stories⑦

アニばらワイド劇場
(第25話~第28話)





第25話「かた恋のメヌエット」~雁渡し~



澄みきった秋の大気、空をゆく鳥たちの羽音、西の地平線が真っ赤に染まり辺り一帯は短い朱の世界となった。




「見ろよオスカル、渡り鳥だ。帰って行くんだな・・・南へ。やつらはどんなに自由に大空を飛ぼうとも結局は帰って行くんだ・・・決まったところへ。誰にも止められはしない。誰にも・・・」



頭上をゆく鳥たちが切なそうな鳴き声をあげ、朱色の大空に何周も円を描きながら飛んでいる。
とても手の届かない高みを飛翔する姿に、どんなに想いを重ねたところで、その距離はあまりに遠い。


そして、オスカル・・・・・こんなにも近くにいるのに・・・おまえも遠い。



「・・・はぐれはしないのか・・・?」


オスカルが微かな声で呟いた。

振り向いて見上げた先に、渡り鳥よりも遠くを見つめて佇むおまえが居た。



「たまには、はぐれる奴もいるかもしれんぞ・・・」


「・・・それで、生きていけるのか・・・」


オスカルがさっきよりも小さく、殆ど消え入りそうな声で囁いた。



「風に乗るんだ。渡り鳥はこの時期吹く風に乗って・・・自分の居場所に帰るんだよ。必ずその風は吹く、だから迷ったりはしない。そりゃ、はぐれる奴はいるかもしれないけどな・・・だが迷うのとは違う。生まれ持った本能で、やつらは帰るべきところへ帰るんだから」


大空を周回しながら飛ぶ鳥たちは何かの合図なのかひときわ甲高く鳴き声をあげると、それを最後に一列になって南の空へ消えていく。

黙ったまま何もいなくなった空を見つめ続けているオスカル。
その姿が夕焼け空以上に眩しくて、切なくて・・・緩やかなこの時間の流れがたまらなく苦しかった。



「オスカル・・・寒くないか・・・?」


「回り道をしたとしても・・・ひとりになったとしても・・・・・それでも帰るのか?」

銃を下ろしたオスカルが、初めて俺と目を合わせて呟いた。


「風が帰してやるんだよ。渡り鳥はひとりじゃ飛べない。この時期に吹く風をな、東洋では“雁渡し”って言うんだそうだ」


「・・・・・・・・・・」


再び沈黙するオスカルだったが、今度は俺の目をじっと見つめていた。

白いブラウスが真っ赤に染まり、美しいブロンドの髪が朱色の風に揺れ、碧い瞳が今にも潤みそうに見えたので・・・俺から目を逸らしてしまった。



「無事で良かったな」

うつむきながら小声でそう語りかけると、オスカルは優しい声で「はぐれ鳥のことか・・・?」と訊き返し、そっと涙を拭う仕草をみせる。俺はたまらず目を閉じるも、気配で分かった・・・。

再び夕刻の空へ視線を戻したオスカルが、西の空に銃口を向けながら「ああ」と静かに頷くのがとても愛おしい。




渡り鳥のやつ・・・“風”の存在に気付いているか?
越冬の前に・・・何より温かく大切な“風”の存在に、おまえは気付いているか・・・?







秋の高気圧が勝って、北方から風が吹いてくると、その風に乗って雁が渡ってくるということから、日本ではその風を「雁渡し」と呼びます。 
...ノン フレンチ・・・めっちゃジャパニーズ・・・
この時OAの見た渡り鳥は雁ではないかもしれませんが・・・いろいろと目を瞑って下さいませ。







第26話「黒い騎士に会いたい!」~炎~



これまで意識した事がなかった。普段の彼が何を支持し、何を考え、何が出来るのかを。



貴族の中でも特に上流階級に名を連ねる者たちの間で「黒い騎士」の名前が囁かれ始めたのはいつの事だったか・・・・・
同時に私は考える。
夏の終わりに、彼はどんな顔をしていた?秋の初めに、彼はどんな話をしていた?

懸命に思い出そうとすればする程、私の中で払拭し難いあるひとつの疑念が生まれる・・・・・


“アンドレは私とは別の世界に生きようとしているのではないか?”



彼の全てを知っているわけではない。だが・・・これだけ近くに居るんだ・・・
何を思い何を望んでいるのかくらい、いつでも容易に・・・それは想像できるつもりでいた。



出逢った時から彼は裏表がなく、正直だった。
というか・・・少々迂闊と思われる程に、いつでも彼は率直な態度で発言し行動していた。
自分には無いとても分かりやすい性格だったから、だからいつの間にか私は・・・彼の全てを把握している気になっていた。
自分に従属させている安心感の前で、いつの頃からか私はおごり昂ぶり・・・本当の彼を見失ってしまったのだろうか・・・?

違う人生を別々に生きる現実を今ほど思い知らされた事はない。



私は・・・アンドレのことが分からない・・・・・・?




       
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夜風が随分と冷たくなった・・・。

きんと張り詰めるような夜気の中、遠乗りから戻り厩へ馬を繋ぎ、オスカルは小さな溜め息をついた。
手袋を取ると冷気にさらされた肌から急速に体温が逃げていく感覚が冬を感じさせ、思わず空を見上げる。

「そろそろ雪が降りそうだ・・・」

声に出して呟いてから厩を後にする。

次の瞬間、オスカルは珍しく驚愕し悲鳴をあげそうになった。
あげなかったのは何者かに羽交い絞めにされ、口を塞がれていたからである。
咄嗟に護身用の武器の類を何も持たぬ時に襲われた不運を呪い、必死で対応策を考える。



「おとなしくしないと命はないぞ」

耳元で脅され、逆に思い切り振りほどく暴挙に出た。



「驚いたか!?ごめんごめん!抜き打ちでな、ちょっとした訓練だ。・・・オスカル、油断し過ぎだぞ」


アンドレが屈託のない笑顔で「訓練」などと言っているのが腹立たしい。



「心臓が止まるかと思った。今日は非番だ!今の奇襲訓練のおかげで寿命が縮んだ。このっ・・・脅かすな!」




ひとの気も知らないで・・・楽しそうに笑っているアンドレを睨みつけてやるも、彼はマイペースを崩さない。
「物騒な世の中だからな、いつ誰に襲われるか分からんぞー!」等と言っておどけている。


・・・つられて私もなんとなくおかしくなって、・・・笑いはしないが正直ホッと胸を撫で下ろした。





アンドレはいつから居た・・・?



