stories⑥

アニばらワイド劇場
第21話~第24話)


 

第21話「黒ばらは夜ひらく」~林檎酒~



胸にぽっかり開いた風穴の中を・・・遥か数千マイルの彼方から届いた潮風が絶え間なく吹き抜けていく。


ここへ来るには今がちょうどよい季節だ。暑くもなければ寒くもない。
毎年、この時期の休暇には大抵ここへ来て、ここで癒される。

だが・・・今年はどうだ?


あの日から、オスカルは必死に自分を抑えている。会話の途中で突然無口になり塞ぎこんだかと思うと、次の瞬間には作り笑いで、おまえは苦しい気持ちを懸命にごまかそうとする。

そして今は・・・ひとり黙って海を見つめたままだ。


オスカル、パリにいるよりは・・・ここはほんの少しフェルゼンに近い。
そうしていると・・・口に出せない思いが、やがて海に溶けていくだろう・・・?
おまえの胸に開いた風穴を・・・吹き抜けていく風が、凍えるものから少しでも温かなものになるように・・・・・
俺は、それだけ願うのが精一杯だ。


オスカル、そんなに見つめてなんになる?
あの時伝えられなかった想いを、今・・・波は彼方へ運んでくれているとでも言うのか・・・?

        



ノルマンディーの海を照らす太陽は、パリのそれより明るく力強い。
眩しさを堪え見上げていると、この太陽にはなんだか人の心を治療する力があるようだ。

俺の心を・・・オスカルの心を・・・治療してくれ。
胸の風穴を、どうか埋めてくれ。


窓辺でもの思いに耽るオスカルの後ろ姿を、気が付けば俺は何時間見つめ続けていた事だろう。

こういう時に、休暇ほど辛いものってないな・・・忠犬のように、おまえの背中だけ見つめて、一体俺は何をしている?
カップに残る冷め切った紅茶を揺すぶって、できた微かな波間に自分を映す。ぼんやりした顔つきの男が、なんだか急に情けなく思えて・・・気分転換、思い切り背筋を伸ばしてみた。

その時、ちょうど下の方で人の声がしたかと思えば、まもなくロザリーが長細いものを大事そうに抱えて部屋へやって来た。



「オスカル様、御所望のお品、店主の方がたった今届けて下さいました」


・・・ロザリーが抱えているのは何だ・・・?オスカルがどうしたって・・・?


同じ部屋に居るのに、俺に背を向け、随分長いこと沈黙を保っていたオスカル。そんな彼女がようやく振り向いて、意外だったが・・・楽しそうに笑っている。


オスカルは止まっていた時間が再び動き出したかのようなムードでつかつかと俺の前を通り過ぎ、ロザリーの手から“御所望”の何かを受け取った。そしてもう一度、俺の方に向き直り、久し振りに口を開く。




「おまえ、退屈だろう?」


なんだ、その一言は。そりゃないだろう・・・おまえってば何時間無言でいた?別に構って欲しいわけじゃないが、とにかく、久々の一言が「おまえ、退屈だろう?」はないだろう?

多少の不満を覚えながらではあったが、動き出した時間に感謝しつつ・・・俺はオスカルの次のリアクションを待った。


「美味いカルヴァドス、飲むか?」

右手で高々と瓶を持ち上げ、オスカルは面白そうにロザリーと目配せする。
くるくると瓶を振る仕草が・・・なんとなく挑発されてる風で、俺はだんだんと気分が高揚して来るのを感じた。


「ノルマンディーのカルヴァドスはなアンドレ、れっきとした人間用だぞ」

ああ・・・オスカル!あの朝の、ろくでもない俺の一言を、しっかり覚えているんだな・・・。
やや意地悪とも取れる視線でオスカルは「最高のカルヴァドス、どうだ?うん?」と迫ってくる。



「ロザリー、なんでもよいからつまみを作ってくれないか?グラスは私が取って来るから。休暇でなければ出来ないことをしよう!真昼間から酒盛りなんかはどうだ?・・・飲もうアンドレ」


何やら複雑な意味合いを込めてクスクス笑うオスカルに「やられた・・!」と思う。


       
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北欧の香りを色濃くまとったノルマンディーのこの地から、
・・・遠く大西洋を隔てた戦場で戦う騎士を想う。



