stories⑤

アニばらワイド劇場
(第17話~第20話)





第17話「今、めぐり逢いの時」~独り言~



「・・・貴族だそうだ」

「はっ?」

「だから、彼女・・・本物の貴族の娘なんだそうだ」

「誰が?」

「どういう事情があるにせよ、一度関わった以上、これは運命だ。全力で彼女の母親を探し出してやりたい・・・」

「ちょっと待て。一体誰の話をしているんだ?」

「不思議なものだ。ひとの出逢いとはどこでどのようにして決められるものなのだろうか・・・」

「おい。おまえ・・・ひとの話聞いてるか?」

「アンドレ、おまえ、ロザリーを見ていてどう思う?」

「どうって?毎日健気に頑張ってるよ。若さゆえの一途さか・・・敵討ちよりも情熱を傾けるべきものは世の中にたくさんあると思うがな・・・気持ちは分かる。彼女の中でハッキリと決着がつくまでは先へ進めない。プライドって言うのかな・・・いや、違うのかもしれんが、ロザリーには時々厳しい程の誇り高さを感じるよ。親しみやすさと近寄りがたさが同居している。本当に、不思議な子だ」

「ロザリーは貴族の娘なんだそうだ」

「あのなぁ、オスカル・・・・・俺も実は、貴族の息子だ」




噛み合わない会話の中で今日はじめて、オスカルと視線が絡んだ。

窓辺に立ち、いつものように柔らかい陽射しを浴びながら紅茶を飲む姿が・・・そんな何気ない姿が綺麗だと思う。振り向いたオスカルの髪が陽に透けて、普段以上にキラキラと眩しく輝いて見える。

おまえの知らない、おまえの癖だ。
こうやって一時の余暇を窓辺で過ごす時、おまえは俺と会話しているつもりなんだろうが・・・それは殆ど独り言。俺の相槌なんてあってもなくても、結局ひとりで考え込んじまう。


俺を見ろよ。
俺の話を聞けよ、オスカル。

だから変化球だ。おまえがこっちを見てくれるように。



「俺も・・・貴族なんだ。知らなかっただろ?」

訝しげにこちらを覗き込みながら、オスカルは更に少し眉間にしわを寄せてみせた。


「何が言いたい?」

「ロザリーはいい子だ。俺も大好きだよ。暗い過去は忘れて、幸せになって欲しいと思う。だが彼女が背負うものすべてを引き受けてやるのは難しい。・・・だろ?・・・貴族だって、本人が言ったのか?」

「・・・・・」

「何故、簡単に信じるんだ?」

「疑う気になれない。今までの彼女の境遇を思うと・・・貴族の娘であって欲しいと思う。ロザリーがどう切り出したかじゃない・・・私が。ロザリーが貴族であれば、と思った」

「貴族なら新しい道が拓けるからか?」


オスカルの持つカップとソーサーがカチンと小さな音をたてた。
それから絡み合っていた視線を窓辺に戻して、微妙に深呼吸をしてみせる。
おまえの動揺した仕草に、俺はちょっとばかり心が痛んだ。



「貴族だったらどうだ・・ではなく・・・ただ、母親を探してやりたい」


そうだ、その通りだ。敵討ちと比べて、なんとも前向きな手助けじゃないか!?
それに・・・ロザリーは本当に貴族なんだろう。そういうことって・・・あるんだな。



「よしっ!ありったけの名簿をかき集めるぞ!まずは正攻法だ。マルティーヌ・ガブリエル・・・あっさり発見できれば、話はそれからだ」

俺の提案にオスカルは安堵の表情を浮かべ、ティースプーンで紅茶をリズミカルにかき回す。


「ああ・・・それから、オスカル、妙なこと言って悪かった。俺が貴族っていうのは・・・残念ながら嘘だ」


もう一度、カップとソーサーが小さな音をたてた。
今度は楽しげに・・・カチカチカチと磁器の触れ合う音がして、オスカルの困ったような笑い声と重なり合う。




俺を見ろよ、オスカル。
俺の話を聞けよ、・・・な?オスカル!!