ひとの気配を感じた時には既に拘束されていた。

アンドレは何処に潜んでいたのだろうか・・・?
それに・・・私とした事が・・・声を聞くまでアンドレだと気付かなかった・・・・・背格好も匂いも体温も、冷静になればアンドレだと直ぐに分ったのだろうか?


それとも本当に・・・私の知らない彼が存在するのだろうか・・・・・・?



      
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おかしな夢に毎晩のようにうなされる・・・
暖かかった暖炉の炎がいつの間にか手に負えない程の業火にまで燃え上がり、思わず上げた自分の悲鳴で夜中何度も目が覚める。


・・・・・・今宵もどこかで、黒い騎士と呼ばれる謎の男が暗躍しているのだろう。



アンドレは何処だ・・・?
アンドレは此処にいるのか・・・?
私の世界に、もう彼はいないのか・・・・・?



夢は続いているのか・・・覚めているのか・・・・・
途切れ途切れの意識だったが、地上が闇に包まれる寸前の様子だけは脳裏に焼き付いて離れない。



真っ赤な炎のような色をした雲がまるで意志を持ったかのように広がり、夕刻の空を埋め尽くす。

私の知らない姿で大空を覆い、見たこともないような鮮やかな姿で燃え尽きようとする。

何故か「アンドレ!!」と叫ぶ自分の声がその光景に重なって・・・夜がとても長い。





・・・・・目覚めているか?
私はちゃんと、目覚めているか・・・・・?







第26話 「黒い騎士に会いたい!」 ~遺産~



巷を賑わす黒い騎士と呼ばれる盗賊。その噂がベルサイユに届いて間もなく、それは忽然と姿を消した。


ルイ14世のさまざまな偉業を描き出した天井画と壁一面にはめ込まれた無数の鏡、昼夜を問わず煌々と光を放つシャンデリアに照らされた空間は異世界と言っていいくらいの絢爛豪華さでブルボン王朝の栄耀栄華を謳っている。

ベルサイユ宮殿の性格を象徴する鏡の間。その内装は誰しもが目を見張るものであったが、中でもとりわけ気の利いた細工として国王ルイ16世に気に入られていたのは回廊を支える柱であった。
それはル・ブランが考案し後にフランス式オーダーと呼ばれることになる。
古代コリント式円柱に大胆なアレンジメントを加えたもので、葉と蔓の代わりにフランス王家の象徴である百合、王制と共和制とを問わず国土の象徴である鶏、そしてルイ14世の紋章である太陽神マスクを組み合わせたデザインがその柱の上部には立体的に浮かび上がっていた。

ルイ16世は幼少の頃から礼拝堂へ続くこの回廊を幾度となく歩いていたが、目に見えて煌びやかな装飾品の数々は好きになれないでいた。特に大量に用いられた鏡には従兄弟たちと比べて容姿や体格で劣った自分の姿を残酷に映し出されているようで苦痛に感じることもしばしばであった。
ベルサイユで最も華やかな空間は幼い彼の心に小さな劣等感を植え付け、芽生え始めた自尊心をちくちくと苛んでは彼を憂鬱にさせた。
気が付けば成長期の間は目を伏せて、足早に通り過ぎるのが習慣となっていたのである。

そんなある日、ふと見上げた柱に施された彫像が彼の心を大きく揺さぶることとなる。
素晴らしい天井画に目を奪われ、ともすると視線を留めることなくやり過ごしてしまいそうな彫像は、若かりし日の彼を熱く、そして厳かな目で見下ろしていた。

獣身に人の顔を組み合わせたその者は、両手を大きく広げ、光り輝く回廊を支配し、そして憂えている・・・・・・・

その光景には奇怪な姿とは相反する至極人間的な葛藤が感じられ、少年であったルイ16世はたちまちその彫像の虜となった。そして、どうか手に届くところにと切望した結果、奇妙な太陽神は青銅の置物となり、ある日ルイの手元に舞い降りて来たのである。


     
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「それで国王陛下はすっかり気を落とされて・・・わたくし、うかがいましたのよ。もう一度同じものを作られたらいかが?って」


王妃マリー・アントワネットは同情しきりといった様子で小さく溜め息をついた。

「でも・・・駄目なんですって。同じものは二度と手に入らないとおっしゃるのですよ。わたくしが嫁いで来る前の出来事なので詳しいことは分かりませんけど、あの置物を陛下に献上された彫刻家は既に亡くなっているそうで・・・とにかく、特別な思い入れのある品だから取替えはきかないのだと陛下は落胆されるばかり。お気の毒でならないわ・・・」


王妃の言葉を遮るように木枯らしがひゅーと吹き抜けると傍らにいた侍従長は首をすくめ、咳払いをし、目をしばたたかせながら空を見上げた。

「アントワネット様、そろそろ宮殿にお戻りになりませんと。あまり長いこと風に当たられて、お風邪をお召しになられたら大変です」

「まぁ、貴方ったらそんな分厚い外套を着ているというのに。オスカルをご覧なさいな。運動不足は体に毒よ、体を温めに少し庭園を走っていらしたら?ほら、色付いた木々の美しいこと!」


隅々まで手入れされたベルサイユ庭園は独特のグラデーションを描いて光輝く宮殿と見事なコントラストをみせていた。完璧に整えられた刺繍花壇は豪華な幾何学模様を浮き上がらせ、秋空に向かって吹き上げられた泉の水は時折きらきらと虹を描いては幻想的な空間を演出してみせる。

