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梯 久美子著/島尾ミホ伝『死の棘』の謎

 

 雑誌「新潮」の2012年11月号から連載されており、題名に興味を持って読み始めた。時々跳ぶので、2013年7月号第六回である。
 今更「死の棘」でもないだろう、と言う人もいるであろうが、妻が精神を冒してしまう本当の原因は何であったのか個人的にも興味を持っている。勿論、「死の棘」は最終版で読んでいる(最終版でなければ、未だ未完成だが、そのような版も読んだ記憶がある)。第六回まででは未だ確信的な話しは出てこない。
 著者が島尾ミホのインタビューに成功した所からこの伝記は始まる。しかし、ミホの実家である大平家の墓参をした事でミホに警戒され、4回でインタビューは打ち切られてしまう。その後、再度のインタビューは叶わず、ミホは亡くなってしまう。
  著者は島を調査する内に、ミホの実母が幼い時に病気で亡くなったため、ミホが実父の姉である吉鶴が嫁いでいる大平家に養子に出された事を知る。
 また、ミホの生家である長田家も、また養家である大平家も奄美の神職であり、地方大名であるノロの家系であった、という。私は、ミホがノロの家系であった、という事にも興味を持つ。ノロの家系は代々受け継がれるものであるから、女司祭といっても霊感のない人も多かっただろうが、ミホの霊感は強かった事も考えられる。何故ならば、第六回には以下の様な記述があり、普通の人の記憶力を超えているからである。
 「ミホは、見たものを細部までそのまま記憶し、いつでも再現することのできる能力を持つ人だった。本人から直接聞いたところでは、ある風景なり情景なりを思い出そうとすると、画像として、また動画として、ありありと目の前に浮かんでくるそうだ。……。ある映画を観た後、筋を教えてほしいと人に言われ、一時間半あまりの映画の台詞を最初から最後まですべて再現することができて、自分でも驚いたことがあるそうだ。…」

 実の父との確執も気になる。子供の島尾伸三に実父の事を話す時、お父さんとは言わず、おじさん、と言っていたという事である。それは、女学校に行くために東京で一時暮らした時、兄と二人、実父の経営する食堂に寝泊まりさせられ、また大平家から送付されていた金額のかなりの部分を実父に使われてしまった事にも依るかも知れない。
 加えて、ミホには結婚を約束していた人が居た、という。従兄の長田俊一だ。彼の召集前の昭和13年には、彼が居る朝鮮の釜山まで行っている。だが、彼が「適当な人がいたら、その人と一緒になるように」、と言い残して戦地に赴いたため、そのままとなったらしい。島尾敏雄の昭和30年の日記に依れば、彼が戦死せず復員したので、ミホは話しがこじれると必ず、”彼の居る佐世保に帰らせてくれ”、と言ったという。
 この3つ、すなわち、ノロの家系、実父との確執、婚約者の存在が「死の棘」の謎を解く鍵になるように思う。

 

 第七回ではこの伝記の確信となる事が述べられている。すなわち、ミホの人生は、”書かれることが喜びであった時期”と”書かれることに耐えねばならなかった時期”、さらに、”書かれることによって夫を支配した時期”の三つの時期に分かれるという。

 一方、著者は島尾の心境の変化が著作に表されているという。同じ様な内容を書いた「島の果て」、「夜の匂い」、「朝霧」におけるミホの描き方である。「島の果て」にはミホは少女めいた無垢なイメージで描かれているが、後の二つの著作では「赤ん坊を生んだことがありそうな女」、「自分を悲劇にしたてて訳の分らない満足感に浸る女」として描かれている、と言う。そして、この時期のミホと島尾の関係は、”結婚前のようなロマンチックなものとはほど遠く、日記には諍いの記述が多く、アバンチュールを求める島尾の心が他の女性たちに向いていた時期でもあった”、と言う。

 また、「夜の匂い」では、”女の狂気が南島特有の習俗であるユタと関連づけられている。これは、狂気の源泉が島にあるとの考えが島尾の中にあったことを意味する。”、と書く。

 更に、”住民たちは、島尾隊に加勢されて自決のための壕を掘っていたのであり、その作業にはミホも参加していた。(中略)島尾にはいつか島に審かれるはずだとの思いがあったはずだ。その審きを、やがて狂気という形でミホがもたらすことを、島尾は自身の文章の中で先取りしていたのである。”、と書いている。

 

 第八回には島尾の部下である藤井少尉とミホ並びに島尾隊長との関係が書かれている。島尾とミホの逢瀬を手伝った藤井にはミホへの思慕があったようだ。隊長も敬愛していたが、それは戦前では当たり前だろう。藤井のミホへの思慕に、ミホも島尾もは気づいており、島尾は藤井やミホに嫉妬していることが伺える。著者(梯)は、その点については強調はしていないが、私にはそう読めた。そして、その事が戦後のミホと島尾のすれ違いに影響したのではないか、とも読み取れる。
終戦前に養父を疎開小屋に追いやり、島尾と逢瀬を重ねたあげく、ミホは島尾から梅毒を移されてしまう。それでもミホは島尾と結婚した。戦後、島尾の態度が冷たくなり、そして、外の女に子供を作ってしまうという仕打ちを受けた時、ミホは父に対し酷いことをしたと思ったらしい。そんな日々の中で、藤井と結婚していたらとミホは思わなかったのだろうか?