 

第18話「突然、イカルスのように」~微熱~



樹木たちが紅葉したベルサイユ庭園をいつになく穏やかな気持ちで歩いている自分が新鮮だった。

半月程前暴漢に襲われ負った傷は、自分が思うより深刻なものだったようだ。
なので主治医に告げられた絶対安静期間の間は、最低限の動作以外ほとんどの身動きを禁じられ、このままでは寝台と一体化してしまうのではないか?と不安になるような・・・私自身にとっては怪我の痛みよりよほど堪える自宅療養生活を強いられてしまった。
とにかく厳しい監視の元に過ごした二週間。
ぱっと目を盗んだ隙にさっさっと出仕してしまった方がどんなにか身体の為になる・・・と思わないでもなかったが、そんなことをすれば後でどんなめに遭わされるか分からない。

そんな事を言ってはいけないな・・・
寝ても覚めてもお説教・・・ではなく心配をして、とにかく朝から晩までつきっきり同然で、私を構ってくれる存在は素直に有り難かった。
今回のことで、この先100年分くらいの世話を一気に焼いて貰ったのではないだろうか?
久し振りに幼い頃を思い出し、あっちが痛い、こっちが痒いと嘆いてみた。

そうしてみせると・・・なんだかばあやは嬉しそうだったから。


怪我をして一週間が過ぎてもまだ自由に動かせて貰えなかったので「私を必要以上に病人扱いしてないか?」と訴えてみた。するとたちまちばあやには「ええ、ええ、私はずっー・・と、お嬢様には病人でいて戴きとうございます!その方が安心ですから!!」と怒鳴られてしまった。

実際、私は病人ではないし、この怪我だって自然にしていれば十分完治する程度のものだと思ったのだが・・・ばあやにはかなわない。自分の身が大変な状態にあることを、頼むからもう少し自覚して行動して欲しいと再び怒鳴られ、その後ばあやは激しく泣き出した。
「ご無事で良かった。ご無事で良かった・・・」と何度も繰り返しながら、ばあやはいつまでも泣いていた。


私は死んでいたかもしれないのだな。と、改めて自分の甘さに思い至り、背筋が冷たくなるのを感じた。
生きているから痛みがあるのだと・・・この老婆のうろたえぶりを決して大袈裟だと思わないで欲しいのだと・・・ばあやが泣きながら訴えるのを聞きながら、あと少しで失うかもしれなかった命の重さを考えた。


      


「四年前の・・・ちょうどこれくらいの時期だった」 隣りで懐かしい声が言う。

吹き抜ける風は涼やかという状態をとっくに通り越し、肌を撫でて行くのは冬の気配だ。
この間見上げた時よりずっと高くなった空から、真っ直ぐに降り注ぐ陽の光がとても貴重なもののように思え、思わず立ち止まる。


「覚えてるか?ちょうど紅葉の時期だった」


覚えている。四年前・・・
おまえも紅葉したのか?と言われ、一瞬なんのことかと思ったが・・・・・

不思議な男だ、フェルゼン・・・おまえの視点はいつも風変わりで、突然投げかけられる言葉のひとつひとつが妙に新鮮で、気が付けば交わす言葉すべてが、私にとっては忘れられない思い出となっている。


「あの木は相変わらずあそこで、ひとり佇んでいるんだろうなぁ」

「ああ、見事なくらいにひとり佇んでいるぞ。だいぶ見慣れたものの・・・やはり変わっている」

「おまえみたいにな、オスカル」


私を眺めて楽しげに目を細めるフェルゼンを見て、笑ってしまった。
ああ・・・これも四年前と一緒だ。
四年前と少しも変わらぬ風景の中に、同じく変わらない笑い声と、深い色をしたおまえの瞳。長かったような短かったような・・・意外な程の鮮明さで時間を遡る感覚に、いつしか私は引き込まれていた。