乾いた大気にいつになく遠くまで見渡せるベルサイユの大庭園は、移ろう季節の中で息を呑む程にドラマチックな変化をとげていた。

無限に伸びるかのように見える中央軸線を中心に左右対称に並んだ花壇や泉水や運河、更にそれらを取り囲む木々の緑が今は自由に色付き意外なほど個々に存在を主張する。
普段は対極にあるかのような人工物と自然の奇跡的な競演は、冬を目前に一番の高まりをみせていた。



「ねえオスカル、陛下の宝物をなんとか取り返すことはできませんの?」

王妃に懇願されたオスカルは姿勢を正すとすぐさま部下に情報収集を命じ、盗賊の捕縛に全力を尽くすことを約束した。それにホッとした様子の王妃はようやく少し笑顔を見せたかと思うと今度は眉間にシワを寄せながら目の前の泉水をじっと見つめる。

「それにしても陛下の、というより・・・このベルサイユも随分と変わった趣味ですこと」

王妃の視線の先にある群像を見て、オスカルとジェローデルは目を見合わせふっと息をついた。

「庭園を眺めて歩くとき、一番に目に付く重要な場所に・・・よりによってこんな気味の悪い像を置かなくってもいいんじゃないかしら?これを作った人は一体何を考えていたのかしらね」


城館とアポロンの泉の中間に配された<ラトーヌの泉>は女神ラトーヌと幼い双子神の群像を円形に取り囲むようにして奇怪な生き物が配置された確かに不気味なムードが漂う特殊な泉だった。
遠く運河を越えて天をみつめるような仕草をした女神の足元には幼いアポロンとディアーヌがすがりつき、その周りには蛙と、蛙に変えられつつある人間の鉛像が多数配置されている。


「神話のことならわたくしも知っていてよ。横暴で不親切だったリュキアの農民は女神の怒りを買い、たちまち蛙に姿を変えられてしまった。子供の像の一人はアポロンね?・・・でも、ねぇオスカル、それがどうしてこの場所になくちゃいけないのかしら?」

長いこと離宮に引き篭もっている間、オスカルと会話する時間は極々限られていたので今はこのようなひと時が新鮮で、とても貴重なもののように王妃には思われた。



オスカルは虹色の飛沫を上げる泉水を眩しげに眺めながら王妃に語りかける。


「それは・・・過去にフロンドの乱と呼ばれる貴族たちによる反乱が起きたのです」

「貴族たちが反乱を?」

「そうです。その反乱によって幼くいらしたルイ14世陛下とその母后はパリを追われ、その時の体験が後のベルサイユ遷都に繋がったと伺っております」

「まぁ・・・そうですの?それで?」
王妃の瞳が好奇心で輝いた。

「反乱軍は蜂起した当初優勢だったものの内部分裂などにより次第に勢いを失くし、やがて国王軍によって完全に鎮圧されました。その際に貴族勢力を徹底的に打倒したことにより、その後政治の舞台でルイ14世陛下はただおひとり、絶対の権力をふるわれる事となったのです」

目を丸くして話を聞く王妃の姿にオスカルは少し口調を柔らかく改めてから、こう続けた。

「この泉はルイ14世陛下のその時の記憶を形として残されたものだと伝え聞いております。つまりは・・・我々貴族に対する戒めという意味で。幼いアポロンはルイ14世陛下ご自身でラトーヌの像は母后、そして周りにおりますのが貴族・・・王権に逆らう者は蛙にしてしまうぞ。というわけです」

「なんということでしょう!この気持ちの悪い彫像たちにそんな意味があったなんて・・・今までちっとも知りませんでしたわ・・・!!」

珍しく知的好奇心を刺激され快くなったのか、王妃は上機嫌で泉水に近寄り、水に手を浸すと「冷たいわ!」と小さく叫んで飛びのいた。

周囲が和んだところでオスカルの後ろに控えていたジェローデルが続ける。

「ちょうど今、王后陛下がお立ちになられている場所が、ルイ14世陛下がベルサイユ案内記に此処だと定められた“眺望点”になります」

「眺望点・・・?」

「ベルサイユ宮を鑑賞する際に、ここへ立って見ると最も感銘を受ける事のできる場所、とでも申しましょうか・・・」


静かに流れる時間の中で、一同がラトーヌと同じ視点に立ち広大なベルサイユ庭園を見渡した。
深呼吸をする者、溜め息をつく者、瞬きすることすら忘れて景色に見入る者・・・・・

振り返れば眺めることが出来るあまりにも壮大な建造物と共に、ベルサイユは過去から未来へ、圧倒的な存在感を誇っていた。

 

「・・・素晴らしいわ・・・」

一言呟いた後、王妃は隣で小刻みに震える侍従長を見てクスッと笑った。

「素敵なお話を聞かせて下さってありがとう、オスカル、ジェローデル。わたくし、この泉をようやく好きになれそうだわ。さっ、これ以上ここへ居たら侍従長が風邪で寝込んでしまうことになりそうね?じゃあオスカル、また」



情けなくくしゃみを連発する侍従長と取巻きの貴婦人たちを連れて王妃が去るとジェローデルが呟いた。

「本当に黒い騎士の仕業なんでしょうか・・・」

「・・・陛下の置物か」

「あれは陛下の寝室に保管されていたのです。近くには純金製の調度品だってあったはず。恐れ多くも陛下の私室に侵入してまで、真っ先に奪おうと思うようなものでしょうか?」

「・・・“太陽神”を狙って来るとは・・・とんでもない奴だな」

 


搾り出すように呟いたオスカルの言葉に身を正したジェローデルはラトーヌの泉の向こうに見えるアポロンの戦車の泉水を暫し見つめた。



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美しい女性の体に変わり果てた蛙の顔。

醜い水棲動物に姿を変えられた農民たちが断末魔の叫びを上げるよう口を開いて虚空を見つめる。
進行する己の体の変化をもう止めることが出来ないと知った時の女の気持ちはいかばかりであったろう。
あるいは、すっかり変身を遂げ蛙そのものとなり果てた農民たちは水飛沫の中で案外満足して暮らしたのではなかろうか・・・?

