stories②

アニばらワイド劇場
(第5話~第8話)





第5話「高貴さを涙にこめて・・・」~暴発~



「今回の爆発は偶発的なものではありません」

重苦しい空気が充満する窓のない小さな部屋。
今朝方起きた銃暴発事件を検証していた二人の近衛兵は専門家の判断を待つまでもなく、事件が何者かによって仕組まれたものである事を確信していた。

装填された火薬以外に発見された微量の粉。精巧ではあるが細工の痕も確認できる。むしろ次期国王を狙った暗殺事件としてはがさつとも言える大胆さだった。


オスカルは堪り兼ねた様子でジェローデルをにらみつける。

「何故このような事が起こる?」

質問の意味は二通りに理解できたが、迷っている場合でもない。

「次期王位を狙うオルレアン公が業を煮やして殿下のお命を狙って来るのは当然かと・・・」

「何故このような稚拙な手段で来る?」

やはりそっちか・・・。
ライン河の拉致未遂以来、頻発する事件の首謀者が分かっていながら捕縛できない現状に隊長は憤っているのだ。いや、憤るという積極的な感情ではないかもしれない。むしろ・・・困惑?特定されている敵が野放し状態でいること、権力者の前ではベルサイユは殆ど無法地帯であること。近衛の役目はここへ来て一気に複雑化し、少しの予断も許さない。


「何故バレないと思える?・・・その自信は何処から来るんだ・・・」

殆ど独り言に近いトーンまで声を低くしオスカルは鉄砲をみつめた。
栄光あるブルボン王朝の紋章はすっかり焼け焦げ、奇妙に捻じ曲がった柄の部分からは未だに火薬臭が漂い、もの言わずただ無残な姿を晒す王太子の鉄砲。


「パレロワイヤルを家宅捜索する事は・・・不可能なのです」

押し殺したような男の声だったが、静まり返った部屋では妙に大きく聞こえる。
思わず視線の先を鉄砲からジェローデルの唇に移し、同時にオスカルの意識はパレロワイヤルへと集中していく。

パリ市内に広大に構えたオルレアン公の居城。何人たりとも主の許可なく立ち入る事を許されず、国王ですらその内部に干渉する事を躊躇う程の鉄壁の要塞、パレロワイヤル。

「恐らく、この鉄砲も・・・そこで偽装され、夜のうちにすり替えられた。厳重な管理体制の下にある王族の持ち物をすり替えるという行為自体、誰にでも出来得る事ではありません。犯人は同じく王族、オルレアン公爵です。それなのに・・・」

きっぱりとした口調で断定的にものを言うジェローデルの言葉が勢いを失い、その場の空気が一段と重苦しさを増す。

「残念ながらパレロワイヤルには手出しできないのです。あそこは言わば治外法権同然の領域で、国王でさえもみだりに踏み込む事を許されない。いつの頃からかパレロワイヤルは反体制派の明らかな巣窟になっていると言うのに・・・」




ベルサイユで起きる不可解な事件の糸を辿れば行き着く場所、それがパレロワイヤル。

その糸はより強靭な天蚕糸となってパリ市民を扇動し、やがてベルサイユを、王室そのものを揺さぶり動かす強大な力を持つだろう。
目に見えない天蚕糸が変革を熱望する者たちを呼び寄せ、その情熱と野心とを糧に蜘蛛の巣のような狡猾さで増殖する。



まだ見えない、まだ聞こえない・・・。
だが、得体の知れぬ不安感は王室警護を使命とする者たちをじんわりと震撼させ、ほんの微かな予兆は次々と肌を覆い神経の隅々に緊張せよと命じてくる。


ジェローデルの唇から再び無残な鉄砲へと視線を戻したオスカル。その目に痛々しく映る焼け焦げた百合の紋章・・・・・今度はそのまま、瞼を閉じる。




・・・・・・暗闇の中に迷い込んだ一匹の無邪気な蝶が、巨大な蜘蛛の巣に絡めとられ、喰い殺される悪夢を見た。






第6話「絹のドレスとボロ服」~懐古~


見上げた空は、今日もまた抜けるような碧さだった。

王太子夫妻が初めて正式に首都パリを訪問した日から数日。
空から降り注ぐ陽射しは日に日に勢いを増し、庭園に植えられた緑という緑すべてが青々と生い茂り夏を呼び込む。
空の碧さと地上の緑、豪奢な宮殿を背景に跳ね上がる噴水は、いつの間にか空中に大きな虹のアーチを描いている。

