stories①

アニばらワイド劇場
(第1話~第4話)





第1話「オスカル!バラの運命」 ~出逢い~



最近にわかに活気付いてきたベルサイユ宮殿での人気の話題。
それは王太子ルイオーギュストと異国の王女マリーアントワネットの本格的な婚礼儀式に寄せたあれこれと、それに伴い新たに編成される事になるであろう近衛連隊の麗しき青年将校のことであった。その中でも、とりわけ貴婦人たちの好奇の的とされたのがオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
代々王家の軍隊を統率してきた将軍家の末娘であり、現在近衛隊長の地位に最も近いと目される人物である。女でありながら男として育てられたという前代未聞の触れ込みは、瞬く間に宮殿中を駆け巡り、そのずば抜けた前評判だけですっかり貴族たちの心を虜にしてしまっていた。
もっとも、実際に接見した者が数少ないだけに期待感だけが膨らみ、面白半分の暇人どもによって噂は日々エスカレートするという状態だったのだが・・・


私は元来このような俗物の噂話には興味も関心もないが、ただひとつ、一部の権力者の個人的思惑で軍規が乱される事だけには不快感を禁じえない。

今朝も従者が聞きたくも無い話題を嬉々として提供してくれた。
フランスの歴史始まって以来、はじめて陸軍士官学校に女が入学。
そんな事があり得るのかと尋ねたら、前例がない上、まったく想定外の事なので逆に拒む理由もなかったのだと言う。
馬鹿な・・・そんなわけがあるか?

ジャルジェ将軍の権力をもってすれば大抵の事には優遇措置を取れる。士官学校に娘を捩じ込む事などたいした事ではないのだろう。それにこれは世間に対して一応の体裁を取り繕う為のもので、実際のところは何から何まで将軍ご自身が教え、鍛えたのだ。士官学校入学はあくまで世間体。よってオスカル・フランソワの真の実力を知る者はまだ世の中に存在しない。
しかし、さしあたって不快感の出どころはそこではない。
私が不愉快だと思うのは将来の勇士たちが訓練や学問よりも些か猥褻な関心事に振り回され、軍人にあるまじき低俗な噂が神聖であるべき士官学校から漏れ聞こえるようになった・・・その事にある。



従者というのは常に自分と共にあるようでいて、不思議と異界に通じる窓にも思える。
一言でいうとゴシップの情報源と言えた。

「士官学校の少年兵たちは訓練に纏わる事以外でも・・・つまりはジャルジェ家のご令嬢をめぐって、その・・・凌ぎを削っているそうです」

・・・しかし私はゴシップなどには無関心である。
そんな馬鹿げた話を聞かされたところで普通ならば何も返す言葉は無いのだが・・・
まぁ今回ばかりは正直、多少の興味は持ち合わせているので話に乗ってやるとする。

「恋文の類を学問の場に持ち込み女の気を引こうと躍起になるなど、嘆かわしい限りだが、考えようによってはそれも役に立つ時が来る。近衛に配属されさえすれば、時間と金を持て余し、日々腐るだけが仕事のマダムたちのご機嫌取りも役目のうち。とうとう我がフランスは軍人養成の場さえベルサイユ化したようだな」

私の癖であるところのこの自虐的な物言いを従者はよく理解したらしい。
少し会話が途切れたので、こちらから尋ねてやる。

「ジャルジェ将軍以外の上層部の反応はどうなんだ?」

「陸軍総司令官殿が入学の許可を出されましたので、多少なりともお噂はお耳に入っておりましょう。引きつったお顔で青春を謳歌する若者らしい行動で微笑ましいとおっしゃっておられました。まぁ、本心ではないでしょう!」

「ブイエ閣下も容易には諦め切れない親友の心中を察して仕方の無い措置なのか?・・・しかし、青春を謳歌とは?」

「皮肉でしょう?今まであるはずのなかった光景に、単に呆れてらっしゃるのでは?」

「・・・・?」

「思い余った者の中には、乱闘まではいきませんが諍いを越えた場面も見られるようですね」

「ジャルジェ将軍の令嬢をめぐって乱闘が起きるのか!?」

「いえ、喧嘩をなさるのはオスカル殿ご自身でして・・・」

「ほう・・・!威勢の良さはまこと男に劣らずか。まったく何て事だ・・・」

「噂ではそれはそれは美しいお方だそうです。オスカル殿は・・・好奇心旺盛な若者たちの目の保養以上の存在になってしまうのはもぅ、無理からぬ事のようですよ」


剣を振り回し、学問の場で男と乱闘騒ぎを起こす女が美しいとは・・・、どいつもこいつもどうかしている。これも間近に控えたマリーアントワネット輿入れで浮き足立ち、国中がのぼせ上がっているからに他ならない。


オスカル・フランソワ・・・
近衛隊長の地位を欲しているのは、もちろん将軍であろう。本来ならば至極当然、それはジャルジェ家の役目であったはずだ。しかし・・・あの家にもう跡継ぎは居ない。


『後継者に娘を!!』


将軍の悪足掻きには同情こそするものの、とてもまともとは思えない。

私の元には一ヶ月程前に『オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ並びにヴィクトール・クレマン・ド・ジェロー-デル大尉、近衛隊長の位をかけて両者勝負せよ』との国王からの命令が届いていた。そしてそれは三日後に迫っている。
勝負自体には何の不安もないが、決戦が近づくにつれ憂鬱になる・・・