真昼の太陽の下、飲んだ最高級の林檎酒は・・・甘くて苦い、初恋の味がした。







第22話「首飾りは不吉な輝き」~斜陽~



王妃マリーアントワネットが離宮に引きこもって数ヶ月。

ベルサイユはかつての喧騒を忘れ、伺候する貴族の数も日に日に減り、宮廷はもう殆ど活気というものが感じられない状態になっていた。

一方、かつて王妃を取り巻いていた噂好きの貴族たちは“お気に入り”という特別待遇を得て、その一部がトリアノン離宮に出入りもしくは滞在を許され、相変わらずの権勢をふるっている。
が、しかし、それもさして意味のあることではなく、立ち入りを許可された者たちが己の優位性をどれだけ誇示してみたところでそんなものは子供じみた自慢行為でしかない。

そんな状況の中で無駄に澱んだ“特別特権階級”の貴族たち。
彼らはそれでも日々宮廷と離宮を行き来しては一般の貴族たちに激しい疎外感を植え付け、益々ベルサイユに対する国民の信頼を傷付け、失墜させる手伝いをする。


ベルサイユから、かつての誇りと優雅さが無残に剥がれ落ちてゆく。
その微かな音がじわじわと聞こえ始めた秋の終わりのことである。


王妃お気に入りの貴族たちの中には、実のところそれ程身分の高い者はいない。ましてや威光を放つ舞台が実質ベルサイユから離宮プチ.トリアノンへと移った今となっては、むしろ歪んだ勢力の届く範囲は以前よりも狭められた感があり、その代わり歴代続く正真正銘の大貴族たちの勢力は拡大し、もともと王妃を疎ましく思っていたであろう者たちの間ではこの度の状況は歓迎とはいかないまでも都合の悪いものではなかったのである。


      


完全なる夜などはないベルサイユではあったが、それでも大抵の者が寝静まったであろう時刻に、オスカルは人気のない宮殿の廊下をひとり歩いていた。


近衛隊関連ではないところから呼び出しが来るのはそう珍しい事ではない・・・しかしこんな真夜中に、まともな用件でない事は彼女にも容易に想像できたであろう。
治安も不安定になりつつある今日。護衛も宮廷と離宮で倍必要な状態になっている為、以前と比べて近衛士官の労働時間も延び、夜勤も常態化してきていた。
そんな中で、目立って意識し出したのは半年ほど前だろうか・・・
オスカルは余計な視線に気を捕らわれることが多くなっていた。

ふとした隙にじっとりと纏わりつくような・・・
非常に不可解でいて重苦しい空気が彼女を悩ますも、むげに拒否できたものではなく、今までは気付かない振りをしてなんとかやり過ごすのが常であった。
対応策のないこの状況、しかし・・・今夜でそれを終わりにできるかもしれない。
確信に近いその思いが今この瞬間、オスカルを動かしていた。




その男がローアン大司教の友人だと知った時、うっすらとではあったが嫌な予感がしたものだ。
公爵の身分につくその男、直系の王族でこそないものの持てる権力の程は絶大で、大司教という地位にあるローアンと同様、フランス各地のカトリック教会管区の長として強大な統治権を誇っているという。
もともとは聖務職の血統なのだろうか・・・?
いろいろと謎の多いこの男、ローアンのようにあからさまな素行の悪さは耳にしないが、かといって良い噂と言うのもこれまで聞いた事がない。夫人はいるのだろうか・・・?いればこれだけの力を持つ公爵夫人だ、まったく表に出ないと言う事もないだろう。すると、まだ男は独身なのだろうか?

薄暗がりの廊下をここまで来る間、気分は既に滅入るところまで滅入っていたオスカルだったが背筋を伸ばし、ゆっくり深呼吸をして、気持ちを立て直そうと暫し扉を睨みつける。そして、いざ扉を叩こうとした瞬間、重々しい音を立ててそれは開き、中から上等な身なりをした恰幅のよい・・・これは執事だろうか?初老の男が現れ、深々と頭を下げた。

 


「ようこそおいで下さいました」



驚愕のうちに部屋へと招き入れられ、呼び出された時刻の非常識さを丁寧に詫びる召使の声を意識の遠くで聴きながら、オスカルはそれを見つめた。


上層階まで吹き抜けになった部屋の壁という壁がステンドグラスで造られたこの特殊な空間を、この宮殿の一体何人がこれまで目にした事だろう?

通された部屋の思ってもみない構造に再び驚愕し、更にその明かりに魅せられた。


あれは蝋燭だろうか・・・?