今、ベルサイユは若い生命力で満ち溢れていた。




「あの時の我々の判断に間違いはなかった」

庭園を見下ろす巨大な窓から絶え間なく注がれる初夏の陽射し。ベルサイユにしてはやや武骨な調度品で揃えられた地味な部屋ではあったが、語り合う二人の軍人の心は明るかった。


「この陽射し、我々にはもう眩し過ぎるが眼下に並ぶ若き武人たちにとっては実に似つかわしい」

陸軍総司令官室から近衛隊の練兵場を眺めながら、ブイエ将軍の口をついて出た言葉は一抹の寂しさを感じさせたが、それは同時に世代交代を喜ぶ安堵の意味でもあった。


「三年もあれば、その人物の持てる力はすっかり測る事ができる。君は立派な跡継ぎを育てた。彼女は実に優秀な人物だと思うよ」

ジャルジェ将軍にとって気恥ずかしさは否めなかった。
ブイエ将軍はオスカルを常に『彼女』とあらわす。軍人として優秀な人物だといくら褒められたところで娘に男のなりをさせているという不自然さはこのような何気ない瞬間、思い知らされる。だが、それから目を逸らす事は許されない。オスカルは女なのだから。


短く頷きながらも恐縮したような面持ちで沈黙するジャルジェ将軍。その複雑な表情から何かを察知したブイエ将軍は、司令官の顔から友の顔になり豪快に笑ってみせた。


「彼女と言ったのが気にいらんのかね?我がフランスには類まれな才能と実力を誇る素晴らしい武官がいる。その人物は近衛隊長という地位につき、部下たちの信頼を一身に集め、何より王太子ご夫妻から深く愛されている。君の娘さんがその人だ。・・・オスカル君は、間違いなく人々の価値観を変えているんだよ」


ブイエ将軍の表情はいつになく優しい。軍隊という場において無謀な挑戦でしかなかった自分の決断が・・・今こうして認められ、未来を切り拓いてゆく。



「誇りに思いたまえ」

穏やかな口調でそう言うとブイエ将軍は再び練兵場を見下ろし、若き近衛士官たちを眩しそうに見つめた。


「あのように・・・輝いていた時があった。我々にも・・・」

細めた目線の先に隊長のオスカルがいる。
副官のジェローデルがいる。そしてアンドレと大勢の近衛士官たちがいる。


引き継がれていくのだ・・・こうして。



青年の日々・・・紺碧の空を見上げながら神経を研ぎ澄ませ、体を張って一心に尽くした主君はまだ健在ではあるが、いずれそれも後継者に引き継がれてゆく。

「すべてはフランス王家の繁栄のために!」


心地よい懐古の中で同じ思いを胸に抱く二人の軍人。
その視線は初夏の陽射しよりも熱いものとなって若き武人たちに注がれる。



円熟期を迎え、益々濃く緑萌ゆるルイ15世という大樹の下、ベルサイユはまだすべてを焼き尽くす灼熱の太陽を知らない。

1772年、6月。
地上に届く木漏れ日が、時折りあたりの異様な暗さを照らし出したとしても、ベルサイユは今最も幸せな時代を過ごしていた。







第7話「愛の手紙は誰の手で?」~脱出~



「・・・間一髪だったなぁ!」

改めて呟いたアンドレの一言により、今夜の事件の顛末が鮮明に脳裏を駆け巡る。

完全に油断していた。相手は人の命を命と思わぬ。「目障りな人間は消せ」それを徹底する事で、彼女は宮廷一の権力を誇る立場まで成り上がって来たのだろう。

じりじりと服を焦がして今まさに皮膚にまで到達せんと襲いかかった業火を、振り切る事ができたのは運が良かったからだ。もし完全に逃げ道を塞がれていたら・・・窓の外が川でなかったら・・・我々の命は簡単に奪われ、証拠は隠滅されていただろう。

だが今それはオスカルの手の中にあった。
水に滲み、幾分心許なくふやけてはいたが、まだ十分に判読可能な状態を保つ動かぬ証拠。
『マリー・アントワネット』と署名された部分が濡れて異様な形の黒い染みになっている便箋を見つめ、オスカルは全身に走った恐怖を思い出す。

敵は遺体を確認するつもりで何処かに潜んでいたのだろうか?
それとも火を放つだけ放って後は逃げ去ったのだろうか?