従者との途切れた会話をそのままにして、男はその場を後にした。



     


気持ちよく晴れた、まさに行楽日和と呼ぶにふさわしい天候だった。
暇な貴族たちは間抜け面をひっ下げて練兵場に詰め掛けているのだろう。

今日の試合は余興に過ぎない。
馬鹿げた話だ。名誉ある軍人として、自分は将軍家に華を持たせる気など毛頭ないし、ましてや相手は女。わざと負けてやる必要などあるはずもない。

男はこの期に及んでまだ国王の意図する事が理解できないでいた。

ジャルジェ家に恥をかかすのが目的で勝負させるつもりなのか?
それとも、無謀なほどに強引な将軍を少々手荒ではあるが諭す意味でのものなのか?
いずれにせよ、衆人環視の中での一戦。この意味不明な余興は実に後味の悪いものとなるだろう。

気乗りしないのは男が少なからずジャルジェの名に畏敬の念を抱いていたからだった。
その家名に泥を塗るような役目を言い渡された事に対しての反発心と不快感。
端正な顔を一層曇らせ、ジェローデルは深い溜息をついた。


そんな矢先、唐突に桜の木が現れた。
そこだけがまるで別世界であるかのように。
幻想的ともいえる薄ピンク色の花々は見事な程に陽に透けて、輝くようだ・・・そして、女がひとりその幹に寄りかかっていた。

ただの女でないのは一目で分かったが、名乗るのを聞いて男の胸は急速に高鳴り、騒ぎ立つ。
こんな時でなければ生まれて初めて異性を「美しい」と感じた自分の記念日として、このまま暫しの間 降り注ぐ桜花に酔っていたいところだった。

噂というのも、時には信じる価値があるらしい。


ところが、柄にも無い感情は次の瞬間、微かな苛立ちと大いなる探求心に変わる。


なんだ、この女は・・・?
挑発するにしても何と言うストレートな・・・なめられているのか?それとも対戦相手についてまったくの無知なのか・・・ただの虚勢なのか・・・

元より余興には興味はない。考えてみればこの女も相当に気の毒だ。跡継ぎを諦めきれない将軍にどれだけ無茶な生活を強いられて来たのだろう・・・・・・
だがそれも今日までだ。私の手で少なくとも、公式の場に軍服を着て立たされるという異常な事態からは救ってやれる。

試合開始予定時刻が迫っていたが、女を諭すくらいの時間はあるだろう。
男は考え、言葉を選びながら馬を降りようとした。が・・・次の瞬間・・・


くっ・・・!この女!ひとを驚かすことこの上ない!気が付けば目の前に剣を突きつけている。
これも噂通りか・・・?言葉で諭すつもりだったが、どうやら話の通じる相手ではなさそうだ。
不本意だが仕方ない・・・大声をあげて動揺している従者がひどく目障りだが、短時間でケリは付く。


剣先が擦り合わされ、一瞬の後に炸裂する緊張と動揺・・・・・・・・!

それは練達された武人の剣さばきではなかった。
予想を遥かに上回る俊敏な動作は先の動きが全く読めず、攻めているはずがいつの間にかかわされ形勢は危うい。
勝負開始から数十秒・・・負担がかかるのはこちらばかりの気がする。まるで空を斬るようだ。それでも瞬時にすきをついたはずだった。しかしどう逆転されたものか胴体をかすめられたらしい。

・・・軍服が、破かれたのか・・・?


敵の刃が身に到達し、傷付けられるのは初めての事だった。



湧き出る恐怖心と額に噴き出した汗の感覚。
すこぶる不快でどうしようもない危機的状況ながら、男にはそれらが新鮮でもあった。


!?・・・動きを読まれている・・・?
しかも、この女、明らかに手加減をして・・・・・・・


本気を出さない女を相手に自分のこの余裕のなさはどうだろう?
いや、女ではなかった。
ジャルジェ家の後継者、将軍の血筋、そう・・・先程女は言い放ったではないか!
『武人』の名誉の為の闘いなのだと。

瞬時に相手の能力を判断しなければならない軍人の感知機能は高確率で「敗北」を告げていた。
男は不甲斐ない思案を巡らす自分にゾッとしながらも「今ならまだ、この歴然たる力の差をなんとか誤魔化す事ができるだろうか?」そんな愚か極まりない保身の道さえ模索する。
しかし、本気を出さぬまま手負いにした軍人に「ありがとう。自分はもう満足だ」と微笑みすら浮かべる女に・・・引けるはずが無い。右手にはまだ闘える剣が握られている。


・・・しかしどうだ・・・女はわざわざ勝負を長引かせ、私に微かな希望を持たせる事などはしなかった。

反撃の余地無し。

右手から完全にはらわれた剣は、宙に鋭い半円を描きながら背後の地面に突き刺さる。
その無情な音を聞きながら無様な声をあげる自分を不思議な程に客観視できている事に気が付いて、血の気が引いた。

「震撼するとはこんな感じか・・・」



憶えのない感覚に晒されながら、驚く程急速に、男は目の前の女に敬意を抱き始めていた。



     


オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
素晴らしい剣の使い手がいたものだ!