フェルゼンに命を救われて、私は今こうしていられる。

あの日以来、彼は度々屋敷を訪ねては私を見舞ってくれた。
ばあやなどは「命の恩人!!」と・・・これはさすがにオーバーだとは思うのだが、号泣しながら礼を述べたりするので彼もさぞ驚いたことだろう。それも訪問の度にだから。
私としては最近のばあやの涙もろさの方がよほど心配だ・・・。

ともかく、そのように少々度を越した対応にも怯むことなく、フェルゼンは数日間に渡って私の容体を気遣ってくれた。ばあやにしてみれば彼が毎回抱えて来る見事な花束も、熱烈歓迎の対象だったのだろう。
理由はどうあれ、《異性から花束を貰う私》という構図に、彼女はいたく感動したらしい。ロザリーがこっそり教えてくれた話だから私にはよく分からんが・・・とにかく、肝心のベルサイユに伺候する前に随分と気を使わせてしまったようで、正直心苦しい面もあったのだが・・・
フェルゼンは「何故かおまえと話している時が私にとって最も心安らげる時間なんだ」などと真顔で言うので困惑する。

・・・彼は今回フランスに何をしに来たのだ?
考えてみれば一番気にかかる部分だが、・・・触れてはいけないような気がして・・・磔のような状態で、ただ私は見舞われていた。




「あまり熱心に介護されたせいか、こころなしかやつれた顔をしている」

フェルゼンはまだ笑い続けている。

さて、どう答えようかと思案する間に木枯らしが足元に小さな渦を巻き、色づいた木の葉をくるくると舞い躍らせている。思わず私は視線を落とす・・・すると、すかさず屈んで美しく色付いた一枚のもみじをフェルゼンは拾ってみせた。

「こちらのもみじの傷付いた枝が、早く治りますように」
そう彼は呟き、包帯で巻いた私の腕にそっと紅い葉をのせ、微笑んだ。


秋の鮮やかな陽光に照らされた紅い葉の・・・紅い葉の色が眩しいくらいで、ふいにおかしなくらい胸が高鳴った。


何であったか・・・私は何の答えを探していた・・・?
フェルゼン、おまえに掛けるどんな言葉を探していた?




四年前と少しも変わらない・・・深い海のようなおまえの目を見て、私は私の中に・・・初めて微かな欲求が生まれる音を聴く。
今までとは違う世界が、一斉に何かを奏で始める予感に心が騒ぐ。


よく晴れた秋の空から降り注ぐ光の束は、油断しているとまるで真夏の熱線のようだ。


私は熱でもあるのだろうか?

絶対安静期間が過ぎ、久し振りに出仕したと言うのに・・・

ああ、私は熱でもあるのだろうか・・・・・・?






第19話「さよなら、妹よ!」~飛翔~




冷たく干乾びたものが手首に巻き付いて離れない。


痛い・・・痛い・・・!!
このままでは殺される。あの城の、薄暗い地下牢に閉じ込められて、私もきっと殺される。

重い扉、湿った空気、悲鳴が聞こえたもの・・・あそこへ行ったら、もう生きては戻れない。ドレスも髪の毛も腕も脚も胸も全部っ!!粉々に切り刻まれて、きっと私も殺される。

・・・悲鳴は誰があげていたの?私より先に閉じ込められ、犠牲になった女の子?
違う・・・悲鳴は私があげていた。私が必死の思いで叫んでいた・・・

だって・・・私は生きていたいから・・・・・



この人の目は私を見ていない。
あの城で、この人はずっと人形を抱えて暮らしているに違いない。
だって、この人の目は人間を見ていない。
痛いっ!!私は人形じゃないから、そんな風につかまれたら痛いのよ!!

そう・・・あんたが人形よ・・・腐ったガラス玉の目玉をぎょろぎょろさせて夜な夜な獲物を探して這いずり回る恐ろしい人形・・・!
子供の頃お父様の書斎で偶然見かけた本にあったわ・・・あんたは‘あれ’に似ている・・・
アイアン・メイデン。


初めてあんたを見た時、背筋が凍りついたわ・・・‘あれ’が私の目の前に現れた。
悪夢が・・・悪夢が現実となって私の前に現れた・・・。


お母様おかしいでしょ?アイアン・メイデンはマリア様のかたちをしているんですって。
マリア様が罪人を串刺しにして、ズタズタにして・・・殺してしまうんですって!!

