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カッパ・ブックスの時代

(新海 均 著、2013年7月発行、河出ブックス059)

kappa

 

 この本は1954年に誕生した「カッパ・ブックス」が、次々とベストセラーを生みだし、そして光文社の争議、倒産、再出発を経て、2005年に終焉を迎えるまでの約半世紀の出版文化史である。

 

 この本は、日本で最初の新書である「岩波新書」の出版から書き始められている。「岩波新書」は1938年に「現代人の現代的教養を目的」に、大学生と小中学校の教員を想定読者として、書き下ろし中心で発刊された、という。モデルは1937年にイギリスで創刊された「ペリカン・ブックス」であるといわれている。

 ここで気がつくのは古典中心の「岩波文庫」に対して、書き下ろしの「岩波新書」であり、そのモデルが「ペンギン・ブックス」の姉妹シリーズ「ペリカン・ブックス」であった、という事だ。これらは、「カッパ・ブックス」の創刊にも影響を及ぼしている。名前が「ペリカン」や「ペンギン」に対して、日本人になじみのある「カッパ」であり、掲げた主義が「岩波新書」と異なり、徹底したアンチ教養主義であるという事である。

 

 「カッパ・ブックス」の全盛期には、教養のある人は誰でも、その編集者で、後に光文社の社長となる神吉晴夫の名前を知っていた。それくらい、「カッパ」といえば、「神吉」であり、「神吉」といえば、「カッパ」であった。少なくとも私はそう思っている。

 神吉晴夫は、東京外国語学校仏語部貿易科(現・東京外国語大学)を卒業後、1927年に大日本雄弁会講談社に入社する。社長に「八ヵ国語の神吉」と評価され、高給で採用された彼は、戦前の18年間で宣伝、営業、音楽と大衆の心理をつかむコツを身につける。

 講談社は戦争協力出版社であったため、戦後、活動できなくなることを危惧して子会社・光文社を設立する。神吉は1945年12月に同社の常務取締役に就任する。

 神吉は1950年に波多野勤子の「少年期」をプロデュースする。これが、1951年の年間ベストセラー2位となり、「ベストセラーの原理と方法」を発見する。すなわち、「創作出版」であり、「自分が感動し共感した作品でなければ出版しない」という事である。その後、次々とベストセラーを出すのであるが、その秘訣がこの本にも紹介されている(色々あり、ここで紹介するには字数の限りもあるので割愛する)。しかし、その秘訣を読んでも、彼(あるいは光文社)と同じ様にベストセラーを作る事はできないらしい。それは、紙の上に書くことの出来ないノウハウがあるのと共に、個人個人に直接・間接に伝承された神吉イズムがあるからである。(神吉は1955年4月の「日経広告手帖」で「ベストセラー作法一〇ヵ条」を公にした)

 神吉を支えた才人として長瀬博昭(花王創業者の孫)が取り上げられている。一大ブームを起こした占いに関する本は長瀬が企画した。この本を読むと、「カッパ」の躍進は神吉と共に長瀬の活躍に寄与する事が大きかった事が分かる。しかし、この両者は、営業担当・編集者としての力量が秀でており、人間として魅力に溢れていたかも知れないが、経営者としては失格の烙印を押される。

 著者(新海均)は、最後の「カッパ・ブックス」編集部部員であるためか、あからさまに批判や批評はしていないが、光文社争議の源は神吉のとった、年功を無視した徹底した成果主義・抜擢人事にある。また、その争議の中、神吉は早々と退陣し、長瀬はヨーロッパ放浪の旅に出てしまう。両者の取った行動が争議の解決を遅らせ、同社を倒産に追い込んだと言っても過言ではないかも知れない。

 争議は1970年から1976年の終焉まで2414日に及んだ。争議の初期には暴力団の介入などもあり、裁判は同社の全面的敗訴となった。この争議により多くの有為な編集者が会社を去り、「カッパ」のライバルとなる。すなわち、祥伝社の「ノン・ブック」であり、ごま書房の「ゴマブックス」であり、青春出版社の「プレイブックス」である。

 