ずぶ濡れで馬を駆ったベルサイユへの帰路は、怒りで全身煮え滾っていた。
だが今、静かに湧き上がってくるのは不思議と生きている安堵感のみ・・・ベルサイユ宮の近衛執務室に戻った三人はようやく息をついて互いの無事をゆっくりと確認する。
煤まみれの酷い様相で佇む姿が明るい部屋の中の鏡に映し出され、今更ながら息を呑む。



「・・・間一髪だったなぁ!」

シンプルなアンドレの呟きはじわじわと三人の体を包み、湿った衣服の不快感が脱出できた事の幸運をより強く実感させる。道すがら、吹き付ける風によって中途半端に乾かされたものの・・・三人の姿はお世辞にも《美しき近衛士官》とは呼べない無残なものとなっていた。


「そう簡単に消されてたまるか・・・」

今度はジェローデルが呟き、背筋を正す。


「どんな悪辣な策謀であれ・・・必ず阻止し、命の限り王太子ご夫妻をお守り申し上げる」

最後オスカルの言葉はそのまま、新たな結束を誓い合った三人の固い決意となった。








第7話「愛の手紙は誰の手で?」 ~白昼夢~


「・・・でな、あいつときたら・・・まぁ偽手紙の一件が尾を引いてるんだろうが、こういうものを見ると吐き気がする!って言って、ビリビリーーーと破って、ポイッだ」



目の前の男が先程からワイングラス片手に虚ろな目で語っているのは例によって一般的な貴族の生活風景ではないだろう。だが、大変興味深い。

平民でありながら由緒ある貴族の屋敷に雇われ次期当主たる人物の護衛を任される。更に日常的にベルサイユ宮へ伺候しているとなると・・・さて、どんな事情と才覚と運があればその地位に付けるのか?先ずはその点に興味をそそられた。だが付き合いが深まるうちに この男の話すことすべてが面白くなり、創作意欲が刺激され、今では気安い飲み仲間を越えた大事な存在だ。

特権階級のやつらの我儘を四六時中聞きながら頭を垂れる日々・・・
貴族の護衛なんてものはさぞかしストレスが溜まる仕事だろう。
可哀想に・・・身も心も疲弊しきっているに違いない。

最初のうちはそうやって、彼に同情していた。


だが、俺の貧困な想像力などは追いつけないところに、どうやらこの男は居るらしい。


見るからに上等な身形というわけではないが、アンドレはいつも綺麗にしていた。
ん?男に綺麗という表現はどうかな・・・?小説家を目指していながらあまりにも単純でつまらないこんな言葉しか出て来ない自分がほとほと嫌になる。
う~・・ん、そうだな・・・絶妙なさじ加減で嫌味なく上流階級の薫りを漂わせ、牧歌的だが品もある。おまけに気さくで話しやすい。・・・こんな男ならきっと女にもモテるだろう。ベルベッドのリボンでしばった黒髪が少し乱れて、前髪から覗く眉毛がキリッと男らしい。あどけなさを残しながら時折 妙に色気のある瞳は、今は酔っ払って充血気味だったが見つめられると思わず笑い返してしまう人懐っこさがある。そして何より、やっぱりこんな店はおまえには不似合いだと思える高貴さが漂っていた。

美少年という言葉は、ちょっと違うな・・・

野郎の姿をこんなにもまじまじと観察したことはないが、見れば見る程アンドレは“綺麗”な男だった。あと数年もすれば更に魅力的になるだろう。
幼さが抜けきらない今の様子も微笑ましかったが、男は大人になったアンドレの姿を想像してニヤッと笑った。