最初壁と思ったステンドグラスは実は巨大な衝立状のものであった。
それが何層も・・・壁との隙間にある数多の明かりによって真夜中でも昼間のようにくっきりと、神話の世界の英雄たちを色とりどりに照らし出していた。
太陽光線よりも妖しく柔らかに揺らめく光は、これまでに見たどの教会のステンドグラスよりも感動的に信仰心をかき立て、やがて穏やかな温もりで体中を包み込んでいくかのようだった。



こんな、こんな場所がベルサイユに存在するとは・・・・・





「リールの教会にあったものを運び込みました。」


背後からの声に我に返る。
振り向いたオスカルの視線の先に男が佇んでいた。

ローアンとは対照的に、だいぶ痩せ型のひょろりと背の高い男が、黒いベルベッドだろうか?見慣れない高尚な衣服を着て、薄い光を放つシャンデリアの下に居る。
灯りが乏しいので細かい表情まではよく見えないが、それほど悪い人相の人物ではない。ただ・・・およそ健康的ではなかった。人形のように青白い肌をしている。光の加減か眼窩が若干落ち窪んだように見え、その中の眼球は“私”を見ていない。

造られた世界で生涯幻想を眺めて暮らす者・・・このような目をした人間はベルサイユには少なくない。



「ご存知だろうか?パリからはだいぶ遠い・・・ベルギーとの国境近くの街です。善良な市民が暮らす素晴らしい所だが複雑な歴史に翻弄されてきた悲しみの街でもある。15世紀には大規模な宗教戦争に巻き込まれ、多くの民が犠牲になった。その街の取り壊しになる教会から・・・私が引き上げて来ました」

黒いベルベッドの男はその体型から想像するには不思議なくらいの太く深い声で、目の前のステンドグラスがそこに在る理由を説明した。



「・・・リールの民は大変勤勉だと聞き及びます。ご領地ですか?」


「まぁ、そんなところです。そう・・・勤勉な民が作り上げたこの芸術作品を壊してしまうのは惜しい。たまらなくなって持ち帰り、修復させました。見事なものでしょう?」

男は満足そうに衝立を見上げ、微かに溜め息をつくと右手を胸の高さまで持ち上げ、手の平で光をすくう。

救われたステンドグラスは男の上に様々な色彩を優しく投げかけていた。


「見事だと思います・・・他に言葉もありません」


ステンドグラスから視線を戻した男が、物静かだった口調を変え、一歩二歩とオスカルに近付く。


「ついに心が動いたか・・・!これをお見せしたかった・・・太陽の光では駄目だ。蝋燭の明かりでないと魅力が半減してしまう。だからこのような時刻に来て戴いた。・・・君の為に私はこれを運び込み、君の為に完成させた。しかしまだ完璧ではない・・・君がここに居て初めて、神が宿る・・・」

先ほどまで男を包んでいた聖職者の面影は生々しい男のそれにとって変わり、不可解な視線と共に体温すら感じ取れる程の至近距離で、ねっとりとした懇願が始まる。


「なんて美しい・・・そして気の毒なひとだ。私なら君を救ってあげられる・・・私が守ってあげる。何が望みだ?ドレスを着たことは?軍服姿の倒錯した君も大変に魅惑的だが、私の手で更に素敵にしてあげられるんだ・・・」


思っていたより展開は速く、男は早々と我を失なった。
背中からオスカルの腰や胸に手を回し、ゆっくりと弄りながら悩ましげに溜め息をつく。


「・・・くっくっくっ・・・オスカル・フランソワ。真正面から口説いてみたところで、残念ながら君はなびくまい。それくらい私にも分かる。高貴な身分のわりには身の程をわきまえていると思わないか?ふふふ・・・君の好きな話をしよう。いくらだ?いくらで私のものになる?」



ジャンヌか・・・この男は私がジャンヌからの賄賂を受け取ったと思い込んでいる。
金でどうにでもなる人間だと思われたのか?随分な話だ。だが、これでハッキリしたことがある。ジャンヌの資金源はローアン。ただの金づるか?パトロンだとしたら、ジャンヌ・・・一体何が目的で動いている?



「おや?そのしかめっ面はどういうわけかな?何か気に障ることでも言ったか?まぁいい、込み入った話は後でじっくりするとしよう。オスカル・フランソワ・・・仲良くしよう。朝までいられるのかい?私は君の自然な姿が見たいんだがな・・・」

手を取り、腰のあたりをしきりと撫で回しながら、奥の部屋へと誘おうとする男の手を、オスカルは厳しく払いのけた。

びっくりした顔の男を冷たく見つめ返すオスカル。





「陽射しを入れた方がいい」


「・・・何を言っている?」


「貴公の頭が取り返しのつかぬところまで腐り果てる前に、少し日光消毒された方がよい。・・・失礼」


あんぐりと口を開け佇む男をそのままに、オスカルは踵を返しステンドグラスの魔窟を後にした。




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幾分精彩を欠いたステンドグラスから届く同情の光に照らされ、高貴な男は呟く。