書斎の‘アイアン・メイデン=鉄の処女’は毎晩私の夢に現れ、私を苦しめた・・・・・
でも、忘れられたのよ。悪夢はもう終わったはずだった。
それなのに!お母様・・・おかしいでしょ?

ねえ、私が何も知らないと思ってらっしゃる?公爵は処女が好きなのよ。あれ以来、何処に行っても私の周りは同じ話題!好奇の目でぎらぎらしながら絶え間なく喋り続ける人たちから、この先自分がどうなるか嫌という程聞かされたわっ!


ド・ギーシュ公爵・・・自分が‘アイアン・メイデン’のくせに処女が好きなんてね。
気味の悪い銅像のような姿、ドス黒い皮膚に薄ら笑いを浮かべた顔は、夢の中でぽっかりとお腹を開けて私を見下ろしていたアイアン・メイデン。


私は切り裂かれる・・・


・・・狂ってる!何もかも狂ってるわ!!
助けて・・・気持ち悪いから寄らないで・・・お願いだからこっちに来ないで!!




な・・・なにをしたの・・・?

ひざまずいた腐った目玉の男が、私の手をべろりと、舐めた・・・?

ねっとり生温い不快な感触が私の手をゆっくりと撫でて、同時に私の全身を厚い鳥肌が覆った。



もう駄目だ。私のこの手は、もう生きていられない。
誰かこの手を斬り落として下さい!!斬り落として・・・切り刻んで棄てて下さい!!

・・・ああ、そうか・・・あの城の女の子は、自分でバラバラになったのかも・・・ね。

嫌だ・・・怖い・・・怖い・・・怖い!!!

ここから逃げなきゃ・・・外へ出なきゃ。
お願い、誰か助けてっ!!


・・・・・・だって、だって、私は死にたくない・・・!!!



      


遠くへ逃げよう・・・誰も追いつけない遠いところへ。
お母様は・・・私がいなくなってちょっと困るわね・・・でも、もう私はここには居られない。

そうだ・・・オスカル様・・・あの方は私が居なくなることを、ほんの少しなら哀しんで下さるかしら・・・?

・・・私は?哀しくはありません。
だって、オスカル様の白いバラと一緒に行きますから。

怖いひとの居ない世界へ行って、新しい世界へ行って・・・自由になって・・・

私は幸せになります。





 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


錯乱状態にあったポリニャック夫人をようやく部屋へと帰し、我々近衛隊で一応の検死がとり行われる事となった。

時計の針は12時を回り、惨劇は既に昨日の出来事となった。が、しかし、静まり返る部屋の中で悲しみはいっそう深まり・・・受けた衝撃はむしろ時間と共により深々と、我々の心臓までえぐっていくかのような感覚に襲われる。


駆け付けた現場は正視に耐えない有様だった。

状況報告からしてシャルロット・ド・ポリニャック嬢は正常な精神状態を失くしていたのだと思われる。

何があったのか全身ズブ濡れの状態で、強風の中あろうことか足場のない塔にのぼり、白バラを高く掲げブツブツと何かを呟いているかのような仕草を見せた後、なんら躊躇する事なく頭部から真っ逆さまに飛び降りた。
・・・どう考えてもまともではない。


心神喪失状態だったとはいえこれはキリスト教徒にあるまじき行為、自殺と断定していいだろう。

だが・・・発狂はシャルロット嬢の責任ではない。
自殺が神への冒涜行為と言うのなら、それに追いやった責任は誰がとるのだろうか・・・
神は一体、誰を罰し、誰を救うのであろうか・・・

シャルロット嬢は大権力者の持つ猟奇的趣味嗜好の犠牲者であり、繁栄への脅迫観念にとりつかれた愚かな母親に生贄とされた被害者だ。

目の前で我が子を失いながら・・・ポリニャック夫人はまだ自己弁護の羅列で、己の愚行を後悔するどころか、警備の不行について怒鳴り散らす始末・・・
狂った形相で泣き叫びながら、連隊長の肩を揺さ振る姿は・・・誰の目にも絶望的だったに違いない。