「どうしたんだ、ニヤニヤして?・・・なぁ、ひどいと思うだろ?読むだけ読んでやればいいものを・・・」

「差出人が女なら読んでいるんだろう?」

「ああ・・・そうだな。うん、女からの手紙なら、読んでるな・・・」

アンドレはポカンとした表情で酒場の濁った天井を見つめると今度はクスクス笑い出した。

「そりゃ~・・・さすがのあいつだって乙女の恋心を無下には出来ないさ。真剣だものな・・・恋の前では性別とかはもう、関係ないのかもしれん」

薄汚れた天井のシミをどういうわけか愛おしそうに見つめてアンドレが呟くのがおかしくて、茶々を入れてみる。

「男からの恋文は鼻もかんでもらえずに即破り捨てられるんだろ?性別は関係あるんじゃないのか?」

「ああ?・・・・・そうだなぁ・・・」

笑顔が消え、目を瞑ったかと思うと・・・今度は声を上げて笑い出した。

「おい・・・アンドレ?」

「何故だか あいつは恋文って決めつけてるけど、贈られてるのは実は恋人を取られて怒った男達からの抗議文か、或いは果たし状かもしれんぞ。ははははははっ!・・・でなきゃ・・・どんな愛の言葉をあいつに囁こうっていうんだ・・・・?」

言い終わる頃には又してもうつむいて、今度は儚げに頬杖をつくと目を潤ませていた。
いつにも増してコロコロとめまぐるしく感情が入れ替わる。いやー・・・忙しい男だ。




彼は主人であり、尚且つ近衛隊長をつとめる幼馴染みの貴族の令嬢に淡い恋心を抱いてしまい、悶々とする日々を送っていた。

冗談でもそうそう思いつかない奇想天外なシチュエーションだと思う。

その上での彼の身の上話を聞いているうちに、何やら自分が壮大な冒険旅行にでも出たような気分になり、一緒に笑ったり落ち込んだり・・・気が付けばアンドレ・グランディエという無謀なヒーローに、俺はファン1号として会う度にささやかな拍手と声援を送るようになっていた。



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「・・・というわけで、逆に不健全だと。最近は屋敷の仲間からも心配される始末だ」


3倍目のグラスを空にして、気持ちが盛り上がって来たせいか自虐的な話がかえって心地いい。
もちろん、酒が入ったせいでこんな話をしている。
素面の時は・・・・・あれ?最近は夜こうして会うばかりで昼間に会話することがなくなったが、もともとは絶対君主制に対する微かな反発心に共鳴し合った仲だ。

教会の管轄下にあった学び舎から上級学校へ上がる栄誉を共に得て、俺たちは親交を深めた。本が好きで優秀だった彼は卒業後すぐに神父様の勧めもあって王立図書館の司書見習いとなり、今では自分でも何かを書いているらしい。
何を書いているのかな・・・?初めはコルベールが集めた東洋の写本を一般市民向けにこつこつ翻訳していたようだが、今は独自の感性で物語でも書いているんだろう。自由な発想の持ち主で、物事を決して頭から否定しない人柄はなかなか魅力的だった。

そんなわけで・・・・・ついつい彼の前だと喋り過ぎてしまう。誇張しているつもりはないが彼の反応はいつも予想以上で、随分と興味深げに耳を傾けてくれているところをみると・・・そのうち俺に似た境遇の主人公が大活躍する話が読めたりするんじゃないかな?・・・と、密かに期待している。

喜劇になるか悲劇になるか、それは分からない。


“王立図書館に収められた15万冊の書物を紐解いても、おまえみたいな奴は多分いないだろうな”

どういう意味かは知らないが、とにかくそれが彼の・・・カミーユの、俺に対する口癖だった。




「俺も、悪いがそう思う」

笑いながらそう言い放たれ、空のグラスに再度ワインを注がれた。


「このまま不毛の愛に身をやつして干乾びたいのなら勝手にすればいいが、そのうち性犯罪に走ってお手討ちとかな・・・そんな姿はさすがに見たくない」

言いやがる・・・。
辛いところだ。・・・くそっ・・・!数カ月前の俺ならまだ余裕があったろうが、今は否定し切れない。


俺がオスカルに襲いかかるだと?
ない。それは、ない。有り得ない。そこまで理性を失くすくらいならピレネー山脈の熊と格闘した方がまだマシだ。勝算だって、その方がきっとある。

なみなみと注がれたルビー色の液体を眺める。
身体以上に頭が熱く火照って、なんだか目の前がぐるぐるし始めた。


俺は理性的な男だから、大丈夫!そんなことはしない。


だが・・・、もしも・・・・・あいつから迫って来たとしたら・・・どうだろう?