初めて知った挫折の味は、思ったほど苦くない。
むしろ私の価値観は、今日を限りに一変するだろう。


数分前まで猜疑心と言う名のドロドロとした不快感に苛まれていたジェローデルの全身は、勝負に負け何故か今、恍惚とした明るい感覚で満たされつつあった。



麗人が去った後には春風に舞った桜花が可憐な余韻を残し、こころなしか清らな残り香まで漂うようだ。




『私は大勢の前で貴方に恥をかかせたくない』

麗人の言葉を思い出した男の唇に複雑な笑みが浮かぶ。





俺は、救われたのだ。

もし国王の御前で、野次馬どもが群がる練兵場で、先程のように負けていたら・・・自分は軍人として傷付かずにいられただろうか?
互いの《名誉》を守る為、こんな人気のない場所で挑んで来た女。





ジェローデルは髪や肩に舞い落ちた花びらを軽く払って、馬に跨った。

ベルサイユへ!!



自分を遥かに凌ぐ逸材を、つまらない罪で窮地に立たすわけにはいかなかった。

憂鬱な感情は解消され、麗人の忠実な腹心として最初の行いをするべく国王の元へ馬を駆る。

自らの辞退と「オスカル・フランソワこそ隊長の地位にふさわしい」
ただ、その一言を伝える為に。







第1話「オスカル!バラの運命 ~ふたり~



的中率、今のところは80%くらいだ。

オスカルの考えている事は手に取るように分かるという自負がある。
初めて出逢ったのはあいつが五歳で俺が六歳の・・・そう、あれも春だった。ちょうど今みたいに桜が満開で・・・見た事もない立派なお屋敷に緊張でガチガチになる俺の目の前に、金髪のお嬢様が降って来た。

木から足を滑らせ枝に引っ掛かったオスカルは、泣くなら分かるが・・・怒鳴ってた。

「自分でどうにかできたんだ!助けになんか来るな!格好悪いだろう!!」とかなんとか叫んで、皆を困らせてたんだ。あの時、俺は久し振りに笑ったよ。緊張なんて一瞬で吹き飛んだ。オスカルの怒鳴り声が、何故かとても懐かしかった。

あいつはいつも登る時の事しか考えない。普通は降りる時の足場を考えながら登るだろ?なのに、この木だと決めたら後先考えずにどんどん登っちまう。で、降りられなくなってから騒ぎ出すんだから、なんかあいつって計画性の無い猫みたいだ!
まぁ・・・驚異的な身軽さだけがあいつの取り柄だから、転落したところでいつもかすり傷、けろっとしてるんだが、それでも俺は何度青くなったか分からない。



今日あいつがしでかした事、・・どうなるんだろうか?


普段着のまま剣だけ持って、馬を飛ばして・・・ベルサイユから迎えの使者が来た時にはとっくにオスカルは消えていた。
屋敷のあの緊張感、おばあちゃんの慌てっぷり・・・どうやら待ち伏せは成功したらしい。
おまえの為に青くなるのはすっかり慣れたけど、かすり傷じゃ済まない時もある。


一体どうするつもりだ?世の中には一人で解決できない問題がある。分かってるだろうが・・・


でも、オスカルが悪いんじゃない。・・・あいつはひとつも、悪くない。


    

 


ここへ来るとオスカルの匂いがする。

子供の頃から何かやらかして直ぐに帰りづらい時には、この場所で時間を潰す。
今だって・・・ほらな?本当に一人になりたいわけじゃないんだ。
いつだって俺の見える場所に、オスカルは居る。



「勝ったのか?」

「・・・・・・」

まるで聞こえない振りをして寝転んでやがる。

「楽勝か?」

「・・・・・・」

涼しい顔をして、何を考えているのかな・・・

「女に打ち負かされるなんてなぁ!・・・俺以外のやつはどう思うんだろうな?なぁ?オスカル」

口元にちょっと動きがあった。

「近衛隊長オスカル・フランソワ殿!早速ですが、国王の命令に背いた罰で・・・今日の晩飯抜きの刑に処す!じゃあ済まないだろうな。・・・オスカル、当分の間 飯は食えんぞ。そのうえ暫くは外出禁止だ。いや待てよ、よく考えたら近衛隊長の話もパァだな・・・じゃあ、おまえはどうなるんだ?明日からは方向転換して貴婦人になる為の猛特訓開始か?だとしたら、おばあちゃんは喜ぶだろうなぁー・・・・・・・・」

「勘当される方がまだマシだ!」

長い睫毛が動いて、ようやく碧い瞳があらわれた。。


「お!やっと起きたか!?ひとりで喋るのは疲れるんだぜ」

おどけてみせたが、オスカルの機嫌は良くないらしい。

「貴婦人なんて真っ平だ!」

うんうん、そりゃそうだろうな。
・・・おまえの気がちょっとでも紛れそうな話題はあったかな?
一瞬思案し、これを試してみる。

「いやぁ、・・それならまだいい方かもしれん。最悪、磔獄門って事にでもなったら、俺は・・・・俺は・・・・・」

「なんだ、それは?」

オスカルのやつ、聞き慣れない言葉にちょっと興味があるようだ。

「磔獄門か?おまえが士官学校で暴れまくってる間、俺は図書館に行き、静かに本を読む。この間ひどいのがあった。・・・東洋にはとんでもなく恐ろしい刑罰があるらしい」

「・・・どんな風にだ?」

よしよし、半身を起こして覗き込んで来たぞ・・・

「残念だが・・・それは罪人のおまえには教えられん。とてもじゃないが、気の毒だ・・・」

「ふふふ・・・よく分からんが、何が起きてもそのハリツケなんとかよりは優しそうだな」

最後には、笑い出した。



起き上がったオスカルは軽く伸びをした後、今度は少し困ったような顔をして俺の名前を呼んだ。
・・・「すまない」って声が聞こえた気がした・・・。



いつものように戯れあう二頭の馬たちが、夕暮れ時の風に吹かれ、時折気持ちよさそうな嘶き声を上げている。
白馬の方を引き寄せて、オスカルもまたいつものように笑う。
・・・いや、やはりいつもとは違うな。とりあえず、父上に会ったら歯でも食いしばるか!そんな事でも考えてるらしいオスカル・・・ああ、やっぱり気の毒だ!!