大声で罵られながら、それでも一瞬たりとも目を背けることなく、連隊長は夫人の形相を見つめ続けた。
醜い・・・これ程までに醜いものがこの世にあろうかという醜態の極みを直視したうえで、連隊長は涙をこぼした。涙を・・・・・



あの修羅場で彼女が流した涙が、天に旅立つ娘にとってはどれ程の供養になったことだろう。
シャルロット嬢は・・・残酷なことだがまだ美しい・・・まだ美しいまま逝けたのだ。
せめてもの・・・それがせめてもの救いであると、いま私は目の前の連隊長の為に、そう思う。



地上に激突した衝撃で、哀れな娘の右耳周辺の顔面は無残に破壊された。
他に目立った損傷箇所として・・・まずは十指すべての爪が剥がれ濃紫色に変色、更に右手の甲だけ酷く擦れたような跡があり、上皮が完全に失われた部分が妙に赤々と・・・亡くなった今でも血液の鮮やかな色を浮かべている。
数時間前までは生きていたのだ。生きて・・・これから先もずっと・・・当たり前に続いてゆく命だったのだ。



連隊長が遺体に一歩近付き、そのまま身を屈め、皮膚のめくれ上がった右手に接吻をするかのような仕草を見せた。感傷から我に返り、私は驚いた。
そして、壊れて横たわった娘の耳元に、今度は微かな声で・・・連隊長は言葉をかけた。

何を話したのかは聞き取れず・・・だが、こちら側に向いた美しいままのシャルロット嬢の死に顔が・・・不思議なことだが、微笑んだように見えたのだ。

私も、あまりの展開に正気を失ったのだろうか?

いや・・・そうではない。


シャルロット嬢は天国へ導かれているのだろう。
来世は誰の犠牲になることなく望む相手と穏やかな暮らしを・・・・・それまで少しの間、静かに休むのがいい。


遺体に別れの挨拶をして、連隊長が振り向いた。
いつものように深く強く・・・どこまでも遥か遠くの場所を見渡せるかのような瞳をして、彼女は微かに微笑んだ。


彼女は、彼女たちは・・・微かに微笑んだ。








第20話「フェルゼン名残りの輪舞」~恋心~



朦朧とした意識の中で、男は雨の音を聴いていた。

だんだんと自分を取り戻していく過程で、こういう感覚は一番確かで当てになるものなのかもしれない。
習慣というのは意識していないから習慣なのだ。眠りから覚め、まだたっぷりと酒が残り、じんわりと耳鳴りさえしている心許ない感覚器官ではあったが、それでも今いる場所が普段の寝台でないことくらいは直ぐに思い出せた。つまりは、雨音の聴こえ方が違っていた。

いつもなら目が覚めて、暫くの間・・・と言ってもほんの数秒単位の話だが、しっかりと意識が身体に戻って来るのを待ってからでないと、今日の天気がどうであるかなんて詳しいことは分からない。立付けよく頑丈な窓ガラスは外の物音をこうまで筒抜けにはしないから。ところがどうだ、それ程大雨でもないのに・・・と言うか、この降り方はちょっと地面を湿らす程度のにわか雨ってとこだろうな。・・・ともかく、今朝は雨音の奴に起こされた。

それに比べれば、嗅覚の方はだいぶこの環境に慣らされたもんだと、なんだかちょっと愉快な気持ちにもなる。あまり高級ではない香水の匂いで・・・それで最初の頃は大抵目が覚めたものだ。今はどうかな?好きな匂いかどうかの細かい注文はしようと思えばいくらでもつけられるけど、それが寝てられない程に気になるかと言えば、そんな事はなくなっていた。


あるいはこうやって・・・・・思い切って逃げ出してしまえば、いつかは全ての事が新しい環境に馴染んでいくのだろうか?