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「また朝帰りなのか?」


今朝もまたオスカルに見つかった。
早朝の冷え切った屋敷の空気とオスカルの視線に首をすくめてみせると彼女は怒ったような悲しいような複雑な表情で溜息をついた。

「3日連続か・・・・・夜の街が楽しくてしょうがないらしいが、いい加減にしないと―――」

「楽しくなんかないさ」

ぶっきらぼうにそれだけ言ってクールに立ち去ろうとしたが、後ろから腕を掴まれた。

「・・・・・・・?」

そういえばオスカルの服が昨夜出掛ける前に見た時のままだった。
瞬きを繰り返す瞳が赤い。青白い顔で・・・俺以上に疲れた顔をしている。
もしかして、一晩中寝ずに待っていたのだろうか・・・?

「オスカル、おまえ・・・」

言いかけた言葉を白く長い女の指で遮られる。


「なんて顔をしてるんだ・・・アンドレ・・・・」

潤んだ瞳に至近距離で見つめられゾクッとなる。


「毎夜パリへ出掛けて、スッキリして帰って来るのならまだしも・・・日増しにやつれていくようだ。どんな相手と夜を過ごしているんだ・・・?何故そんな暗い顔をしている?楽しくない夜遊びを何故するんだ?」

どういうつもりなのかオスカルは益々距離を縮め、俺の唇わずか数センチのところで悩ましく囁いた。
途端に俺は、どうしようもなく泣きたくなって、眉間の辺りがツンと痺れる・・・。

駄目だ・・・オスカル。それ以上俺に近づいたら・・・・・・
俺は、俺は、もう自分を抑えられない。


「アンドレ・・・、おまえには私がいるだろう?もうパリなんかには行かずに、そういう気分の時は、私を好きにすればいい」


・・・・・・・“私を好きにすればいい”・・・・・・・?


とんでもなく優しい声でそう呟くと、オスカルは俺の外套を脱がすように手を差し入れた。そして・・・安物の香水と酒の匂いの染み込んだ外套が床に落ちるのと同時に、俺は理性と道徳心を綺麗さっぱり失った。


細い身体を思い切り抱き寄せると、逃げようともせずオスカルは・・・
俺を見つめ・・・やがて、静かに目を閉じた。




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「おい、アンドレ。・・・おい!・・・・・大丈夫か?」


彼は妄想に浸ってうっとりとしていた。

見慣れてはいたが その姿があまりに面白かったので声を掛けるのを止めて暫く見ていようかと思ったのだが、店主に空のボトルを見つけられ次を勧められてしまったので仕方がない。それに、先ほどからチラホラと感じる女たちの視線も気になった。外套を抱き締め恍惚となる男に黙って寄り添う男ということで・・・万が一にでも変な関係と思われたらアンドレにとってマイナスだ。相当に手強いおとこ女に惚れてるらしいが、本物の男には・・・こいつは興味なんかあるまい。
と、なんやかんや逡巡している間にアンドレは我に返ったようだ。


「ここまでだ・・・」

「は?」

アンドレは頬を紅潮させつつも真剣な眼差しで語り出した。

「ここまでなんだ。誓って、これ以上はない。この先を想像したとして・・・いや、出来ない。顔を合わせた時、どうしていいか解らないからな」

「何言ってるんだ・・・?おまえの妄想の詳細を、別に知りたいとは思わないよ」

言いながら堪えきれず吹き出してしまった。

変わった男だ。自分以外にも随分と出来る奴がいたものだと嬉しくなり一挙手一投足に気を配って観察してみてからというもの、俺はアンドレの大胆なロマンティストぶりに驚かされるばかりだ。
貴族に日々かしずいて生きているのが信じられないくらいにいろいろと自由なところをみると、彼はさぞかし恵まれた環境にいるに違いない。そして、アンドレが夢中でいるオスカル嬢・・・・・