「不自由なひとだ、オスカル・フランソワ・・・分かってはもらえないのか?君こそが私の太陽だというのに・・・・・」



ベルサイユ宮の奥深く。
哀れな主の言葉に、フランス一のステンドグラスが心なしか虚しく傾く音がした。

 






第22話「首飾りは不吉な輝き」~通知~



「まだやってるのか?・・・きりがないぞ。通知は毎日届く、山のようにだ。到着が遅れたり、混乱の最中に紛失したり、場合によっては廃棄されるものだってあるんだぞ」

アンドレは友人の小言を聞きながら、いつものように「ああ・・・」と力なく呟く。
目はただひとつの名前を見つけるのに忙しく、いや、見つかっては困るのだ。
絶対に・・・見つかっては困る。

暫し目を閉じて・・・捜しているものを捜し当てた時の恐怖を思う。


「オスカル・・・・・・」



友が手元の書類を覗き込み、消え入りそうな声で呟いた。

「こんな紙切れ一枚で片付けていい命なんてひとつもないんだ・・・・・気が滅入るよ、まったくな」

「セルジュ、感謝している。君がこの立場になかったら・・・本当に俺は、どうしていいか分からなかったよ」

「戦死者の通知書や遺品は毎日届けられる。国は戦場へただ送り込むだけだ。死んだらそれまで。一応はこういう機関を作って情報を集めはするがな・・・形だけだ。・・・おまえ、この数日間一体誰の名前を捜している?」

「ここにはフランスから送った戦闘員すべての情報が集まると言ったな?」

「だから、“一応”な」

「外国人もか?」

「・・・なんだ?義勇軍の話をしているのか?・・・そうか、深いところを詮索するつもりはないが、義勇軍だったら尚更だ。確かな状況なんて分からない。国なんて勝手なもんだぜ・・・フランスはアメリカの独立なんて腹の底じゃどうだってよかった。目的は西インド諸島だ。イギリスの占領地をこの期に乗じて何がなんでも取りたかった。その為に・・・えらい犠牲を払ったもんだよ。お蔭で国庫は空っぽ同然。そしてこの通り山積みの戦死通知書。何をもって勝利なんだか俺にはさっぱり分からん!」

「独立戦争がなんであったかなんて、この際俺にはどうでもいい。たった一人の男が、いま生きていること。それが確認できればいいんだ・・・」

「誰なんだ?口調からして友達・・・じゃないな。益々わけが分からない。だいたいアンドレ、分かるだろ?戦争中の主な死亡原因は戦闘によるものじゃない。感染症や伝染病による病死だ。千人が銃弾に倒れたら、2倍3倍の人間が病で死ぬんだぞ。戦乱の中で弱った者は見捨てられる。どこかで野垂れ死にでもしていたら、それこそ何の記録も残らない」

「むざむざと野垂れ死にするような奴じゃない」

「そう思いたい気持ちは分かるが・・・戦場は」

「とにかく、そういう奴じゃないんだ」

「誰なんだ?」

「ラ・ファイエットの副官。スウェーデン人だ」

「・・・・・・何故そんな奴の生死にそこまでこだわるんだ?」

「・・・友達だ」

「ははは・・・冗談だろ?信じられないな・・・。まぁいい。出征の理由はどうあれ、戻って来れば英雄だ。友達が英雄たらんことを。どら、俺にも貸せ。調べ物にはコツがいるんだ。陸軍員数外大佐、恐らく出征の時に特別な処置を取られているはずだ。それに外国籍貴族に絞って捜す。・・・見つからない方がいいのに捜すってのは変だがな」

「すまん。ありがとう、セルジュ」

「随分と変わった貴族将校の従僕をしている身分だからな。俺なんかにゃ理解不能な理由があるんだろうさ」

「それもまた随分な言い方だ」

「どうにも複雑な人間関係だな・・・」


     

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1783年、9月3日。パリ条約で条件つき勝利が宣言された。それによりフランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復。


フランス参戦のもう一つの結果、それは啓蒙思想の誇りを新たに得たことである。
これは1776年アメリカ独立宣言、1783年アメリカの勝利、さらに1787年合衆国憲法公布で印象づけられ、自由主義の特権階級は満足したという。しかし、他にも大きな影響があった。ヨーロッパの保守主義が神経質になり、貴族階級はその地位の保全のために対策を打ち始めた。例えば1781年5月22日のセギュール条例では、軍隊の上級士官に一般人が昇進することを制限、貴族のために留保することとなり、アメリカ独立戦争によって貴族階級は確実に挫折の道を行くことになったのである。