それは意外と、やってしまえば想像よりも簡単にできてしまうものなんだろうか?


いまだ酒の支配から抜け切れず半分は鉛のように重たい身体をゆっくりと起こし、隣で寝息をたてている女を気遣いながら、男は曇った窓に手を差し伸べる。そしてそのまま、硬直気味の体を思いっきり伸ばそうとしたが・・・全身いかにも言うことを聞かないという雰囲気だ。そのうえ図らずも飛び出した深呼吸よりもだいぶ間抜けで豪快な大欠伸が彼の情けなさを強調していた。

濁った鏡のような窓ガラスに映ったその姿は、どう見ても褒められたものではなく、それが欠伸をした本人にとっても結構おかしい事だったのだろう。欠伸は途中で笑い声になり、制御できずに思いっきり噴き出してしまった。
・・・そしてどうやら・・・女を起こしてしまったようだ。



「・・・なに・・・どうしたの?」

女はまだ完全に目を覚ましたわけではなく、隣の物音が一応脳に認識されたので、半分は無意識、半分は気を使って、なんとなく声を出してるようだった。


「悪い・・・だらしない男だなぁ~俺って。ごめん、もっと眠って」

男は女に慌てて謝ってみたものの笑いを堪えきれずいつまでもクスクス笑っている。
今度は完全に女を起こしてしまったようだ。
寝返りをうって何やら怪訝そうな面持ちで隣りを覗き込む女を見つめて男はもう一度、小さく「悪い」と呟いた。



「雨なの?」

何がおかしいの?と訊いてくるとばかり思っていた女の質問はそうではなく、まずは今日のお天気からだった。

「雨が降ると何かいいことでもあるの?」

・・・雨が降るといいことか・・・どうだったかな・・・・・

「ねえ?」

女の声が「ねえ」でようやくハッキリしたものになった。


「いいことも悪いことも・・・たぶん何も起こらないよ」

男は答えたが、それはもうひとつ女にとっては望んだ回答ではなかったようだ。
ちょっと眉間に皺を寄せ、シーツを顔の半分あたりまで引っ張りあげながら、ようやく「ねえ・・・今どうして笑ってたの?」と訊いてきた。




この女の部屋へ来るのは何度目だったか?
途中まではいちいち勘定していたが今ではもう分からない。じゃあ付き合って何年経つんだったか・・・?関係を持つようになって、というべきか。
実際のところ会うのは殆どがこの部屋で、今腰掛けているベッドからそう遠くへは行ったことがない。そう・・・それだけの仲だ。



「ねえ、アンドレ・・・あたしの声、ちゃんとあんたの耳に届いてるぅ?」

今度はベッドから半身を起こして白い腕を絡ませながら、男の耳元で甘ったるい声で囁いた。


     


ポーラという名前のこの女性、・・・そういう行為の最中でさえもどこか上の空でいるような俺を、まぁぶっちゃけ商売だから細かい事はどうでもいいのかもしれんが、根気よく面倒をみてくれるひとりだ。年は26くらいだったかな?確か俺より2つか3つ上のはずだ。でも彼女は意外な程に童顔で、特に寝顔なんかは本当に若く見えるから あんまり年上と思ったことはなく・・・それどころか長い夜の間に「何か話して、なんでもいいからあたしの知らないことを話して聞かせて」と頑固にせがんでくるところなんかは不思議なくらいに無邪気で幼くて・・・とても年上だとは思えない。

正直、彼女は魅力的な女性だと思う。

最初の夜に一戦交えたあとで、彼女は「ジュリエッタって言うのは仕事する時の名前なの。本当はポーラ。安っぽい名前でしょ?全然気に入ってないの」といきなり本名を教えてくれた。と言っても、別に俺から尋ねたわけじゃないが。で、その後「でも、やっぱりポーラの方が呼ばれ慣れてるから・・・今からあたしのことポーラって呼んでいいわよ」ときたもんだから「しかし、俺は客で、君にとってこれは仕事だろ?ジュリエッタ」と答えてやった。そうしたら「言い忘れたけど《ジュリエッタ》は高級娼婦なんだから、あんたのお小遣いじゃ一晩だって買えやしないのよ」って。