昨日までの自分を忘れて。人として関わった隣人の姿を忘れて。


強烈に胸に引っかかるものを感じるも、私は思考を閉じた。
自分と、最も信頼する者の中にある闇に、気付きたくはない・・・と弱気な心が叫んだ。





「見事なものだ」

直ぐ後ろで声がして我に返る。
振り返るとジェローデルは息を殺すようにして運河の遥か向こうを見つめていた。


「わざわざ案内図まで作って、ルイ14世陛下はベルサイユに多くの民衆を招き入れ、この景色を見せたのです。自らがこの世の中心であることを知らしめる為に」

ジェローデルは遠い目をしながら微かに口元を綻ばせ、私に語りかける。


私は光明の源。
最も誉れある天体も、私の周りに美しい軌道を描いており、
その輝きと尊厳も、彼らを照らす私の光だけによっているのだ。


「かつて流行った宮廷劇の詩句ですよ。ルイ14世が太陽。その他の惑星は宮廷貴族。
自らを太陽だなどと・・・一体どんな心臓をしていたのかと訝しく感じた時もありましたが、今は素直に思います。ルイ14世は偉大な人物であり、何より・・・此処は美しい」




“眺望点”に立った二人は砦を守る先頭指揮官。

理屈ではない心からの感動が胸に込み上げたとみえて珍しく饒舌になるジェローデル。
彼を見て、私は突然、今いる場所の無限の価値に気付かされた。


「ベルサイユは文化と科学と技術振興そのものか・・・。
無駄な戦争を繰り返し各地を要塞化した挙句、幾多の攻防戦・防衛戦に備えた土木工事で国土を穴だらけにするよりも、ベルサイユ造営のために掛けた費用と労力には意味がある。
我々が死んだ後も、この場所に立つ者が途絶えることはないだろう。ベルサイユなくしてフランスはフランスではないのだと、心からそう思える日が、きっと来るのであろうな・・・・・・・」


宮殿を彩る勇ましき彫像群のような端正な横顔でジェローデルが深く頷いた。



だが・・・あの向こうには何があるのだろう?


運河の果て、更に遠く地平線に溶けてゆく樹木の向こうに、本当の世界はあるのかもしれない。


幼い双子神を必死に守りながらその果てを仰ぎ見る女神の姿がふと憂いに沈んだ母上のか弱き姿と重なり、どうしようもなく私の心はざわめいた・・・。

 






第27話「たとえ光を失うとも・・・」~緩流~



傷にさわらぬようにと御者がだいぶ気を使ってくれたので、パリへつく頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。
車輪の音が見当違いに大きく響くその街並みは、冬の冷気の中でいつになく重く沈んでいる。

タンプル街か・・・この辺りは久し振りだ・・・・・

不景気のせいばかりではあるまい。ここのような貧民層がひしめく場所は昔からそうだった。日当たりの悪い路地などは昼間でも夕暮れ時のように薄暗く、治安も悪けりゃ疫病の類もあっという間に流行して人々から夢や希望を奪う。パリのいたるところに似たような所はあるが、此処には思い出がある分、余計に空気が重い。
どんな努力をしたとて決して這い上がれない高い壁に囲まれたような・・・ある種“牢獄”のような場所だ。

こんなところに知り合いが住んでいるのか・・・?

貴族の囲われ者が暮らすのにタンプル街というのは合点がいかない。
もっともあいつは女のようだから、男の俺が単純に思い浮かべる理由ではないんだろう。
しかし・・・どんな事情があるにせよ、若い娘を囲っておくのにこの区域は適当とは思えない。



近衛連隊長の屋敷からパリまでの道中。
・・・こんなにゆっくりと流れる時を過ごしたのはいつ以来だろう?
気が付けば何かに追われるように家を飛び出し、志半ばで心が折れたわけではないが、いつしか犯罪組織の一員となった。自分のやって来た事を姑息だとは思わない。が、意味のある行動だったとも言えず。ただ・・・変わりゆく時代の流れは期待するほど敏速ではなく、澱んだ川を眺めて悠長に構えていられるだけの余裕も忍耐も、俺には無かったということだ。

もっと、もっと・・・急流を、激流を・・・!!
飢えながら長過ぎる一日を過ごす民衆は、時代にそれを望んでいる。

・・・・・そう思っていた。

 


馬車の中で、俺は久し振りに静かに流れる時を感じた。
これまでの自分は何だったのか?考える機会を与えてくれたのがあの女だという事実に若干の反感を覚えているところが、まだ内省しきれていないな、と我ながら思う。
が、しかし・・・もしこの怪我を負っていなければ、俺は何処まで道を外した事だろう?

・・・俺のしたことは決して間違いではない。

だがこんな事をして、最終的に得られたのものは“己を振り返れ”という・・・後悔にも似た自己嫌悪の思いだけだった。

「なんてことだ・・・・・」

自嘲気味に笑っていると、ようやく馬車が止まった。



「馬車が入れるのはここまでです。あとは狭い路地になりますので、降りて歩いて貰います」

ランタンの明かりが眩しくて御者の顔が霞んだが、どうやら外に出てもいいらしい。
外へ出て深呼吸をし、冷たい外気を思いっきり吸い込んだところでやっと夢から完全に覚めたような気持ちになった。

不審な動きがないかどうかを気にして暫く訝しげに俺を見ていた御者が、逃走の危険性がない事を確認した後ゆっくりと歩き出し、こっちだと手招きをする。

「やれやれ・・・本気でタンプル街に知り合いがいるんだな・・・」

ぼそりと呟き、歩き始めたところで・・・明かりに目が慣れたのか暗がりに若い女がいる事が分かった。
こっちへ近付いて来る足取りは別段警戒している風でもなく、こんな時刻に急いでいる様子でもない。まとった安物のショールがかえって寒々しい印象だったが、次第にハッキリしてくる娘はなかなか毅然としていて、美しかった。

ああ・・・この娘が謎の囲われ者か。


新聞記者の癖と言えばそれまでだが・・・なんでも根掘り葉掘り訊けばいいってものではない。ましてや相手は女性・・・いや、『女性同士』の関係だからこそ、尋ねても問題はない・・・のだろうか?いや、しかし・・・・・『ジャンヌ・バロア回想録』を鵜呑みにしたとすれば、この娘は近衛連隊長の愛人という可能性だってあるわけだ。