第23話「ずる賢くてたくましく!」 ~贈り物~



トリアノン離宮に足を運んだのは3度か4度・・・とにかく片手で数えられる程度の回数でしかない。それも大抵は王后陛下の護衛として、王宮との行き来の際 安全確保に努める役割のみでの出入り、である。

私の役目は徹頭徹尾、王室を警護することであり、王族たちのご機嫌取りや、ましてや暇潰しの遊戯に共に興ずること等はありえない。
たとえ己の警備する対象が遊び惚けているような場合であったとしても、自らがその渦中に混ざること等は考えられないし、また絶対にあってはならない。

これが基本、私と言う人間の考え方だ。だから、トリアノン離宮などは到底足を踏み入れたい場所ではなく、性格的に このての場所に長居など出来たものではない。だが、物事には例外というものがあって・・・・・


それが今日10月22日。ルイ・ジョゼフ王太子殿下の誕生日という事で、まったく・・・どうかと思うのだが、朝から近衛連隊はトリアノン敷地内の広場に整列し、ちょっとしたパレードをするべく王太子殿下のお出ましを待っている。


このような事態になったのは・・・追及したところで意味のない事ではあるが、そもそも王后陛下が独断でトリアノン離宮へ引き籠もられた事に原因があるのではないか。お子たちにはトリアノンの外に、まだまだ触れ合いたいものがおありなのだ。
だいたい、良い環境とは何をもって良い環境なのだろうか?
トリアノンに出入りするのはごく一部の貴族たちであり、そのどれを取ってみても決して質がいいとは言えぬ面々である。
閉鎖的な世界で毎日朝から晩まで芝居遊びやゲーム大会にうつつを抜かし、素人の音楽会を背景に好きなものだけ食べて飲んで・・・それで本当に、良い環境と言えるのだろうか?幸せだと言えるのだろうか?

私などは中に入った途端、足元を呑気に横断するアヒルの親子を見てあまりの縛りのなさにかえって鬱々とした気分になるのだが・・・。
耳を澄ますと、あれは山羊だろうか・・・?うっすら堆肥の臭いに交じって有り得ないほど悠長な家畜の声が聴こえて来る・・・

これならば、まだ王宮の屈折した退廃的絢爛豪華さの方が気が休まるというものだ。

・・・・・・屈折しているのは、ひょっとすると私の方かもしれぬ。




女性の関心事というのは、よく分からない。たとえそれが幼児であっても・・・同じ事である。
マリー・テレーズ内親王殿下はここでの日々になんの不満もないようだ。トリアノン離宮の生活にすっかり馴染んでおられる。農家の娘のような格好をしては花畑の中で朝から晩まで戯れていらっしゃる・・・そのお姿は本当に、楽しくて仕方がないといった感じだ。
一方、可哀相なのは最近とみに活発化されたご様子の王太子ルイ・ジョゼフ殿下。
今日で満5歳を迎えられた殿下の口癖は・・・「僕はベルサイユに帰りたい」 これである。

そうであろう。僭越ながら、私は彼の気持ちがよく分かる。トリアノンもベルサイユの一部である事には間違いないが・・・この場合のベルサイユは、時折戻って来られる王宮の事であろう。
なので今日「せめて近衛の閲兵式をトリアノンで!」と駄々を捏ねられたお気持ちに添わないではない。しかし、なんと言うか・・・こういう非現実的な場所でごくごく一部ではあるが居並ぶ近衛兵の微妙さよ・・・威厳などあったものではない。
先程から兵士のうち数人は子馬や子牛に小突かれ、列を乱して逃げ回っているではないか。犬と戯れ軍服を毛だらけにされ、喜んでいる者もいる。そういう私も、少し前にはあやうく金モールの裾を子山羊に食べられそうになった・・・。
嗚呼、なんということだろう・・・!!


そうこうしているうちに殿下がお出ましになる。
ゆったりと穏やかな色をしたドレスを着た王后陛下に手を引かれて、殿下の真っ白なブラウスがひと際眩しく輝いて見える。それよりもキラキラと弾むような青い目が・・・真っ直ぐに連隊長を見つめている。

ジョゼフ殿下は、連隊長の事が好きなのだ。


軍隊のもつ清廉潔白さと独特の華やかさというものに、王太子殿下はよちよち歩き、と言うのだろうか・・・ご自分で歩けるようになって直ぐの頃から強い関心を持たれていた。その中でも、連隊長にはことのほか興味を示され、お傍にて任務に就く際には、それはそれは熱心に彼女の気を引こうとなさる。