そして、真剣な話・・・これだけは断言できる。

オスカルはいつだって、悪くない。




     



ひとたび立ち止まって足元を見てしまえば・・・再び走り出すのに一体どれ程のエネルギーがいる事だろう。


揺るぎない男の姿をして目の前に立ったオスカルに、息を呑んだ。
覚悟を決めたその姿に屋敷中の者が驚き、目を見張り・・胸を熱くした瞬間だったろう。


今までで一番大きな波がオスカルを飲み込もうとしている。
・・・おまえは運命を受け入れるのか?


『ふと、自分はどこへいこうとしているのかと思う。そんなことはないか・・・アンドレ』

オスカルの沈んだ横顔を思い出しズキッと胸が痛んだ。





選び取った人生がどんなに苛酷なものだろうと、きっと俺が支えてやる。
おまえがいつも光の中を歩けるよう・・・・・力の限り、俺が支えてやる。

受け入れた運命にまだ不安の中にいるはずのおまえの横顔が・・・
こんな時でも、とても優しく美しい。





満開の桜並木、溢れる光の中に吸い込まれるように散ってゆく花びらが、おまえの横顔に似て眩しく俺の肩に降りかかる。


「行くぞ、アンドレ」・・・おまえが俺の名を呼んだ。

そうだ、俺の居場所はここにある。



おまえが振り返った時、いつも傍にいられるよう、俺はこの先、永遠に光と共にある影になる。








第1話オスカル!バラの運命 ~白帝~



「おまえも、いつかは行ってしまうのかな・・・・・・」


うつむいたまま哀しそうに呟くオスカルの姿に胸が痛んだ。





ジャルジェ家にはお嬢様が6人。
いや・・・自分のことを“俺”とか言ってる末っ子はこの際 除外しよう。
ジャルジェ家にはお嬢様が5人。

読書家で穏やかな性格のオルタンス様。
ダンスが得意で快活なマルグリット様。
刺繍の腕前でおばあちゃんを唸らす器用なエレーヌ様。
美人でお洒落が大好きなジョセフィーヌ様。
そして、ほどほどにお転婆で歌のお上手なコンスタンス様。


俺ほど恵まれた境遇の召使もいないだろう!
甘いお菓子に華やかな香水の薫り、何処からともなく絶えず聞こえて来る賑やかなお喋りと楽し気な笑い声 ―――
何より、このお屋敷に引き取られてから今日まで、女性に優しくされなかった日など無いのだから!!!


とにかく、此処では女性の存在感というものが凄かった。

おばあちゃんを筆頭に、この屋敷では女性の召使いばかりが働いていた。
お嬢様5人のお世話をする為にそれは当然のことだろうと思う。が、そのせいか僅かに存在する男の使用人は執事さんでさえも かなり遠慮がちにしていた。
とにかく圧倒的女性優位な世界に旦那様ですら肩身の狭そうなご様子でいるジャルジェ家であったから。気後れして哀れなくらいに、殆ど笑ってしまうくらいに、たとえそれが厩であったとしても堂々としている男なんかは誰一人としていなかった。


そんな女の館とも言えるジャルジェ家で、留守がちな旦那様に代わって一番に威張っているのはなんと6人目の、一応 これもお嬢様・・・・・

負けず嫌いで口が悪くてダンスと刺繍が苦手で読書はするけど気が付けばそれを枕に外でだって寝てしまう。 作法やお洒落なんかには興味なし。女性陣の陰のボスであるおばあちゃんの小言や泣き言には一切耳を貸さず一般常識なんかはお構いなし。二言目にはお嬢様なんて失格で結構!と・・・ひたすら威勢のいいオスカル様。


そういうわけで、たった一人 例外はあれど、たくさんのお嬢様たちが暮らすジャルジェ家は、漂う匂い、聞こえる音、すべてが柔らかなバラ色に包まれた夢のような空間・・・だったんだ。数年前までは。



桜が満開の季節だった。
4番目のお嬢様 ジョセフィーヌ様と5番目のお嬢様 コンスタンス様が立て続けに嫁がれたことでジャルジェ家の春は終焉を迎えた。
そして「一番お美しいオスカル様がまだいらっしゃるよ!」 そう声を荒げるおばあちゃんをよそに、数少ない男の使用人は皆肩を落とし、殺風景な広間を眺めては寂寥の溜息をついたのだった。


    
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お屋敷にひとり取り残されたオスカルの身の上を思う時、俺は随分と複雑な気分になった。

5人の娘を良家にそれぞれ嫁がせると安堵の表情を浮かべながらも寂しげであった旦那様。それが夏頃からだろうか。王太子殿下のご結婚が正式に決まり、宮廷が慌ただしくなって来た頃から目に見えて生き生きと・・・何かに憑りつかれたかのような眼差しでオスカルを見つめることが多くなっていた。