俺が今考えなくてもいいような事に頭を悩ませ立ち尽くしてる間に、目の前までやって来た娘は御者と一言二言言葉を交わし、布製の袋を何やら大事そうに受け取った後、今度は俺の目を真っ直ぐに見つめて・・・「ロザリーです。どうぞよろしく」と会釈をした。



      
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4日目の朝。
思ったよりも日当たりの良かった部屋には、冬の朝だというのに東の空から早くも暖かい光が届いていた。
暖かい印象は日当たりのせいだけではなく、微かにだが今朝は人の声がする・・・・・そういうところから来ているものかもしれない。
寝台から身を起こし上着を引っ掛けただけのだらしない格好のまま隣の部屋を覗くと、仲のよい二人の女性の姿があった。


「まぁ、ずいぶんと早起きなんですね。ベルナールさん、今日こそみんな一緒に、朝食を食べましょう」

俺に気付いたロザリーが、振り返ってパンを入れた籠をコトンと食卓テーブルの上に置き、微笑んでみせる。


ここへ来て、彼女たちと朝の挨拶を交わすのは初めてだった。どうやら今日は市場の仕事が休みらしい。普段は早朝というか、冬場はまだ深夜にあたるような時刻に家を出て行くので、この数日間ここへやって来た詳しい事情を俺は話せないままでいた。だが、一方で、“聞きだそうとしない”彼女たちに甘えている自分が居る事にも気付く。
朝から晩まで忙しそうにしている彼女たちだったが、話をする機会が全くなかったかと言えばそうではなく、決定的な部分を告白する事を俺は先延ばしにしていた。現に、今朝も他愛も無い会話で朝食の時間を無為に過ごしてしまった。
・・・どうも、切り出すタイミングというのが、解らない・・・



「今日はとっても暖かいわ・・・よかったらちょっと散歩に行きません?ずっと部屋の中に籠もっているより、その方が気分転換になるわ」


身の置きどころがなく、かといって何かを手伝わせてくれと願い出ようにもどうにも使い物にならない体だったので、正直「外に出よう」という誘いは有り難かった。
ロザリーは何処から出して来たものか男物の外套を手にして、同居人の女性に声をかけると「さ、行きましょう」と俺の腕を取った。



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「・・・これは誰の・・・?」

外に出て、すっと肩にかけられた外套は真新しく、貧しい庶民の家にあるにしては仕立ての良い物のように見えた。まだ会っていないだけで、あの家には男の住人も居るのだろうか?俺は・・・何も知らせていないし、また何も知らされていないのだ。
大の男が突然転がり込んで来たことによって、実際問題彼女たちはどれだけ迷惑していることだろう。もちろん・・・受けた恩をそのままにするつもりはないが、傷が癒えるまで厄介になれば相当な出費を強いる事になる。
この間までの“黒い騎士”が今日は手負いの体を引きずって、善良な市民に迷惑をかけながら、みじめに匿われてるんだからな・・・情けないもんだ・・・・・・・


「ご心配なさらないで。オスカル様からお金を戴いてます」


考えている事を見透かされていたようで、・・・驚いた。


「貴方の傷が癒えるまで、面倒をみてやって欲しいと・・・事情があってお屋敷ではそれが難しいのだと、10日程前オスカル様は直接此処までいらして、私とおばさんに頭を下げられました」

あの女は確か「手紙を書いておいた」と言っていたが・・・そうではないのか?


「オスカル様は私の命の恩人です。その方からお願いされた事をお断りできるはずはありません。それに・・・オスカル様がお話にならない事を、私から詮索するつもりもありません。でも・・・考えれば考える程、気にかかります。貴方が今着ている服はオスカル様から戴いたお金で買いました。暖炉の薪も、今朝食べたパンも、スープに入れたお肉も野菜も・・・全部オスカル様が用意して下さったものです。・・・何故ですか?・・・オスカル様は自分が誤って負傷させてしまったと仰ってました・・・でも、それは嘘です。私には分かります。オスカル様は誤って貴方を負傷などさせていない。どちらかと言えば・・・貴方は命を助けられた。違いますか?私のように、貴方もオスカル様に助けて貰ったんでしょう・・・?」

「・・・・・・・・・・」

「ベルナール・シャトレ。私、貴方を知っています。10年以上も前ですけど・・・母さんが貴族の馬車に轢き殺された時に、貴方にはお世話になりました」


「・・・何から先に驚いていいか・・・・・君があの時の・・・?あれから、どうしていた?」


「オスカル様と出逢って、お屋敷に引き取って戴いて、身も心も救われました」


「何故もとの貧しい生活に戻ったんだ・・・?」


「パリの暮らしが好きなんです。どんなに貧しくても、貴族社会の息苦しさよりはこっちの方がいい。オスカル様とお別れするのは辛かったけど・・・お傍に居たら私ってば、どんどんあの方に甘えてしまう・・・だから、決意しなきゃ駄目だって思ったの」


「命の恩人・・・・・・」


「貴方、何をしたの?」


「・・・あの女の親父から銃200丁を奪い、あの女の従僕の目を潰し、あの女を5日間監禁した・・・」


ロザリーの顔色がさっと変わったかと思うと、すかさず彼女から発せられる深い絶望感が辺りをどんよりと包む感覚に襲われた。そのまま、どのくらい無言でいた事だろう。最初に口を開いたのは又もロザリーだった。


「黒い騎士なんか・・・ちっとも英雄なんかじゃないわね。殺されないで今ここにこうして居る事が不思議なくらいだわ。・・・オスカル様が今頃どんな思いでいるか・・・・・憎いわ。貴方のことが物凄く!!」

怒声は真正面から、俺の胸に突き刺さった。
ロザリーの瞳に燃える怒りの炎は・・・あの時と同じだ。


・・・こんな運命って、あるだろうか・・・。



あの時、俺は随分と気楽な立場だった・・・正義感を振りかざし貴族の馬車を止めたが、結局何が出来たというわけじゃない。当事者じゃなかったから、あれが精一杯だった。ひとりぼっちになった君を、引き止める事すらできなかった。

あれから10余年・・・今は傍観者でいる事すら許されない。

この娘の怒りは真っ直ぐに・・・俺に向かって、突き刺さる。

家族を殺された彼女に同情した俺は・・・年月を経て、今度は彼女の恩人を殺すところだったというわけか?