オスカル・フランソワは本来、脈々と続く近衛連隊の“例外”として特別入隊された方なので、連隊長には“王妃付き近衛士官”という肩書きがつく。故に王室ご一家との関係も通常と比べて格段に深く、その事になんら疑問は抱くいわれはないのだが、王太子殿下の懐きようは・・・それを越えて実に驚くべきものであった。

自力で歩き出すようになると、殿下は宮殿内で度々行方不明となり、その度に大騒ぎになった。数多くの女官をまきにまいて脱走し、広いベルサイユで何をしているのかと言えば、殿下の目的はただひとつ。連隊長に逢いたいと・・・その一心での健気な逃亡である。

困り果てた教育係、女官たちが半日捜し回っても見つけられない殿下を、殆どの場合連隊長が抱いて戻られた。
なんと言おうか・・・こんな幼児にこんな気遣いができること自体驚異的なのだが、殿下は連隊長をみつけると、仕事の邪魔にならぬよう物陰からじっと・・・それこそ日がな一日“みつめて”いるのだ。
殿下の姿が見えないという宮廷の異変に気付いた連隊長は、当然自ら殿下を捜そうとなさる。そうすると殿下は心配をかけた事をひどく後悔され、自分からこっそり戻って来てはあたかもベッドでずっと寝ていたかのような演技をしてみせたり・・・とにかく殿下の連隊長に対するご執心ぶりときたら、半端じゃない。


不思議な光景だった。
連隊長と殿下が仲睦まじげに笑顔を交わされ、陽射しの中で戯れる様子は、当然親子ではない。恋人でもない。友達でもない。そして王位継承者と臣下でもなかった。
連隊長は自分を慕って何処からでも追い掛けてくるこの小さなプリンスを心から慈しまれている。そして、小さなプリンスは、この美しい近衛連隊長をただ必死に・・・愛しておいでなのだろう。

どんなに澱んだ空気が宮廷に充満したとて、このような光景を見れば・・・私にとって、まだ王室は守るにたる絶対的な存在であった。
その感情の出どころは、自分でもよく分からない。ただ、そのように思える瞬間がある事を、私は神に深く感謝するのである。

      


ご所望の選抜特別パレードが一部貴族や動物たちに見守られ無事終わると、王太子殿下は飛び上がって喜び、王后陛下の手から何かを受け取ると、我々の方へ一目散に駆け出して来た。

大変興奮した様子で「メルシー」を連発する殿下。その目線に合わせようと連隊長は深く屈んで、いつものように“二人だけ”の不思議な会話をなさっている。しかし、どういうわけだろうか・・・連隊長の肩越しに、今日はやけに殿下と目が合う。その度に条件反射と言おうか、私は背筋を伸ばし真面目に後方待機していたのだが、やがて連隊長も振り向き真っ直ぐに私を見つめて・・・あまり見た事のないような、何か珍しい表情を浮かべておいでになる。

・・・・・・私の顔に、何かついているのだろうか・・・・?
普段とは違う雰囲気に、得体の知れない不安感が私を襲う。

妙な緊張感で背筋が伸びっぱなしになった私は、早くトリアノンを去りたい気持ちでいっぱいになり・・・意味なく数回咳払いなどしてみる。


やがて殿下の手を引いた連隊長が目の前までやって来て、私に声をかけた。その瞬間、私はどんな面持ちで佇んでいた事だろう?

連隊長と殿下がまったくもって想定外の言葉を発せられたので、私は「え・・・?」と狼狽するよりほか対応策がなく、同時に何故か“遠くでまた山羊のやつが鳴いているな”等と・・・冷静でいようとあえて関係のない事を考えていたのであった。



      
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「ジェローデル、おめでとう」

連隊長は何故か私に向かって「おめでとう」と言っておられる。・・・どういう事なのだろうか?

「ジェローデル!お誕生日おめでとうっ!!」

殿下まで?・・・それは私の台詞なのだが。二人とも一体どうしたと言うのだ??

咄嗟になんと答えていいか分からず、ぼんやりする私を殆ど置き去りに・・・殿下は驚く事を次々と叫ばれている。


「あなたのお誕生日とぼくのお誕生日は3日しか違わないんだ!オスカルがそう教えてくれたんだっ!!だからぼく、考えたんだよ!ぼくと一緒にお誕生日をお祝いしましょう」

なんという事だ・・・誕生日なんぞ・・・誕生日なんぞ・・・・・そんなものの事はすっかり忘れていた。自分でも。

「ぼくはあなたのことも見ているんだ。オスカルと一緒に一生懸命お仕事してるでしょ?いつも守ってくれて、ありがとう!」


「殿下・・・驚きました・・・」

私ほど、こういう事態に柔軟に対応できない人間もいなかろう。
なんとも有り難い殿下のお言葉に「驚きました」以外、もっと気の利いた返答はいくらでもあるだろうに!