お嬢様たちが天下を取っていた頃とはうって変わって頻繁にお帰りになるようになった旦那様。その関心事と言えば末娘をいかにして次期当主に相応しい人物に育てるか、その一点であるかのように思われた。
哀れ オスカル!彼女は大いなるその期待と束縛から逃れんとて朝から馬を駆り、出来る限り外で過ごそうと健気な努力をしている。だが、木陰で昼寝でもしていればなんとか時間をやり過ごせた季節は過ぎ、今はもう・・・・・・・・。


      

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見上げる木々は赤や黄色に色づき、射し込む夕日も色とりどりの葉に透けて黄金色に眩く輝いていた。

オスカルの髪が風に揺れてキラキラと煌めく。
寄り掛かった銀杏の葉とこの髪と・・・どっちが綺麗な色をしているかな?
そんなことをぼんやり考えながら俺は耳を澄ました。



「おまえも、いつかは行ってしまうのかな・・・・・・」

胸がチクッと痛んだ。オスカル・・・・・・寂しいのか?

「そうしたら・・・俺は一人でどうやって時間を潰せばいいんだろう」

・・・違う・・・。オスカル、そこは、違うだろ・・・・・?


こんなにも美しく理想的な風景の中、どういうわけか恋に落ちてしまった運命の相手。分かってはいても その言葉遣いに突っ込まないではいられない・・・いや、この際そんなことはどうだっていい。
そうなんだ・・・思い切った選択だと、俺自身動揺を隠せない時がある。

でも、前世の記憶とでも言おうか。この感覚を知っていた。


・・・過去にそういう本を読んだのだろうか?或いは そういう歌を聞いたのだろうか?
そうじゃない ――― 自分が生まれるよりも前、遥か遠くの記憶に・・・オスカルはいた。

馬鹿馬鹿しいと笑われるのは分かっている。だから、この話は勿論していない。これから先も するつもりはない。だけど確かに俺は、この感覚を知っている。




「・・・聞いているのか?おい。聞こえているなら返事くらいしろ」

「・・・・・・・・・・・」

「おい・・・アンドレ。目の前で無視するとは一体どういう ――― 」

過去の記憶とズレがあるのかオスカルの声が急に小さく・・・やがて聞こえなくなった。
脳がきっと修正しているのだろうな。混乱という程でもないが、多少は戸惑っているらしい。



それで、さっきの話の続きだ。
オスカルを除くお嬢様がすべて居なくなってしまったお屋敷は一気に華やかさを失った。
そうだな・・・あれは、実際の暦よりも半年早いスピードで秋を迎えた。そんな感じの春だった。

それからもおばあちゃんはせっせと花を飾り、いつ日の目を見るか分からないドレスを縫い、オスカルに辛抱強く花嫁修業のなんたるかを語って聞かせてはいるけれど・・・そんな事はしたって無駄なんだ。

俺には分かる。
そんな事はまだ・・・ずっと先の話だ・・・・・・。



考え事をしているうち、気が付けばオスカルの唇が何やら不平不満を露にしている。
どうしたんだ?何を怒っているんだ?



お屋敷に漂う甘やかな香水の薫りは日ごとに薄らいで、やがて消えてしまった。

おまえは自分でそれを付けようとはしないけれど、大切にクローゼットの中にしまってあるんだろう?
オスカルの持ち物で唯一女性らしいものと言えば・・・レースのハンカチ。一番仲の良かったコンスタンス様からのプレゼントだ。真っ白な花嫁衣裳のような可憐なハンカチに姉さん達が残していった香水を一振りして、それを長いこと眺めている。芝生に寝っ転がりながら・・・。行儀が悪いぞ。オスカル・・・。

ああ、香水は確かにいい匂いがするけれど、匂いは記憶と最も密接に結びついている感覚だというけれど・・・・・ならば俺は、知っている。

香水なんか付けなくても、オスカルはいい匂いがした。


出逢った時にすぐに気が付いた。
オスカルは 光の薫りを纏っていた。



  



「アンドレ!いい加減にしろ・・・俺を馬鹿にするのも ―――」


激昂するオスカルの身体を押さえつけるようにアンドレは勢いよく銀杏の幹に手を付いた。

「なんだ?やるのか?」

「違う。・・・オスカル、どんな気分だ・・・?」

アンドレは幹に手を付いたままオスカルに迫り、ぐっと距離を縮めながら顔を覗き込んだ。

「どんな気分って・・・言ってるだろう!頭に来ている」

「違う。オスカル、ちゃんと俺を見ろ」

幹に寄りかかるように付いた手はそのままに、アンドレはもう片方の手でオスカルの顎をそっと持ち上げた。


「何か感じないか・・・?」

「また背が、伸びたみたいだな・・・・・」

「うん・・・他には?」

「たとえば?」

「息が苦しくならないか・・・?」

「なんだ、アンドレ・・・おまえ具合でも悪いのか?それならそうと・・・・・」

眉間に皺を寄せながら顔色を曇らせたオスカルが囁いた。

「だから違うんだよ!・・・胸が ときめかないか・・・?」

ぷっと吹き出すとオスカルは笑いながらアンドレの手を一気に払いのけた。

「どうして胸がときめかないといけないんだ?・・・頭は大丈夫か、アンドレ?」

「・・・そうか・・・」

落胆よりかは不思議そうな顔でオスカルを見つめるアンドレに、今度は心底心配そうな表情のオスカルが溜息交じりに呟いた。


「なんなんだ一体・・・どうしたんだ?最近、おかしいぞ」

「いや・・・・・クラクラッと、しなかったかな?」

「まったく」

オスカルは静かに首を横に振ると申し訳なさげにアンドレを見上げた。

「そっか・・・じゃ・・・また今度にしよう・・・・・・・・」

真剣なのか冗談なのかアンドレはクスクス笑うと調子っぱずれな口笛を吹きながら銀杏の葉をくるくると弄んだ。その態度に痺れを切らしたオスカルは飛び付くようにアンドレに迫ると額にぐっと掌を押し当てた。

