読書について

 

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ノルベルト・フライ 著1968年 反乱のグローバリズム

 

<トピックス>

高橋たか子死去

第7回大江健三郎賞
公開対談


英語で読む村上春樹

 多和田葉子の作品を初めて読んだのはいつの事だったのか、また、どの小説だったのかは覚えていない。しかし、読み進むに連れ不思議な感覚を覚え、そしてその物語の中に引き込まれていったのは覚えている。
 多和田の書く世界はリアルな世界ではあるが、彼女が現実に見た世界そのままではない。かといって安部公房のようにシュールでもなく、小川洋子のように幻想的でも、奇譚でもない。村上春樹のようにパラレルワールドを使ったマジックリアリズムでも寓話でもない。それは彼女が経験し、感じた事をそのまま文字に表したものである。うまく説明は出来ないが、公房やハルキ、洋子が知性で書いているのに対して、多和田は感性で書いていると考える。つまり肉体で感じた事を、脳という知性を司る機関を通さずに、そのまま小説に書き出しているように思う(勿論、それは事実ではなく、彼女はドイツ駐在の博士で知性を十分に持っているのだから、一度、脳という機関は通しているのではあるだろうが)。
 だから、彼女にとってはリアルであるのでリアルそうに書かれるが、書かれた世界は現実にある世界ではない。


 多和田の小説の導入はリアルであるが、その舞台となる地がどこなのかは分かりにくい事が多い。日本でなく、ヨーロッパのどこかであることは分かるのだが。そして、仮に明確であっても(明確になったとしても)、彼女の小説ではそれがどこであるかは余り意味をなさない。 だからといって彼女の書く世界がグローバルな世界という分けではない。モザイクの様につながっているヨーロッパの国々それぞれに共通な、あるいは特殊な世界である。それは彼女が、ドイツで長く生活しながら、未だにドイツ人でもなく、日本人でもない、という感覚を抱いている事を意味するだろう。


 導入はリアルであっても、読み進むうちに”あれっと”思う場面に多々遭遇する。立ち止まる事もあるが、その流ちょうな語り口と面白いストーリーに引きずられ、ついそのまま読み進んでしまう。 難解な話しを読んだ筈なのに、何故か読後感は爽快である。これが多和田ワールドである。

 

・かかとを失くして(1991年群像新人文学賞当選作)

kakato 群像2013年10月号は「はじめての小説」特集であり、その"アーカイブ"として多和田のデビュー作である本作が載せてあったので読んだ。
 内容及びその疑問については、同誌に掲載されている清水良典の連作評論「デビュー小説論 境界を創った作家たち」(第1回 )に詳しく書かれているので、私が更めて書き加えるような事柄は少ない。そこにはこの作品のあらすじが左の様に書かれている。


 新人賞の選評で柄谷行人はこの小説について以下(左)の様に述べている。それに対して、多和田本人は以下の右の様に受賞の翌年に述べている。柄谷の感じた事も読者として意味のあることなのだろうが、多和田の意味するところは、もちろん、彼女が述べた事なのだ。
 この小説には「かかと」以外にも分からない事が一杯出てくる。清水は逐一それに答えを出している。

 例えば、「私」がけつまずいた時に卵のつぶれた音がしたのにそれは無事だった。では、いったい何がつぶれたのかというと、「いわば母国から抱いてきた卵のようにナイーブな「国際化」の夢想」なのではないかという。また、「書類結婚」が80年代の「国際化」のアレゴリーであるという。

 

karatanitawada

「私」が学ぶ「初心者総合専門学校」 の女教師は、「階級的な格差」の話しをする。どうも教師たちと同じ階級になるには、「かかとを腫らさなければならない」らしい。これは、多和田のヨーロッパに対する揶揄の様な気がする。しかし、「私」は毎日見る不思議な夢に誘導されて「イカの夫と結婚」し、そして夫の死で、自由になる。これは、ヨーロッパの世界に適応したいという多和田の希求であり、そして旅立ちを表しているのではないだろうか?
 多和田には、この日本語によるデビューの前に既にドイツで2冊の著作があったらしい。だから、処女作とは言い難いが 、この作品は後々の作品を形作る要素を顕わにしている。そんな意味で、多和田作品を鑑賞するためにはとても重要な作品と言えるだろう。