固まる私を前に、頬を紅潮させた殿下は「ぼく、プレゼントを用意したんだ!これさ!!お母さまと描いたんだよ。ねえ、お母さまーーーっ!!」

・・・大声を張り上げて振り返り手を振る殿下に、王后陛下が優しく御手を振り返しておられる。

満足そうに再びこちらへ向き直られた殿下に手を取られ、筒状のものを渡された。
薄紫色のオーガンジーのリボンで結ばれたそれは・・・絵だろうか?王后陛下とご一緒に、一体殿下は何を描かれたと言うのだろうか?

目を輝かせ、子犬のようにはしゃいでいた殿下が、今度は私の顔をじっと覗き込み、次の行動を待っていた。

「ここで・・・見せて戴いてもよろしいでしょうか・・・?」

私がそう言うと、殿下はその場で二、三度ぴょんぴょんと飛び跳ねると「いいよっ!」と元気よく叫ばれた。

そしてリボンを解くと・・・・・するすると広がった紙の上に、“私”が現れた。



「ああ・・・感慨無量であります・・・」



「殿下、彼は『言葉にならないくらい嬉しいです』と、申しているのです」

連隊長の通訳を受け、殿下が一段と高く、高く飛び跳ねた。
気が付くとマリー・テレーズ様も近くに来られて、子供二人の賑やかな声が私を包んでいた。


      

女官の一人が連隊長へ花束を渡し、彼女の手から私の腕に、それは届けられた。

私の性格をよく知る連隊長は、言葉の代わりに花束を抱いた私の腕をぽんぽんと叩き・・・気のせいか、ほんの少し“すまないな”という表情をされた。


“驚かせて、すまないな・・・ジェローデル”


それから満面の笑みで「おめでとう!!」と・・・・・・・・




トリアノンに吹く優しい風が、私を思ってもみなかった場所に連れて行く。
・・・何やら・・・目頭が熱い。


『幸せ』とは・・・こういう事なのだろうか・・・?







 

第24話「アデュウ、わたしの青春」 ~片腕~



ジャンヌがサルペトリエール牢獄から脱獄を謀り数ヶ月、閣議での決定により、我々が最優先すべき任務は“ジャンヌ・バロアの捕縛”となった。

首飾り事件を巡る一連のスキャンダルにより王室の権威は失墜。
パリの酒場では毎夜『ジャンヌ・バロア回想録』が民衆たちにとって一番旨い肴となっているらしい。内容の信憑性等は置き去りに、史上最悪のゴシップ本は今この瞬間も、フランス全土で発行部数を伸ばし続けていると言う。

ことごとく嘘でまくし立てられたこの一大ベストセラー、その影響力といったら・・・
感心している場合ではないが、たいしたものだ。食事を一日抜いてまで貧しい者が本を手に取っている。字を読めない者が、それでも王室への憎悪を原動力に本を手に取っている。
それに最近では『ジャンヌ・バロア回想録』にあやかったいかがわしい商売がなかなかの繁盛ぶりだそうで・・・・・街の至るところにカリカチュア(18世紀末ポピュラーだった風刺画・戯画のこと)が溢れ、その一部はベルサイユの内部にまで出回っているのだから驚愕するより他ない。

いかがわしい事この上ないのは事実なのだが、一方で生々しい好奇心と底なしの商魂で大量生産され、バラまかれるカリカチュアには、時折とんでもない生命力を感じ、違った意味で私は言葉を失う。

先日目にしたカリカチュアには“私”が描かれていた。
“私”が“王妃マリーアントワネット”と寝ていた。

裸の女ふたりが淫靡に絡み合う様はどうしようもなくグロテスクだったが、気になったのは“王妃”の腹部である。大きく膨らんだ腹にスウェーデン王室の紋章が刻まれている。これの意味するところは「胎児の父親はフェルゼンだ」という事だろう。

・・・・・いくらレスボス風に励んでみたところで女同士では子は生まれない。
寝台近くの揺りかごの中には可愛らしい赤子が3人、すやすやと寝息をたてているかのような穏やかな表情で描かれ、それがなんとも言えず・・・淫靡なカリカチュアの『救い』となっている・・・そして画全体からは、信じ難い事だが何やら繁栄のエネルギーすら感じ取れるのだ。
本来カリカチュアとはそういうものだろう。下品極まりなく悪意に満ちた中傷にそれはまみれているのだが、庶民が発散するエネルギーには素直に驚く。

こういうものが、王室にとって風紀上大問題であるはずのものが、王室の力ではもう取り締まる事が困難となり野放し状態でいるパリ。
そういう状況でジャンヌ捕縛を命令された我々は、十中八九民衆のデマに踊らされ振り回される事となったのである。


世紀のベストセラー作家であるジャンヌ・バロア。
人望などは露ほども無いであろうが・・・不思議な程のカリスマ性によって、徹底的に彼女は守られていた。
少なくとも民衆は彼女と彼女を取り巻く者たちを、積極的に我々に差し出すつもりなどはないようだ。
敵の敵は味方という事なのだろうか?