「本当に、熱でもあるんじゃないのか?しっかりしてくれ、アンドレ!」




良かった。さっきまでの怒りは何処かへ吹き飛んだようだ。
オスカルは困ったような顔で俺を揺さぶっている・・・
心地よい振動の中、またしても俺は、熱い光の薫りに包まれた。



「くしょん・・・っ!」

オスカルが柄にもなく女の子らしいくしゃみをする。
陽がいっそう傾き先程までの汗ばむような空気が一転、冷たい木枯らしとなった。

「オスカル、どうしていつも上着を持たないんだ?」

「寒くなったら おまえのを借りればいいと思ってるからな」


やれやれ・・・たった一人残った大切なお嬢様に風邪を引かせるわけにはいかないな。
おばあちゃんにどんな目に合わされるか分からない!

脱いだ上着を肩にかけてやるとオスカルはニヤッと笑って呟いた。

「風邪を引いて熱でも出せば 俺も少しはクラクラッとするかもしれないが・・・あいにくだが、それは御免だ」

可愛くない。実に可愛くない言い方だ・・・!!!
風に吹かれてスースーする肌の感覚とあいまって、俺は急激に現実へと引き戻された。




春が過ぎて、夏も終わり、気が付けば二人は深い秋の中にいる。
鮮やかな瞬きのうち、何度も夢をみては醒め、やがて冬が来れば・・・・・・・・・・・・・


それは今よりもいっそう 光が恋しい季節だ ――――






第2話「舞え!オーストリアの蝶」 ~手紙~


親愛なるお母様
これは遠く離れたフランスの地から、マリーが最初に差し上げる手紙です。
もっとも、実際にお母様がこれを読まれることはありません。
心の中で・・・マリーはいつもお母様に語りかけます。

お母様とお別れしてすぐ・・・本当にすぐ・・・恐らくお母様が知ったら卒倒なさる程の振る舞いをマリーは致しました。・・・もうお耳に入ったでしょうか?それともマリーの巻き起こした騒動は永遠に隠されることになるのでしょうか?もちろん、わたくしは後の方を望みます!お母様の寿命を縮めたくはありませんもの。でも・・・お母様、わたくしはわたくしの我儘により、フランスの地に居るそれはそれは素晴らしい人物の活躍を目の当たりにする事が出来たのです!!
幼い頃に読んだ神話のニンフそのままの姿でわたくしを救い出したその人は・・・なんと若き近衛の隊長、この先、永遠にわたくしを守って下さる、わたくしだけの近衛の隊長だったのです。

女・・・なのですよ!その方はわたくしと同じ歳の凛々しく美しい・・・
女の方なのです!!

お母様、フランスは何もかもが驚きに満ち、ただただ目を見張ることで一日が過ぎてゆきます。誰もがわたくしに憧れ、誰もがわたくしを愛してくれる!!ベルサイユは素晴らしいところです。
近衛の隊長オスカル・フランソワはそんなわたくしが少し心配な様子ですけど。
・・・でも大丈夫!マリーは絶対に傷付いたりしません。
オスカル・フランソワが一番近くで守って下さるんですもの!

ああ・・・オスカル・・・!!なんて清らかで爽やかな、そしてほんの少しだけ冷たい響きが何度でも呼びかけたくなるお名前でしょう?
決めたのです。あなたはわたくしの一番のお友達。わたくしはあなたに守られ、あなたはわたくしに守られるのです!この先、ずっと・・・


お母様、フランスは、ベルサイユは素晴らしいところです!マリーは人々に愛され、きっと幸せな女王になれる事でしょう。
親愛なるお母様、マリーはいつもお母様のことを思います。お母様もマリーのことを思って下さい!!
心から愛を込めて・・・


                         マリー・アントワネット




 

第3話「ベルサイユに火花散る」 ~密談~


目の前に広がる風景。この世の美しきものを全て集めたかのような素晴らしい眺め、空気、匂い、音・・・ここでは降り注ぐ太陽の光ですら、どこか特別であるのだと錯覚させた。

ベルサイユ宮殿。
そこは栄華を極めるフランスブルボン王朝の心臓部であり、18世紀欧州絶対王制の象徴である。
その殆ど滑稽な程に美しく完璧な景色の中に、若き近衛隊士たちはいた。
警護の立場でいる以上、ベルサイユ宮殿の隅々まで完全に把握することは当然と言えたが、実際のところそれは不可能に近い難題だった。