なんの因果であろうか・・・神は俺のした事を否定し、決して許さないと【罪人】の烙印を押す。
ロザリー・・・怒りに燃えた君の大きな瞳に、どうにか鼓動する俺の心臓は、今にも焼き尽くされそうだ。

間一髪、難を逃れた心臓が、今にも焼き尽くされそうだ・・・・・・




「アンドレは・・・アンドレは・・・?無事でいるの・・・・・?」

怒り狂った瞳に、涙が混じった。
・・・こんな、こんな複雑な女の表情は見たことが無い。俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。

「アンドレ・・・・・・・黒髪の男か?生きてはいる・・・」


「オスカル様は私が母の仇を討てるよう、根気よく訓練して下さいました。アンドレも・・・アンドレだって・・・・・ベルナールさん、私が母の仇をとったとお思いですか?オスカル様が、私に本当に仇をとらせたとお思いですか?何も知らない貴方に言っても無駄でしょうけど、私はオスカル様とアンドレに“憎しみを乗り越える”という事を、教えて貰ったんだと思っています。人を憎むのは簡単な事です。それに、憎しみの渦中にいる人を炊きつけたり、同情したり・・・そんな事はたやすい事なんです!誰にだって出来ます!でも・・・あんな風に出来る方は、きっといません。「許せ」と言うのではなく、あの時オスカル様は「私のために生きろ」と仰って下さった。仇をとって、人生を終わりにするのではなく・・・一緒に生きて希望をみつけよう、私がきっと探し出してやるって・・・・・オスカル様は、そういう方なんです。貴方に分かりますか・・・!?」

「・・・・・・・」


「・・・アンドレは、大丈夫・・・オスカル様の為に、きっと大丈夫・・・」


「え?」


「とにかく、貴方は・・・生かされている事に感謝することね!」


       

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春はまだ遠いが、ふと見渡したセーヌの流れはいつになく穏やかで、こうやって移りゆく季節もあったのだと・・・何故か遠い昔、少年の日々を思い出した。


転換の時はもうすぐだ。


この先、時代の流れはセーヌほど悠長ではないだろう。
それでもこんな風景を、思わぬ展開から生まれた余暇に眺めて・・・

忘れかけていた何かを想い、春を待つ。明るい陽射しの春を・・・待つ。







第28話「アンドレ 青いレモン」~想い~



・・・後悔なんかしていない。
もう、限界だった・・・・・俺もおまえも・・・。

          
     


夜中だというのに“RES ECURIES”は相変わらずの賑わいをみせていた。

いつの頃からか、この店には有名無名を問わず革命家を志す若者が集まるようになり、昼も夜も客足が途絶える事がない。首飾り事件の折には堕落したベルサイユの実態を声高に言及し、無知な民衆を扇動するかのようなパフォーマンスに出るサディスティックな人間も多く居たものだ。


・・・何が分かる・・・?
何が分かるって言うんだ?そいつらに、ベルサイユの一体何が分かる?



何倍目かのグラスを空にしながら、男はぼんやり思考を巡らせる。

黒い騎士事件、まぁ・・・あんな形ではあったが少しは民衆の鬱積した思いが発散された出来事ではあったろう。知ったかぶりの偽善者が街中でそれらしい事を叫んでは人々の怒りを煽っていた悲惨な日々。だが、そういう場面は最近少しだけだが落ち着いたように思える。

生死不明でぱったりと姿を消した黒い騎士。
彼への失望とそれでもわずかに残った淡い期待。そういうものが未だパリの街には見え隠れしていて・・・一応“真実”を知る俺としては、なんだか妙な気分だ。


空になったグラスでなんとなくトントントンとテーブルを叩きリズムを取りながら、男は深い溜め息をついた。

黒い騎士か・・・・・・・。
奴と関わった出来事が随分と昔の事に思える。

あれ以来、俺の人生は一転したか・・・?それとも何も変わっちゃいないか?

まただ・・・左目が焼け付くように痛い。
役に立たなくなった眼球が、燃え尽きてすっかり消滅しちまって、それで意識がなくなって、体もみんな消えちまって・・・そうすれば少しはスッキリするだろうか?

手酌で再度グラスを満たし、強めのブランデーを一気にあおりながらカウンターに突っ伏す。
朦朧となる視界とは裏腹にやけに冴える自分の耳に男は殆ど困惑しながら消え入りそうな声で呟いた。

「なんだよ・・・今夜も眠れないのか・・・」



      


「アンドレ・・・?アンドレじゃないの?」

聞き覚えのある声だった。

「やだっ!驚いた!!・・・ちょっとあんた、ねぇ・・・どうしちゃったのよ・・・?」

気力を振り絞って・・・なんて大袈裟だけど、見上げてみるとちょっとばかり懐かしい女が立っていた。見えるより先に、隣に来た時に、匂いで分かった。


「なに・・・?変装中か何かなの?もしかして誰かにつけられてるとか?・・・ねぇ、本当にあんた、此処で何してるの?」


じわじわと笑いが込み上げて来て、吹き出した。
久し振りに会って彼女のこの遠慮の無さぶりが、ちょっとだけ清々しかった。
君こそ、どうして此処にいるんだ?と訊きたかったが・・・初めて彼女と出会った場所も確かこの店だ。

この時刻のパリは、案外狭いもんだな・・・。



「よく俺って気付いたね、ポーラ」


眉間に皺を寄せていた女の顔がぱっと明るくなった。

「気付くでしょう?情けないこの背中。だらしなく酔っ払ってカウンターで潰れる後姿。どう見てもアンドレじゃない。・・・目をどうかしたの・・・?なんだか、荒れた海賊みたいな風貌になっちゃってるわよ?」