 神吉晴夫は、1977年1月24日に75歳で逝去する。その偉大さは朝日新聞が天声人語でその生涯をたたえた事でも分かる。そして何故か日本共産党からも弔電が来ていたという。

 再建がなって光文社新社となった後の1982年には森村誠一の「悪魔の飽食」が、1990年には盛田昭夫と石原慎太郎の共著「「NO」と言える日本人」がミリオンセラーとなるも、時代の流れは「新書」に移り、2005年発刊の「頭の体操 四谷大塚ベストセレクション」を最後に「カッパ・ブックス」の新刊発行が停止される。(*)

(*)「カッパ」の本は、「ブックス」誕生後、「ノベルス」、「ビジネス」、「ビブリア」、「ホームス」、「サイエンス」と姉妹シリーズが誕生するが、この時をもって「ノベルス」以外が消滅したことになる

 

 残念ながら、この本の後半は「カッパ」が終焉に向かう光文社の悲惨な姿が書かれているだけである。そこには、高度成長期に次々とミリオンセラーを出した勢いのある生き生きとした同社の姿は見る事はできない。そしてその姿は、同時に日本も姿を示しているかも知れない。そう思うのは、戦後の日本への郷愁だろうか?

 

 この本の著者が何を意図したかは別として、私はこの本を読んで、「人がいかに多くの事件に影響を与えるか」、という事を感じた。「カッパ」が成功したのも、光文社争議が起きたのも、新社が赤字を出したのも、他社がライバルとなったのも、みんなの考えや才能に帰因する。勿論、時代の潮流もある。しかし、それを読み込んで自分たちの側に引き寄せるのもである。

 この本は、光文社という器に集まり働いた人たちの群像劇であるとともに、日本の戦後の出版界の叙事詩の一部を書きあらわしていると言える。是非、一読される事をお勧めする。尚、以下にミリオンセラーと私自身が読みたいと思った本を羅列する。

<ミリオンセラー>
「英語に強くなる本」(1961年、147万部)、「頭の体操 第1集」(1967年、266万部)、「頭の体操 第2集」(1967年、177万部)、「姓名判断」(1967年、125万部)、「頭の体操 第3集」(1967年、123万部)、「頭の体操 第4集」(1967年、106万部)、「点と線」(1958年、104万部)、「ゼロの焦点」(1959年、107万部)、「砂の器」(1961年、144万部)、「民法入門」(1967年、120万部)、「冠婚葬祭入門」(1970年、308万部)、「続冠婚葬祭入門」(1970年、154万部)、「日本沈没(上)」(1973年、204万部)、「日本沈没(下)」(1973年、181万部)、「にんにく健康法」(1973年、111万部)、「悪魔の飽食」(1981年、188万部)、「「NO」と言える日本」(1989年、124万部)

 

<私の読みたい本>
「文学入門」(伊藤整、1954年、「カッパ・ブックス」第1号)、
「日本の会社」(坂本藤良、1961年)、「危ない会社」(占部都美、1963年)、
「悲劇の経営者」(三鬼陽之助、1964年)、「危険な思想家」(山田宗睦、
1965年)、「初歩・自動車工学」(樋口健治、1969年)、「毛沢東の生涯」
(竹内実、1972年)

 

(蛇足)
 「カッパ」の本は、「ブックス」だけではなく、多くのベストセラーを生んだ。しかし、私はその時代を共有してはいたが、「カッパ」の本は殆ど読んだ記憶がない。読んだ記憶があるのは、高校時代に読んだ松本清張の「西郷札」と就職してから読んだ大西巨人の「神聖喜劇」(1〜3)だけである。「神聖喜劇」の誕生についてはこの本でも触れている。良く遅筆の大西巨人の著作を出版したものだと思う。これは光文社の快挙と言えるだろう。結局、「カッパ・ブックス」で刊行は3巻までで、更めて1980年に四六判で終巻までの5巻を刊行した(私は、4巻は光文社刊の四六判で、5巻は1982年刊の文春文庫版で読んだ。その後、これらを廃棄し、更めて光文社文庫本を購入し、一気に読んだ)。