「ベルサイユは生きて蠢く魔物である」 
ジェローデルが最初に告げた一言がオスカルにとっては鮮烈であり、表現の全てだったことは後々振り返ってみた時にも変わらない。
そのベルサイユを一同は眺め歩いていた。オリエンテーションとでも言うのだろう。格段初歩の段階でなくとも、こうして宮殿内をくまなく観察して歩く事は近衛の重大な任務のひとつと言えた。それに今日は蠢く魔物の正体について・・・それについては決して安易に言及できる事ではないにしろ、新任の隊長に伝えておくべき重要項目である事には違いない。

だが、それよりも先にこれを言わねばならない。
先日の花嫁引渡し殿での一件は新生近衛連隊のPRとしては恰好のものとなり、ベルサイユ中の話題をさらった。まさに間一髪のところオスカル隊長の活躍で最悪の事態を免れたのだから、実際これ以上の手柄はない。しかしこの出来事は事件性よりも、日々刺激を求め飢えたように生きる貴族たちを喜ばせる余興として受け入れられ、それゆえに隊長の存在は一気に宮殿内のアイドルにまで持ち上げられる事になったのだからたまらない。
低次元なベルサイユの様子には相変わらず気が滅入る。
しかし、これは浅はか極まりない俗物の感性での話であって、実際にはあの救出劇は・・・すんでのところでフランスそのものを救ったのだ。


副官の座に甘んじる事になった私に対して、当初は驚き戸惑い、一歩間違えれば同情ともとれる不愉快な視線を向けて来る輩がいた。
・・・それは分からないでもない。私が人々の目の前でハッキリと敗北したのなら簡単に納得できた事であろう。しかしながら、隊長との力の差を認識できたのは私のみ。普通に考えて女が近衛隊長という有り得ない結論には反発こそあれ簡単に納得などできるわけがない。だから私はそれなりの時間をかけて部下たちを説得するつもりでいたのだ。・・・それは言い過ぎだろうか?
少なくとも、隊長として職務に就くオスカル・フランソワをしばらくのあいだ観察すれば、隊員たちも理解するだろうと言う確信があった。別段【事件】など起こらずとも。

だが事は起こった。
私が何も発見できず、隊長が「女の気紛れ」で消えたのだと陰で毒づいていた時、とっくに彼女は異変に気付き、敵と対峙していたのだ。

結果、あっさりと隊員たちは隊長の実力を認める事となる。
不謹慎極まりない言い方だが、これで近衛隊の結束が固まったのだから怪我の功名と言えなくもない。隊長はその卓越したスタンド・プレーによって、見事なチームワークを生む事になったのだから、たいしたものだ。私ではまずできまい。
・・・女のする事だから、女がいち早く察知し救出できたのだろうか・・・?

明らかに理解の域を越えている。

女の脳は男のそれとは構造が異なるのか?

・・・ああ、こんな事を考えている私は、やはり不謹慎なのである。



いま目の前に居る隊長はそんな捕物劇を繰り広げられるような豪快な人物には思えない。極端に凛々しいのでとても貴婦人のようには見えないが・・・美しい女性である。
純白の軍服に真紅の襷、近衛隊長の真新しい勲章は、すべてが絵空事のように眩しく私の目に照り映える。

・・・・・見とれている場合でなないのだ・・・。





「隊長、壮観でございましょう?ベルサイユは人々を虜にする。ひたすら権力に固執する者たちが力の全てを結集して造った楽園です。見事な庭園を隔てて広大な運河を眺める時、人は世界を制したかのような錯覚に捕らわれる。ここは退屈な人間たちが日々快楽のみを追求しようとするところです」

あえて大仰な言い方で様子を見ると、隊長は特に気にさわった感じもなく、目線を運河に向けたまま微かに唇を動かした。「世界を制したかのような・・・」と見てとれた。

「ベルサイユは生きて蠢く魔物です。美しい景色に酔って油断していれば、あっという間に足をすくわれる。その恐怖ゆえ人々は日々おっべかを使い保身の道だけを考え私腹を肥やす事のみに専念する」

これは免疫なのだ。どのような実力者であろうとオスカル・フランソワはまだベルサイユを知らない。少々どぎついくらいの物言いがちょうどいいのだ。そう信じて話を続ける。

「我々近衛隊の役割はベルサイユを警護する事。貴族たちの安寧とした暮らしを保護する事。しかし、その任務は決して貴族全体の為ではありません」

ゆっくりと振り返り、視線を広大な庭園から豪奢な王宮に向けた。世界を制する幻想に捕らわれた最高権力者たちが棲むところ。それは圧倒的な力で人々を拘束し、自由を奪う、時代の象徴であった。

「我々が身を呈して守るべきは国王と王室です。ところが大貴族たちの中には少なからずそれに反感を持ち、失脚を願い、我が身の台頭を目論む者がおります。そういう者たちは手段を選ばない。口封じの為には何のためらいもなく人の命を奪うような者がひしめいております」

花嫁誘拐を企てたのは王太子の従兄弟、オルレアン公爵である。しかしこれは決して明白には出来ない事柄であり、このように闇から闇へ葬られる事件はベルサイユでは後を絶たない。

「すんでのところで危機回避さえできれば、事件は次から次へと揉み消され、火種は絶える事なくくすぶっている・・・」

「敵は外から来るわけではない。王室は常に内部からこそ狙われていると言う事か?」

またも視線は王宮に向けたまま、一通りの理解を示したらしい隊長はなおも続ける。

「権力者の失脚を願うのはその地位に次ぐ立場にいる者。オルレアン公などはその最たる人物だ」

・・・隊長にはもっと単刀直入な言い方で良かったのだろうか?そのアッサリとした口振りに拍子抜けする事このうえない。同時に自分のもったいぶった言い回しが非常に後悔された。