片時も離れず彼と共に育ったのならば、彼女もきっと・・・・・いい人間なのだろうな、こいつみたいに・・・。素直に、そう思う。



   

  
「なぁ アンドレ、身分制度ってやつをさ・・・どう思う?」


冷や水を浴びせられた・・・という程でもないが、現実に引き戻された。

そろそろ帰ろうと思っていたところだし、酔い覚ましにはちょうどいい話題だ。
だが・・・カミーユのことだ。分かって振って来てるんだろうなと思いながらも、微かな苛立ちを覚える・・・
話したこと全てが急に恥ずかしくなるじゃないか!

ああ!・・・分かってる・・・分かってるさ・・・・・。



「それは前にも話したじゃないか。俺は上級学校で啓蒙主義について学ばせて貰ったって事だけで感謝してるよ。絶対王政の世の中と言えど、人民ひとりひとりの心まで王が支配できるものじゃない。本当なら、俺は今頃 修道士にでもなっていたかもな・・・そうしたら、こんなところで友達と酒を飲んで馬鹿な話で笑ってはいられなかった。感謝してるんだ、本当に・・・旦那様には。身分制度については・・・・・大丈夫。分かってるよ、カミーユ」


  

意地が悪いな、俺は・・・・・
先程の問い掛けがひどく悔やまれた。そう、分かってるんだ、俺たちは。夜のこんな場所で、別に話さなくてもよかった。そういうことを・・・むしろ忘れる為の時間だったのに。

アンドレは笑いながら水を一口飲んで、次の酒をと盛んに薦めて来る店主に済まなそうに手を振っている。


そうさ。分かってるんだよ・・・・・・おまえは・・・・。




「あのー・・・・もう一杯いかがですか?先日ボルドーから仕入れたもので、うちでは一番上等のワインです。あの・・・ね?お願いします・・・もう一杯・・・」

この店で一番上等だと思われる娘が、気が付けば申し訳なさそうに赤褐色の高級ワインを差し出していた。
店主に行って来いと尻を叩かれたのだろう。チラッと後ろを振り返って首をすぼめている。それからアンドレを見て顔を赤らめた。強引な接客に後ろめたさを感じているのはアンドレに好意があるからだろうな・・・・・この娘を使ってどれだけぼったくる気なのか、やれやれと思って軽く睨んでやると店主は意味ありげにニヤリと笑って厨房へ消えた。


「悪いなぁ、今夜は帰るよ。近いうちまた来るから、それは取っておいて」

娘は「はい」と小さく返事をするとワインをリザーブした俺ではなくアンドレに、にっこりと微笑んで去って行った。

「飲み足りないな・・・よし アンドレ、店を変えよう。いいところへ案内してやる」

「え?今夜はもういいよ・・・また次の機会に―――」

「アンドレ、いいところへ案内してやるって言ってるだろう?」



ホントに意地が悪いな、俺は・・・・・・!

一旦沈んだ気分が妙なことをきっかけに再び盛り上がった。
さっきの娘の何十倍もの強引さでアンドレを店から連れ出す。


「おまえの、さっきの妄想のな・・・続きをみせてやる。ふふふ・・・世界が変わるぞっ・・・付いて来い!」



   
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「朝帰りか?」


背後から響いた声に思わず飛び退くと目の前にオスカルが居た。


「アンドレ、なんて顔をしてるんだ?驚いたのはこっちだ」


朝からよく通る声で・・・酒と、あと他にもうひとつ体験したことの興奮から覚め切らない頭にオスカルの凛々しい声は痛いくらいにキーー・・ンと響いたが、俺はもう昨日までの俺じゃない。
目を見開いて、ここはあえて堂々と対峙してみよう!
・・・・・と、一瞬思うも、駄目だった。

なるべく目を合わせないように、朝のご挨拶をしてみる。


「おはよう・・・オスカル。今朝はまた随分と 早起きじゃないか」

「そうか?出仕の時刻まであと2時間。普通だと思うが。・・・・・・・・・・・?」


・・・妙な間があった。
不穏な空気が漂い緊張が走る。

沈黙に耐えられずオスカルを見ると、不思議そうに彼女は俺を見つめていた・・・
どうしてなのか、初めて出会うひとを見るような目で、オスカルは俺を見つめていた。
不機嫌な様子はない。ただ・・・不思議そうにしていた。

そうだな・・・・・・・もしも馬が背後で、人の言葉を喋ったとしたら、振り返ってこういう顔をするんじゃないだろうか?

