見て、何やら特別な感慨が自分の中に湧き上がる。

「その前に、ディアンヌの方が冗談じゃないって、言うかもしれないのにな!」

そして私は・・・急におどけてみせるアンドレの、彼の醸し出す空気のその居心地の良さを・・・改めて感じて、そして安堵する。


居場所というものがあるならば、ここは確かに私にとって、特別な・・・特別な場所であるのだろう。


          
       
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オスカルのやつ、どういうつもりで訊いたのかな・・・


俺は、俺は・・・兄貴の心境なんてものは解らない。
たとえ話でも、誰かと所帯を持った時のことなんか、想像すら出来ない。
俺は、自分のことしか解らない。
他人なんて、どうでもいいさ・・・・・

オスカル、このまま消える命なら、もっと伝えたいことがあった。
もっともっと・・・伝えたいことがあったのに・・・・・・・



絶体絶命の危機にあって、アンドレの脳裏に浮かぶのはオスカルのことだけだった。
深夜というわけでなく、またこの辺りは危険地帯ではない。
襲われた場所は厳重に警戒せよとの命令が下されている暴動頻発区域などではなく、かつて花の都と謳われたパリの中心街だった。
ベルサイユ宮からパリ・オペラ座へ、夜遊びに興じる幼い王妃に付き添い、笑いさんざめきながら通った道は、いつしか憎悪と殺意の渦巻く刑場となり、今、二つの命が消えようとしていた。


そう確かに、暴徒が去った現場に取り残されるのは二体の屍・・・であるはずだった。
二つの命は、しかし燃え尽きる寸前で救われる。
運命を変えたのは、またしても・・・あの男だった。
鬼畜と化したパリ市民が凄まじい形相で叫んだ名前、聞き慣れると同時に呼び慣れたその名前の主は、異国の貴公子・・・この世で二人といまい。


身体中叩きのめされた感覚はむしろ生きている証としてアンドレの神経を刺激し、正気を保たせているようだった。
縛りあげられ、自由にならない身体は他人のそれのようで、痛み自体は不思議なくらい気にならない。九死に一生を得た男の頭にあるものはもう一方の命のことだけ、死の淵から、もしも自分だけが救われたのだとしたら・・・?

堪えがたいのは痛みではなく容易に動けぬ事へのもどかしさだった。必死で起き上がろうとすればするほど何も出来ない。せめて激痛でも走ってくれればいいものを!ビリビリと痺れるような感覚以外、機能の失われたような身体は数センチずるりと引きずるのが精一杯でとても立ち上がれず、男は這う事さえ出来ない。


「オスカーーー・・ル!!」


絶叫してみたところで周囲からは何の反応もなく、不甲斐無さに発狂しそうになりながら身体をよじる。

その時・・・・・声を聴いた・・・・・。

馬車が焼かれるばちばちとした音が静寂の中ではまるで轟音のように響き、黒煙の焦げくさい臭いと迫りくる熱気の中で・・・その声を聴いた。




俺の名を呼び駆け寄って来るオスカルの姿を見て、ようやく生きた心地がした・・・・・

しかし、次の瞬間にはまたも悲惨な事態であることを思い出す。うちひしがれ壊れてしまいそうになるおまえの姿が頭を過ぎり、状況の深刻さにやりきれない思いで俺はいっぱいになった。


表情の確認できる距離まで来て一旦立ち尽くしたオスカルは、ボロボロになってはいるものの特に大きな怪我を負っているようには見えず、不幸中の幸いだとまずはそれを神に感謝する。
次に心配な事は・・・何があったのか分からない自分にはかける言葉が直ぐには見つからなかったが、蒼白なおまえの顔を見て、恐らく今この瞬間命の危機にあるだろう男のことを想う。



「・・・フェルゼンが居たのか・・・?」


なんとか身を起こし、何も答えず呆然と立ち尽くすオスカルにもう一度、声を掛ける。


「オスカル・・・フェルゼンが、救ってくれたのか・・・?」



       
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手遅れだった時のことなど考えたくもなかった。
駆け戻った時、石畳に横たわって動かないおまえを見て、凍りついた。
生きた心地がしない・・・身体の感覚がすべて消えて、何も聞こえなかった。

しかし、時間は動き出す。
ゆっくりと身を起こしたおまえは私の名を呼び、私を見つめた。

涙が溢れそうになった。


      
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止まった時間が再び動き出したかのように、駆け出したオスカルは、異国の貴公子ではなく“俺”の名前を呼ぶ。
そして・・・出逢った頃のように体を寄せて、涙を流した。

あぁ、おまえの体温が伝わり、身体の感覚が戻ってゆくよ・・・・・

肩に回された腕があまりにも細く、小さく震えるような泣き声があまりにも儚いので、俺は・・・こんな情けない状態でいるにも関わらず、たまらなくおまえを守ってやりたい・・・そう思った。


オスカル、オスカル、愛している。おまえが生きていて、良かった・・・・・





「なぁオスカル、どうせなら・・・先に腕の縄をほどいてくれないか・・・?」




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暴徒に襲われかなりの重傷を負ったアンドレだったが、当初の心配などものともしない快復ぶりを見せ今日から隊に復帰するという。目のこともあり、無理をさせてこれ以上の後遺症などが残ってはたまらないのだが・・・もっと休めと言って聞く相手でもない。


パリの街はいよいよ、私たちの知る姿から様相を変えた。


戦場から帰ったフェルゼンに、現状を見よと案内して回ったあの日。今にして思えば・・・あの時はまだ微かではあるが希望や可能性といったものが残っていたのだと思う。
王室と民衆の断ち切れた絆をどう修復するか・・・・・
あの怒声の中にある悲しみや苦しみを救い上げてやらない事には、フランスに明日はないのかもしれない。そして、決して容易ではないその道のりを思うと、受けた傷の痛みが激しく疼いて目の前の景色を遮るのだ。


だが、・・・修復できる絆もある。


千切れ、砕けたと思い込む事で踏み出せる道になど未来はあるまい。
私の人生とて同じなのだと、ふと気付く。
自然でいることの難しさを痛感する日々・・・だが、救われた命を生きる間、大切なものに気付ける人間にならなくてはいけない・・・と、思う。


しかし・・・つくづく、タフな男だ。
私よりもよっぽど痛手だったというのに、まるで何事もなかったかのような顔をしている。
身体に受けた傷など、おまえにとっては微々たるものか?

いつだって・・・動揺を隠し切れないでいるのは私の方だ。




「アンドレ」


振り向いた顔が明るい。
そして、気付いたことがもう一つある。
私は、おまえの姿を見て・・・いつもの一日が始まるのだな・・・と思っているらしい。
昔も今も。そして、これからも。





「アンドレ、それにしても・・・軍服の似合わない男だな」


「こんな短期間で大怪我を克服し、いざ、今日復帰しよう!という人間に・・・隊長がかける言葉か、それが?」


軽口を叩ける程に回復したことを神とフェルゼンに感謝しつつ・・・アンドレに触れてみた。


「軍服を粋に着こなすにはな、コツがあるんだ。ちょっと貸せ・・・」




アンドレ・・・見慣れぬ軍服が板に付く頃にフランスは・・・そして私たちは、一体どうなっているのだろうな・・・・・