いきなり妙なことを言われて、なんだそりゃ?と笑ったが・・・とにかく、それ以来彼女は「ポーラ」になった。

     

  ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


ポーラ・・・ちっとも安っぽい名前じゃないさ。
英語は話す?イギリス人が使う言葉。それではね《ポーラ》は星の名前。北極星のことをポーラスターって言うんだ。
暗い夜に目印になってくれる・・・北極星は心強い味方なんだよ。


・・・誰の味方になるの?


船乗りとかじゃないかな。


じゃ、海賊とかも入るわね?


そうそう、たぶんね。


なんかカッコいい・・・ポーラって、まあまあいいかも。


うん、まあまあいい名前だね。


ちょっと・・・あんたまで「まあまあ」ってなんなのよ?
失礼しちゃう。ポーラが一番よ!他にどんな素敵な名前があるって言うの?


        
      
 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「オスカル!」


振り向いた彼女は珍しい色のブラウスを着ていた。

いつの間にか雨はやんで、もうすっかり地面も乾いている。馬のたてがみが風に揺れて、時折気持ち良さそうに嘶く声が、明るくなりだした午前の空に吸い込まれる。

・・・俺だけがまだ混沌としていた。
昨日は飲み合わせが悪かった・・・分量を欲張ったつもりはないが、最後にやったカルヴァドス。ブランデーというより、あれじゃ消毒液だ。酒場のおやじ、年代物だからと随分もったいぶった出し方をして、一体どんなリンゴを絞ればあんな悪い酒が出来上がるんだ?お蔭で今日の二日酔いはいつもよりだいぶ手強い。吹き抜けていく少し湿った風によって酒臭さはある程度緩和されているとは思うが、髭・・・髭はまだ剃っていない。こんな格好でオスカルのお出迎えに遭うとは!

・・・もっとも彼女はたまたま外に居ただけだろうがな・・・
少し奥のバラ園にはロザリーの姿も見えた。



淡い紫色のブラウスを着たオスカルは、今日は非番なので普段よりだいぶリラックスした顔をしている。
薄曇りの空から届く柔らかい光を受けて、ああ・・・君は今日も美しい!!
・・・なんて呑気なことを考えていては駄目だ。朝帰りなのはバレている。今更引き返すのも変だし、第一ここで取り繕わなきゃならない理由があるってわけでもない。
こういう時に慌てて言い訳できる関係ってのは・・・・・



「おかえり」

今日のオスカルは随分と優しい。
一瞥もくれずに行ってしまう可能性も十分にあったが、「おかえり」などと・・・


「・・・ただいま帰りました」



 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


酒と香水の混じった匂いを身体にまとって、アンドレはバツが悪そうに笑っている。

何処で何をしてきたかぐらい直ぐに察しがついたが、私がそれについてどうこう言えたものではなく・・・続ける言葉に困る。するとアンドレの口から懐かしい名前が飛び出した


「カルヴァドス・・・久々に飲んだ。おまえとアラスでやった時以来だから、何年ぶりかな?しかし昨日のやつは酷かった!アラス亭おやじの秘蔵品とは大違いだ。まるで酒とは思えない代物で・・・あれは恐らく、バラ園の殺虫剤になるぞ!土産に持ってくれば良かったかな・・・ロザリーなら案外喜んだかもしれん」