そんな風な顔を・・・オスカルはしていた。


「・・・・・・・・・・・・」

「オスカル・・・?」

「・・・え?・・・・あぁ、そういうことか」


突然何かに納得したように瞳を光らせ・・・・・
それきり、何も言わずにオスカルは行ってしまった。



取り残された俺は独り、目を閉じる・・・
ズキズキと痛む頭の中に言葉を喋る馬がぼんやり現われ、俺に向かって一言 「バカ」と呟いた。








第8話「我が心のオスカル」~絆~



あれは妃殿下の気まぐれに端を発した、退屈を紛らわす為のほんの僅かな戯れの時間であった。
だから見守る貴族もごく親しい者が数名と、護衛もこれといって付いてなく、王族としては珍しいくらいにプライベートな雰囲気の中での楽しい乗馬体験・・・そうなるはずだったのだ。

ところがどうだ?一体なにがあった?

今しがた私の耳に入った緊急報告では『楽しい乗馬体験』は【不注意による大惨事】となり、妃殿下は落馬によるショックで意識不明。側近は何をしていた!?と王族たちはここぞとばかりに声を荒げて近衛を罵倒している。
しかも・・・アンドレに逮捕状だと?

烈火の如く怒ったルイ15世陛下はろくに報告も聞かず、傷だらけの彼を強引に引っ立てた。
事故現場に居なかった私が「事情を尋ねるのが先だ」といくら訴えたところで耳を貸す由もない。何が起きたのか解らぬまま、陛下の独断でアンドレが牢獄送りになるのはまず間違いなく、それどころか即日処刑と言う事も、十分に有り得そうな状態だった。
・・・それで私は隊長に、その状況を伝えに行ったのだ。

私はてっきり、隊長は今回の不始末には関与していないものと思っていた。
いや・・・王太子ご夫妻の身辺警護の筆頭として、もちろん現場には居たはずだが・・・まさか隊長自らがその身を犠牲にして、最悪の事態から妃殿下を救っていたとは思わなかった。

・・・何故思わなかったのか!?

ああ・・・何故自分こそがその場に居合わせなかったのか!?

アンドレが逮捕と聞くなり隊長は、血相を変えて私の胸ぐらにつかみかかって来た。
そして信じがたい事だが・・・その瞬間、彼女の意識は妃殿下から自分の従僕へと完全に移行していた。
か細い腕で私の喉元を締め上げる。その右腕の付け根の部分に見た恐ろしい光景・・・

血が噴き出していた。

純白の軍服は上体の右側部分だけが不自然な程に鮮やかな紅い色に染まり、なおも滴るように滲み続けていた。

・・・なんだこれは・・・?
何故こんな大怪我をしている?
・・・気付かないのか?隊長のこの怪我に、誰ひとり気付く者が居なかったのか!?


私は半分気が動転し、滲み続ける隊長の鮮血とは裏腹に、自分の顔からはどんどん血の気が引いてゆくのを感じていた・・・



「隊長・・・その怪我は・・・一体どうされたのですか!?」


その時、恐らく私は情けない程に蒼白な顔をしていた事だろう・・・そのうえ混乱のあまり不躾にも両手で彼女の体をつかんで振り向かせ、傷口を間近で見ようとした瞬間・・・・・・・
隊長は我を失ったように駆け出していた・・・私の言う事など、まるで耳に入っていないかのように。
それどころか、私が体に触れていた事すら・・・恐らく彼女は気付いていない。