カウンターにもたれ掛かかって伸びかけた髭をバツが悪そうに撫でる男を覗き込みながら女は続けた。

「髪、切ったの?あたし、会えない間、思ってた事があるのよ・・・あの有名人、もしかして、あんたなんじゃないかって・・・」

店内の様子を気にしながら、ちょっと目をひそめ小声で尋ねる女の仕草は・・・全然雰囲気が異なるも不思議と愛しい人のそれと重なって、おかげで半分以上酔いが醒めてしまった。

「街中に貼ってある似顔絵、なんとなく似てると思って・・・そうしたら今のあんた、本当にそっくりだわ」

好奇心に満ちた視線を注がれ、やれやれ・・・そろそろ目を逸らそうかと思った矢先「大変なことがあったのね・・・」とポーラが両手で顔を覆い、涙を零した。


「とんでもなく無茶な真似をしたんでしょ・・・?失くしたのが片目だけで、よかったのよね・・・?」

涙声で呟いたポーラの震える小さな肩を見て、俺は初めて・・・アルコール以外の何かに救われた気がした。


「ああ・・・よかったんだ。失くしたものは片目だけ・・・助かったよ・・・本当に」


一瞬顔を上げたポーラがだいぶ複雑そうな表情で俺を見ると、さっきよりもっと小さな声で「よかったわね・・・」と呟いた。

       


隣に座ったポーラは涙でちょっとだけ赤く腫れた目をぱちぱちと何度も瞬きして「ご主人様と何かあったの?」と訊いてきた。
何故こんな質問が飛び出すのだろうかと不思議に思っていると、「ご主人様に何かして来たの・・・?」と若干質問の内容を変えてきたので・・・「は?」と、思わず狼狽してしまった。


「・・・何かいい事、ないかしらねー・・・」

頬杖をついてカウンターの灯りを見つめるポーラのマイペースぶりに翻弄されかけながら、再びグラスをあおってみる。
・・・具体的に、彼女にオスカルの話をしたことは一度もなかったが、女性と言うのは男が想像するよりずっと敏感なものなのかもしれず・・・すると酔った弾みで断片的に漏らしてきた俺の紆余曲折物語なんかを万が一覚えていられたとすると、いま俺は「ご主人様に何かして来た風体」に見えるらしい。


「あのね、そうなんじゃないかなぁ~と思って。そろそろそんな展開、あってもいいんじゃないかぁ~と思っちゃって。・・・よく分からないけど・・・」

俺の心が読めるのか、頬杖をついたままチラリと俺を見て、ポーラはクスッと笑った。


「でも、大変よね。私たちが考えるよりずっと大きな障害がありそう。あ・・・知ってる?今パリで流行ってる小説。タイトル・・・なんだったかしら?貴族と平民の恋人たちの話なのよ。それでは結局二人は不幸な結末を迎えるらしいけど、何が不幸で何が幸福かなんて他人にははかれないものよね。生まれて来て心から好きだって思える人に巡り逢えただけで、それだけで十分幸せって人も・・・世の中にはいるんじゃないかしら。その中でもし・・・相手の人を独り占めしたいとかってなれれば、それは一歩も二歩も進んだ恋なんだと思うわ!だって、まったく可能性がない事を人は行動に移したりはしないもの。何か出来たのなら続きが必ずあるわ。・・・生きてる限り、前進しないとね!」


思いがけず得られた激励の言葉にどう返していいか迷ったが、口をついて出てきたのは、たいした台詞じゃあなかった・・・


「そんな・・・そんな前向きでいていいあれじゃないんだ。俺のした事は・・・・・」


「ちょっと、もっと自信持ちなさいよ。しでかした事はもぅ仕方ないじゃない。それに、悔やんでるわけじゃないくせに。って、何があったのか私は知りませんけど。・・・ひとつ言える事はね、好きなら好きでいた年数分、ビシッとしてなきゃ駄目よ!男も女も、好きなら好きなぶん堂々としてなきゃ。特に男はね、ビシッとしなきゃ駄目なのよ!!」


何故か怒り出したポーラは俺の手からグラスをもぎ取ると一気に中身を飲み干した。

目から鱗、ではないけれど・・・俺は今日一晩で二度、彼女に救われたような気がした・・・。



「ポーラ・・・今夜、君に会えて、よかったよ」


「そう?・・・よかったわね!!」

        
      



RES ECURIESの帰り道。


もうすぐ夜明けを迎える空が薄いピンク色に染まり出す頃が、一日で一番寒いの。
・・・別に、送って貰わないでも大丈夫よ。私には私だけが感じられる幸せがあれば、それでいいわ。

可能性のない事を人は言ったりやったりはしないけど・・・想うことくらいはするのよね。



今夜、もし一緒に過ごせていたら・・・・・
アンドレ、私の恋も・・・一歩前に進めていたのかもしれないわ・・・・・






第28話「アンドレ 青いレモン」~破片~



扉を開けると・・・途端に懐かしい匂いと乾いた空気に包まれる。
みつめた視線の先にぼんやりと映った赤や黄色の光の中に、遠く子供の声がした。


・・・・・あれは、私だ。

       



何年間も使われていない部屋の床には埃が何層にも積もって、まるで淡雪の結晶のように輝いて見えた。
久しぶりに感じる人の気配に、部屋からは緊張と安堵、その両方の空気が静かに立ち上る。長い間止まったままの時間が再び動き出したかのような微かな生命力すら感じ、思わず私は息を呑んだ。

いつのまにか大人になって、忘れてしまったものがたくさんあるような気がして・・・20年ぶりにこの扉を開けた。


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「うわー・・・床が光ってるっ!・・・なんてキレイなんだろう・・・不思議の間だから、きっと此処には魔法使いがいるんだ!!」

「オスカル、上を見てごらんよ。あれはガラスかな・・・光があれを通ってここへ来るから、床に届く頃には赤や黄色に光って見えるんだよ。魔法使いじゃなくて残念だけど、すごくキレイだね」