なんにせよ、一切の情報は王室を撹乱する為に作り上げられ、それこそ信憑性も何もない。
我々にとって今はまさに八方塞がりと言ってよく、最悪の状態であった。




治安大臣からの要請があってからというもの無駄な出動に一体どれだけの犠牲を払った事だろう・・・
近衛連隊を正常に維持する為に組まれた国家予算は平常時の倍のスピードで膨大な支出を余儀なくされ、ただでさえ危機に直面する国庫を日々圧迫している。
・・・いや・・・金銭面はあくまで二の次である。
【犠牲】とは命のこと・・・人命のことだ。


首飾り事件を境に、凶暴なやり口で王室に抗議してくる輩が急増した。その多くは武器弾薬について何の知識も持たぬ一般の農民、商人たちなので、いくら組織化したところで彼らの持てる力はたかがしれている。だが、稀に背後に貴族がつき遠隔操作されている場合があるのも事実だった。

傭兵と言っていいそれらからの奇襲攻撃により、実際に我々は数名の尊い命を失う事になったのである。


偽情報によっておびき出され、ジャンヌの潜伏先だと言う廃屋に閉じ込められたまま、一昨日、3名の尊い近衛隊士の命が失われた。半ば崩壊した廃屋に小隊が踏み込んだ時には得体の知れないガスが充満し、3名は既に息絶えた後だったのだ・・・・・
指揮官である私は、二次的な被害を避けるので精一杯であった。
何より先頭で踏み込まなかった自分が呪わしい。
部下を危険に晒し犠牲にし、それで隊長と言えるか?
あの時先頭に立たなかった自分を、部下を先に行かせ死なせてしまった自分を、私はこの先永遠に悔み続ける事になるだろう。

そして・・・立て続けにそれは起こった。
たった数時間前の出来事であるが・・・随分と長いこと闇の中を彷徨っていたように思う。

・・・再び、今度は目の前で部下が銃弾に倒れた。

有力筋から情報を得ての路地裏捜索中、廃墟の中に爆弾が仕掛けられているのを確認。発見者である部下が導火線を切断しようと単独で踏み込んだ。
しかし・・・爆弾は囮だった・・・
本当の危機は背後にあり、敵はライフルを構え容赦なく部下に照準を合わせ・・・・・そして危険を察知した彼が、銃弾よりも早く飛び出したのだ・・・。

彼に突き飛ばされなければ、狙われた部下は確実に命を落としていただろう。生きている事を確認し、部下は一瞬安堵したかもしれない。だが・・・次の瞬間、自分をかばって撃たれた上官を見て蒼白になり、絶叫が辺りにこだました。




ジェローデルの傷は致命傷には至らないまでもかなり深刻で、ともすれば後遺症が残るかもしれない。
彼は自分の危険を顧みず、部下の命を救いに行ったのだ。
それどころか・・・彼は飛び出して行く瞬間、私をも強く突き飛ばしていた。

私が駆け出したところを制止したのだろう。


・・・救われたのは私も同じ・・・

ジェローデルの体から噴き出した鮮血は・・・僅かな差で、私の体から噴き出すはずのものであった。


ひとの血液とはあんなに熱いものであったか・・・・・
止めどなく体外に流れ出る赤い血潮を力いっぱい塞き止めながら、恐怖で体が震えた。

ライフルを発射した男はジェローデルに撃たれると同時に死亡していたが、彼は死んでいない。誰に糸を引かれているのか分からぬが、街の愚連隊ごときにジェローデルが殺せるはずはない。


      



「無茶をする男だ・・・」

そう言えば、軍服以外の格好をしたジェローデルを初めて見る。

白いシャツがまだ血に染まっているのが痛々しい・・・だが相変わらず、彼は軍人の表情を崩さない。
普段から多くを語らない男だが今回は特に・・・このような状況において副官がこのざまであるのは不覚だと・・・一言発して、溜め息をついた。



たまには・・・ゆっくり安め。
私は、“片腕”を失くすわけにはいかない・・・