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 高澤秀次:『金石範論ー『在日』ディアスポラの『日本語文学』』
  (文學界2013年9月号掲載)

 一時、私は在日朝鮮人(韓国人)作家の小説を好んで読み、わけても李恢成金鶴泳李良枝については、当時発表された作品の殆どを読んだ、と言っていい。
 金石範については、『鴉の死』の文庫本が本棚に収まっている。『万徳幽霊奇譚』も読んだ様な気もするのだが本が見あたらず、ちょっと曖昧である。ひょっとしたら雑誌掲載時に読んだのかも知れない。しかし、彼のライフワークである『火山島』(全七巻、原稿用紙11,000枚分)は、1行も読んでいない。この評論の(3)済州島四・三蜂起事件/『火山島』の方へ (4)四・三事件の集結/李芳根の終焉 が、評論というよりはどちらかというと作品の解説になっていることもあり、読んで見た。2段組52ページ の内の28ページと1段をこの二つの章で費やしている。
 しかし、これは題名を見る限りにおいては文芸評論である。そも文芸評論とは何か、という事である。最近、文芸評論とは、対象とする作家、作品と対峙し、自らの思想を述べる事ではないか、と思うようになった。今さら何を言っているのか、と言われるかも知れないが、意外と自らの思想(考え)は脇に置いておいて、作家や作品に添って批評する論文が多いと思うからである。
 そういう点からすると(1)なぜ日本語だったのか/『鴉の死』から、(2)金石範の『発語』/金時鐘の『沈黙』 は、評論に近いだろう。ただ、主張しているのは一つである。『金石範の小説は、日本文学の一部ではない。しかし、日本語文学の作品と言うことはできる。』 。それは、この評論の冒頭に掲げられた以下の金石範の言葉に依拠している。
 在日朝鮮人は日本の朝鮮植民地支配によるディアスポラであり、そのディアスポラによる文学が在日朝鮮人文学であって、世代を重ねるにつれて変容しながら現在に至っている。……日本文学でない、日本語文学としての『在日』文学は、まずディアスポラの歴史性によるものであり、日本文学を含めての高次の日本語文学の概念は、私のこれまでの『在日』文学に対する考えを前提にしての総論的な見解である。(金石範『国境を越えるものー『在日』の文学と政治』あとがきより)

 

 本当にそうだろうか?そして、日本文学とは何なのか、という事である。
 金石範自身が上記の様に言うのは肯んじる事はできる。彼は在日朝鮮人(韓国人)作家の中では唯一と言って良いほど半島の言葉で書けるので、朝鮮語(あるいは韓国語)で書きたいらしい。しかし、本人の発表の場は日本であるので、日本語で書かなければ読んでもらえない。それは日本が朝鮮を支配下に置いたために招いた事柄である。実際、朝鮮総連の専従をしていた時代、彼は「火山島」の初稿500枚をを朝鮮語で書いていたという。しかし、組織から離れることとなり、発表の場を求めて更めて日本語で書き直し始めたらしい。 彼がもし韓国籍なり(北)朝鮮国籍を取得しているならば、発表の場を半島に求めることもできるだろう。しかし、彼は政治的信条から統一朝鮮国籍のままであるので、それをする事はままならない。だから、上記の様な発言となり、日本文学ではなく、日本語文学となる。
 しかし、高澤氏がそう言う風に言うことは肯んじ得ない。
 私は日本文学とは、日本の歴史や文化を踏まえた文学であると思う。だから、日本で生まれ日本で育った金石範の文学は紛うかたなき日本文学であると思う。これが、朝鮮半島が日本の支配下にあり、半島の歴史や文化を踏まえているにも関わらず、日本語で書かなければならなかった場合には別である。中国人である楊逸(やんいー)や米国人であるリービ英雄が書いてもそれを日本語文学とは言わないであろう。それらも日本文学である。日本以外の国の歴史や文化の影響下にありながら日本語で書いた小説なら日本語文学と言えるであろう。カズオ・イシグロは日本人であるが、英国の歴史や文化を踏まえ、英語で書いているからイギリス文学である。決して英語文学とは言わないだろう。私は言葉の定義を問題にしているわけではない。その文学の本質を問題にしているのだ。高澤氏の考え方に私は納得できない。