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縁が欠け、危ないからと物置の高台に置きやられてしまったステンドグラスが、天窓から差し込む光に透けて七色に輝いている。

あの頃のまま・・・ステンドグラスは太陽光を様々な姿に変え、床に不思議な幾何学模様を描き出していた。

アンドレがやって来て、毎日一緒に遊ぶようになってから、私たちはいろいろな所に忍び込んでは一人前の探検家気取りで悦に入っていたものだ。
そして、この部屋は一番身近で、一番多くの謎に包まれた、もっとも“不思議”な空間だった。


「それにしても、20年そのままとはな・・・」 
どうしても声に出して言いたくて、“現代”の私が独り呟いた。


実用品としての役割はとっくに終えているのだが、何故かここに運び込まれる物たちはその後の人生が長い。
どれもこれもばあやの「捨てるには惜しい」の判断のもとにこの部屋へやって来て、この部屋で熟成され、やがて骨董品めいた風貌を身につけるようになる。
幼かった私には此処は全体が宝箱のような存在だった。

そう・・・蝶番が壊れてこの部屋の住人となった戸棚の引き出しから、錆びたナイフを見つけた事があったっけ。
長年手入れされずにいた刃がすっかり変色して赤黒くなっていたが、持ち手の部分の装飾がなかなか精巧で、それで廃棄処分の難を逃れたのであろう。
もしかしたら、壊れた戸棚の引き出しに忘れられたままここへ運び込まれてしまったのかもしれない。そうだとしたら大変に運の悪いやつだが、彼はめでたく私に発見され、私の宝物となり、以後数年とてもとても大切にした記憶があるから・・・それほど酷い人生でもあるまい。

彼は、赤いナイフは今、庭の樫の木の下で本格的に眠っているはずだ。


「今度、掘りおこしてみるか・・・・・」 

二言目の呟き声には、きっと、やや感傷的な響きがあったと思う。





5歳だった私は忍び込んだ部屋の床の色がキラキラと輝いているのが気になって、一人だったら飽きるまでそのままずっと床にしゃがみ込んで、光の様子を観察していたに違いない。だが、ひとつ年上のアンドレは直ぐその理由に気が付き、頭上のステンドグラスを指さした。

アンドレの指の先を見ようと慌てて立ち上がり手を伸ばした私の足元で、積もった埃が美しい光の粉になって目の高さまで舞い上がり、私たちは揃って歓声を上げた。
自分では気付けなかった現象に目を見張り、神秘的なものの前でまるで宝石のようにキラキラと浮遊する埃の様子に、ただ驚いた。
子供心にものを見る時の視点というか・・・知らないでいた側面に信じられないような驚きが潜んでいることに興奮し、素直に感動した。


こっそり大人に隠れていつも二人、たいていの感動は・・・アンドレと共にあった。




基本的に、私はあの頃と何も変わっていないのかもしれない。

飽きもせず、光の幾何学模様を眺めてもう何時間こうしているだろう?
動けないでいる理由くらいは・・・自分で分かる。だが、どうすればいいのかは分からない。独りで悩むのはとうの昔に慣れたつもりでいた。しかし、これ程強い孤独感を覚えたのは・・・生まれて初めてだった。
そしてどんなに悩んだところで、もう一緒にいるべきではない。

それが私の中にある唯一の結論だった。


いつも共にいて、感情のすべてを共有して、大人になった。
アンドレが傍にいる事がどんな時でも当たり前だった。
そう、いつしか彼は・・・自分を映す鏡になっていた。
彼を見れば不思議な程に自分の心が理解できた。二人で過ごして、嬉しい時はよかった。楽しい時はよかった・・・でも、苦しい時はどうだ?痛みで耐えられない時はどうだ?・・・恋している時はどうだ?私は・・・一体、どうすればよかった・・・?

だから、私はわざと鈍感を装ったのだ。
気付かないふりをして月日を過ごすうち、本当に気付かない人間になってしまっていたのだろうか?自分が耐える事が精一杯でアンドレから目を逸らし続けていたのだろうか?直視すれば張り詰めているものが粉々に砕けてしまいそうに思えて・・・まともに鏡を見れないでいたのだろうか?


思えば私は、フェルゼンと同じ事を、アンドレにしていた。
フェルゼンを想っていた月日と同じ時間、私は・・・私とまったく同じ苦しみをアンドレに与え続けてしまっていた。
あれほど残酷だと恨んだ運命を、何も気付かないふりをして彼に・・・!
・・・だが、私はフェルゼンではない・・・私とアンドレの関係は、そんなものではない。
だからこそ・・・・・・・耐え難い・・・・・・。

これまで、こんなにも近くにいたのだから、無神経な私の依存心が彼にとってはどれだけの苦痛であったか、分かるだろう・・・?

いい加減に目を覚ませっ!!オスカル!!



ふいに抱き締められた時の感覚がよみがえり、激しく身体が疼いた。
次の瞬間、全身が硬直し瞬きすらできない。
乾いた眼球に涙が溢れて、やがてそれは嗚咽になった。

意識が遠のく・・・・・・・
遠く離れた場所に、もうひとりの私が居た。


どんなに耳を塞いでも聴こえる、聴こえる・・・
それは紛れもなく女の泣き声だった。
取り乱した女の泣き声が、虹色の光の中に哀しく響いていた。




今こそ、鏡が砕ける時だ・・・・・・・・


誰かに支えられ生きて行くなんて幻想だと思う。
少なくとも・・・私にはその資格も価値もない。
粉々になったガラスの破片が突き刺さったまま、独りになれ。
今日から死ぬまで永遠に。

孤独が彼に対するせめてもの・・・贖罪だ。



バランスを欠いて放置されたままの椅子をガタッと引き寄せ踏み台にすると、オスカルは壊れたステンドグラスを倒すようにして置き直した。
何十年ぶりかで色を失った床が微かな余韻を残して鈍く軋む音がした。



人の気配が消え、やがて静寂が戻った部屋の中。
色を失い褪せた床板に憐れな涙の後が広がって、乾いて・・・なくなった。