この金髪の美しい武人を隊長と呼んでまだ日が浅いが、言葉より先に行動に移る性格はだいぶ読めてきた。・・・心配なのはそこである。

「隊長、これから先、単独行動は控えて下さい。万が一の事態が起こってからでは遅いので」

「万が一を阻止せねばならない立場の者が自分の万が一を恐れていてどうする?」

これだ。隊長はこのてのやり取りでは、まず絶対に人の言うことを聞かない。気のせいか若干面白がっていそうな面持ちで、碧い瞳をこちらに向ける。


・・・・・・この人の傍で、自分こそが注意深くいればいいのだ。


議論とまでいかない会話の結論は、ハッキリしていた。私の中で。
そして恐らく、この平民の従僕の中で。


常に数歩下がったところで静かに存在する男、アンドレ・グランディエは平民の分際でありながら物怖じしない態度で新隊長に見事に追従していた。

何故一介の従僕がこうまで特別待遇を許され、隊長と可能な限り行動を共にできるのか?
当初疑問視していた部分はこの短期間のうちに私にも理解できるようになっている。
彼には彼女の動きが読めるらしい。少なくとも私の倍・・・いや、比較にならないレベルで隊長の行動を把握しているようだ。

なんなのだ?忌々しい・・・補佐役は私なんだぞ。

あまつさえ私には嫉妬とも取れる感情が芽生え出す・・・・副官の勲章を付けているのは私だ。

たかが平民の従僕相手に!・・・さざ波立つこの気持ちは一体なんだ?子供か、私は?

慌てて我に返り、人にはこんな青臭い感覚もあるのだなとおかしくなる。
新隊長を迎え、華々しくも平坦だった自分の人生が少しづつ起伏を帯びて来る。
あれだけ空虚に思われたベルサイユの景色が思わぬ時にひどく輝かしいものに思える・・・




ふと見ると、隊長はまた女の気紛れとも言える仕草で踵を返し、壮大に広がった庭園へと独り歩き出していた。




初夏の風が爽やかに庭園を通り抜け、近衛隊士の密談も一応の収束を見せる頃・・・

ベルサイユに巣くう魔物が動き出す。
そして繁栄の陰で又も、鎌首をもたげて瞬きをする微かな音がした。







第4話「バラと酒とたくらみと・・・」 ~傍観者~


たとえば、ただの傍観者でいられたら・・・オスカルは悩まずにいられただろうか?

ベルサイユはおよそ『生きていくこと』とは無関係な価値観に支配された異空間である。
貴族たちは決して一様ではない。同列である事にひたすら安堵感を覚える者。少しでも権力に秀でようと躍起になる者。騙され利用され消えていく者。

陰謀の陰で無残に殺された者たちの目には、最期の瞬間・・・栄華の中の暗闇が垣間見えただろうか?

マリー・アントワネットを王太子妃に迎え、いっそう華やぎを増したベルサイユが上辺の幸福感に沸き立っていたのも束の間、宮廷を二分する権力争いは日に日に勢いを増し、今では国王自らが争いに介入して来る始末だ。
愛人対孫の嫁・・・こんな事でようやく結ばれたフランスとオーストリアの同盟が破れかねないなんて、まったくどうかしている。国政を司ると言う感覚がベルサイユには明らかに欠けているのではないか?
二人の女の勢力争いに今や完全に巻き込まれた形のオスカルは、王室批判とも言えるこんな話を俺にしながら表情を曇らせる。犠牲者が出てしまった今となっては「何を大袈裟な・・・!」とも言ってられない状況か・・・。

「アンドレ、おまえのおかげで母上だけは最悪の事態を免れた」と、弱々しいながらも久し振りに笑顔を見せたオスカル。だが、あの毒ワインの一件で、あいつは常に自分が危機に対して切迫した状態である事を知った。守るべき王太子妃は、その純粋過ぎる高貴さゆえに国を危機に晒し、その侍女に召抱えられた奥様にはいわれなき危険が及ぶ。常に近衛隊長として、王族の側近として、判断を迫られるオスカルはどんなにか複雑だろう。

「宮廷全体の治安を考えるならば、安易に国王の愛人を断罪するわけにはいかない」とおまえは言う。
対峙するべき敵は依然として闇の中だ・・・・・


ひたすら権力に執着しようとする成り上がり者の心と、生まれながらの王位継承者の持つ険しいまでのプライド。
いずれも邪な影に利用されるならば・・・もはやそこに優劣などはあるまい。

・・・外敵ならば、排除する術はあろう。だが、ひとの心に棲むそれは・・・。


 

身分のない者なら、ただ生きる事に専念すればいい。
・・・貴族とは不自由な者だな・・・

傍観者でいるしかない俺。

この目にはオスカル・・・何が正しいのか、割り切れない思いの中で悩む一握りの貴族たちの姿も映ってるよ。
・・・おまえは貴族なのだという認識が俺の中で徐々に強くなる一方で、何故かおまえだけが貴族じゃない。当たり前の貴族であったなら簡単にやり過ごせるであろう出来事がおまえの上には重く圧し掛かる・・・・

平民の俺だから。一層見える事があるのかもしれないな・・・。