大理石の床に点々と血の跡を残して、隊長は引っ捕らえられた従僕の元へと駆け出していた。



後を追いかけ、広間に飛び込んだ私の目の前で隊長が見せた行動・・・。
その一部始終は新たな衝撃を持って、私の旧態依然とした世界観を変えてゆく・・・


桜吹雪の中での決闘以来、思えば私の鮮烈な体験と言えば、常に隊長と共にあった。
隊長の何気ない仕草がくすんだ景色に彩を与え、隊長の卓越した行動力が私に「己が軍人であること」を熱く自覚させた。そして今・・・彼女は身分と地位と、命すらも投げ打って、ひとりの人間を救おうとしている。

アンドレ・グランディエ・・・いよいよ彼は、ただの従僕ではないようだ。
いや、オスカル・フランソワと言う人間こそが錆び付いた既成概念を越えて存在する、稀に見る尊い人物なのかもしれない。

『アンドレを咎めるというなら、まず主人である自分の命を絶つがよい・・・』

 


愚かなことだが・・・考えずにはいられない。

窮地の際にこうまで力強く立ち塞がり、全力で守ってくれる相手が、自分にいるだろうか?

・・・そう愚かなことだ・・・私は今ある価値観や語彙の中ではとても表現できない感動の中で、またしても平民のあの男に嫉妬している。
隊長のみならず、名のある貴族や妃殿下にまでも庇われ、救われようとしているあの男に・・・確かに私は嫉妬している。


ああ・・・!私がその立場だったとしたら・・・
隊長に命がけで庇われ、主従の身分差など関係ない、強い絆で結ばれているのが私だったとしたら!!


オスカル・フランソワ・・・貴女は信じがたい程の清廉さで、次々と私の世界を変えてゆく・・・

気が付けばまた・・・私の中で何かが呼び起こされていく・・・


揺るぎない、貴女との絆を求めて・・・!







第8話「我が心のオスカル」~絆Ⅱ~



オスカル・・・オスカル・・・
心で幾度となく繰り返す。気がついてくれ・・・目を開けてくれ・・・


両手に包んだおまえの肌から・・・ひとの温かさが伝わる。

横たわったおまえの蒼白な顔を見つめながら、馬鹿な俺は怖くなって、おまえがこのまま永遠に眠り続けてしまうのが怖くなって・・・何時間もおまえの手を離さずにいる。おまえが起きたら、真っ先に「痛いぞ」と苦情を言いそうな程に強く・・・その手を握りしめている。

「俺は、永遠におまえを支える影になる」そう心に誓ったはずなのに・・・もろかったよ。
俺は支えるどころか、おまえの後にすがって溜め息をつく情けなしだ。

おまえを独占できない事が辛いと思った。
一心にアントワネット様に尽くすおまえを、薄情だと思った・・・

このうえなく幸運な自分の立場を忘れ、自分だけがいつしか取り残されていくような気がして・・・おまえを見失っていた。
・・・なんの為に存在していると思っていた?俺はオスカルの一体何なんだ!?

・・・・・・許してくれ・・・・・こんな役立たずでいた俺を・・・




人生にはある時突然、終わりが来る。

俺は今日がその時だと思った。やけに冷静にそう思って・・・諦めた。もう何も考えなかった。

・・・だがオスカル・・・おまえは来た。
俺がすっかり諦めて、すべて終わっても仕方がないと思った時に・・・おまえは来てくれた。

・・・信じられなかったんだ・・・。おまえが来たことが。
俺の為に命をかけてくれたことが・・・咄嗟には信じられなかった。

それが馬鹿って事だよ・・・な?
オスカル・・・おまえなら、そうする。俺を救う為に、命をかける。

・・・おまえはそういう奴だから・・・


俺は何にこだわっていたんだ?何を妬んでいたんだ?
おまえの心が見えなくなった・・・そう思ったのは自分自身を見失ったからだ。

馬鹿野郎・・・自分に問いかけろ!
オスカルにじゃない、自分の心に聞いてみろ!!


俺がオスカルを大事に思うなら、くだらない嫉妬はもうするな。


同じ想いでいる・・・
俺たちはいつも、同じ想いでここにいる。
・・・オスカルは絶対に死なない!



もうすぐ朝だ。太陽が昇って・・・新たな一日が始まるんだ。

オスカル・・・目を覚ませ・・・オスカル・・・戻って来い・・・!



「オスカル!!」