バラ園を指差し、アンドレは眩しそうに目を細め、笑っている。
・・・おかしな男だ。


「カルヴァドス・・・そうか、カルヴァドスの匂いか・・・」


「他にも匂うものがあった場合には、そっちはあまり気に留めてくれるな」


薄く髭が伸びたあごを掻きながら、もう片方の手で彼は馬のたてがみを優しげに梳った。



 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


・・・何を言ってるんだろうなぁ俺は・・・。

しかし、この気まずさもなかなか味わい深い。昨日のカルヴァドスよりよっぽどだ。


「朝からなんだい!?あんたはっ!だらしない格好でお嬢さまに近付くんじゃないよ!」

二人の会話がちょうど途切れたところで、ばあやが駆け足でやって来た。
そしてアンドレを見るなり目をつり上げ一喝し、尻を思いっきり蹴飛ばした。

悲鳴を上げるアンドレを無視し、ばあやはオスカルに来客を告げる。

振り向くと、フェルゼンが笑いながら佇んでいた。


「アンドレー、おまえ一体何をした?」




 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


朝帰りの男がふたり・・・。
漂わす香水の匂いに相手の女性の姿が垣間見える。


今日は何を話しに来た?
私に・・・今度は何を打ち明けるつもりだ?


長い午後の始まりを告げるようゆらゆらと漂う雲の切れ間から、太陽の光が地上にゆっくりと降り注いだ。



 



第20話「フェルゼン名残りの輪舞」~雨粒~



また雨か・・・・・

最近は何かと言うとすぐに雨が降る。
大気の乾く暇もない。常に湿り気を帯びた空気はひたすら重く、立ち止まらず生きようともがく人間たちの上に大きく圧し掛かる。


また・・・雨か・・・・・・

ぼんやり眺めている間にも、雨足は早くなり気温も急激に低下してきたようだ。
やむ気配はない。今夜中、きっと降り続けるだろう。



オスカルはどうしたかな・・・?
このままじゃびしょ濡れになっちまう。風邪でも引いたら大変だ。

パリへ向かったな・・・恐らく、フェルゼンのところだ・・・。

このままじゃあいつ、びしょ濡れになっちまうから・・・・・行こう!


         

 ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥
        


天空と地上から、容赦なく叩きつける大粒の雨に打たれて、オスカルは駆けていた。


なんて今の自分に似つかわしい天気なのだろう・・・やまなければいい。
このままずっと・・・雨の中、何処かへ消えてしまいたい・・・!





「オスカール!!この雨は体に毒だぜー!!」


激しい雨音と馬の蹄の音に混ざって、確かにアンドレの声がした。


顔を上げたオスカルの目に外套を持った男の姿がすぐに飛び込む。
二人の距離は瞬く間に縮まり、すれ違う一瞬の間にくるりと馬の向きを変えたアンドレと、気が付けば至近距離で並走する形になっていた。


アンドレはどうして私の居所が分かったのだろうか・・・?


並んで馬を走らせるアンドレは寂しいような嬉しいような・・・
なんだかとても不思議な顔をして、ずぶ濡れの私を見つめている。

そう言えば・・・彼は私を探すということをしない。
探すのではなく、彼はいつも真っ直ぐにやって来る。
私のところへ・・・・・!

今もそうだ。彼は・・・何処を探しまわったという様子はなく、私の名を叫び私のところへ、一直線に駆け寄り、もう隣にいる。


アンドレ、どうして私の居所が分かった・・・?
・・・どうして、私の心が分かった・・・?
おまえは・・・いつから気付いていた?




片手で外套を広げ、上半身を乗り出し、男は女の肩を優しく抱き締めるようにして、細い肩をふわりと包んだ。

女は手が伸ばされた瞬間、体を男の側に寄せるようにしながら前傾し、かぶされた外套の襟元をおさえる。

一瞬二人の手が触れ合って、雨に濡れて冷たくなった肌の感触が伝わり合った。

そして体が離れて、なお一層・・・伝わり合うものの中で二人は微笑み合った。


冷たかった肌の感触は心の中で暖められ、溢れたものがオスカルの頬を静かに伝い落ちる。それと同時にオスカルは顔を伏せ、慌てて何度も何度も瞬きをする。




なぁ、オスカル・・・、伝い落ちたのは・・・雨粒だろう?



どんなに見上げてみても、星ひとつ見えない夜空が何日も続いている。
目印になるものは何もない。苦しいだけの水の粒が絶え間なく降り続いて、このままじゃみんなみんな・・・びしょ濡れだ・・・




オスカル・・・伝い落ちたのは・・・・・雨粒だろう・・・?