 第九回には島尾とミホの意識のずれが書かれている。例えば終戦の前々日8月13日の夜の出会いについて、ミホは随筆「その夜」に、島尾は「出孤島記」に書いている。しかし、その書かれていることの事実関係に食い違いは見られないが、”島尾の身体の感触を確かめ、最後の時間を悲しみ尽くそうとする”ミホに対して、島尾は”私の心は冷く其処にはなかった”、と書いているという。そして、この二作(出孤島記及び出発は遂に訪れず)は戦争文学の名作と評価されているが、ミホをモデルとした女性の描かれ方について言えば、主人公の苦悩に彩りを添える存在でしかない、とまで言い切る。一方、二作の間には13年の月日が空いており、「出発は遂に訪れず」についてはミホと島尾の関係が逆転した後に書かれており、この時期もっとも大事にしたのは、ミホの心の平安だった、と前言とは矛盾したことも述べている。
 この時期を経て、島尾の作家としての立ち位置は初期とは大きく違ってきた、という。すなわち、”放恣な姿勢 の小説の書き方が、ミホの反応を意識することによって「矯正された」と島尾自身が小川国夫との対談(『夢と現実ー六日間の対話』筑摩書房)で述べているから、という。
 もし、そうだとすると、島尾の後期の作品は彼の本意ではなかった、と言えるのではないだろうか?読者としては非常に残念である。

 

 第十回では、著者はミホの狂乱は、発端が島尾の情事の発覚にあったかも知れないが、結婚以来、プライドを踏みにじられてきたことへの怒りと悲しみの噴出でもあったのではないか、と言う。

 部下のうちの特攻兵のみを引率して佐世保に向かい、解員手続きを取るようにとの命令を島尾が受けたのは昭和20年8月下旬であり、9月1日午後、島尾を含めて21名が加計呂麻島を後にした。島尾は去るにあたってミホの養父・文一郎に結婚の承諾を得ていた。だから、ミホは神戸にいるはずの島尾からの連絡をひたすら待っていた。しかし、連絡が取れ、神戸に来るようにと言われたのは11月に入ってからであった。当時は内地と加計呂麻島との郵便事情も悪く、電話も不通であった。島尾の日記には、9月13日にはミホへの最初の手紙を出したが届かず、同27日、「ブジ コウベニヰル ナイチトコウノビンアリヤ」という電報を打ち、届いた、とあるらしい。ミホは独力で内地への便船を探さなければならなかったが、敗戦間もないこの時期に民間の船の航行は許可されておらず、危険を冒して闇船に乗るしかなかった。11月下旬に島を出たが鹿児島に着いたのは12月の下旬であった。島尾たちが1日半しかかからなかった行程が、1ヵ月もかかった。ミホは川内市の親戚の家に身を寄せ、島尾に手紙と電報で知らせるが、島尾のもとに手紙が届いたのは翌年の1月9日のことだった。これをミホは、島尾の父・四郎が書信を島尾に見せなかったため、と信じていた。

 島尾の父は、ミホの事を「歳を取りすぎていること、カトリック信徒であること、小学校の先生をしていたこと、奄美が日本領外になったこと、ミホ側の親族としっかりした話し合いができないこと」から難色を示したらしい。結婚後も父に経済的に頼らざるを得ない島尾は父に頭が上がらなかった。結局、ミホがカトリック信仰を捨てることなどを条件に結婚は許される。

 ミホが昭和34年に「婦人公論」に発表したエッセイ「錯乱の魂から蘇えって」には、神戸時代のことを「夫の家族たちの白い眼におびえ、女中たちにさえ遠慮しながら、夫のかげに小さくちぢこまっていました。私の日常は針のむしろの上のようでした」という一節があり、没後見つかったこのエッセイの草稿ではこの部分が、「夫の家族からは「南洋のカナカ族とお前の方の土人とはどっちが上か」などとののしられ、女中たちの白い目にさえおびえて暮さなければなりませんでした」、となっていて、奄美出身であることで差別的な目を向けられたことを書いている、という。実際、戦前から奄美出身者が多く暮らしていた神戸では、島の出身者は蔑視され、差別を受けていたという事実があるらしい。それを裏付けるように、「昭和22年頃には入口に”奄美・朝鮮お断り”という貼り紙をした店や会社があった」、という事を島尾が言っている。

 著者は「由緒ある古い家系に誇りを持っていたミホだが、本土の生活でそれが重んじられることはなく、奄美出身だというだけで侮辱の視線を受けた。その屈辱は一生尾を引いたと思われる。(略) 故郷を侮辱されることは、ミホにとっては両親を侮辱されることでもあった。」と書いている。

 私は、ミホの狂乱の種はこの頃に既に植え付けられたのではないか、と思う。勿論、そんな資質は島にいる頃から持っていたのだろうが。

 

 第十一回(新潮2013年12月号掲載)では、島尾の日記とその役割について書かれている。著者は、昭和22年1月の島尾の日記にミホの書き込みを見ている。「夫へ」で始まる文言のトーンは『死の棘』で彼女が口にする言葉と同じで、著者は一瞬、その時期に書かれたものと錯覚しそうになった、という。

 夫や(夫の)家族に望まれない妊娠や自信の体調不安、その上に夫の女性関係疑惑が重なれば、大なり小なり女性は精神に変調をきたすだろう。やはり、その頃に精神がおかしくなり始めていたのかも知れない。

 ミホは島尾の日記を自分たち夫婦の記録と考えていた節もあったようである、と著者は言う。そして島尾の親友・真鍋呉夫の口から『島尾は自分の情事について書いた日記を、わざとミホさんに読ませたのかも知れない』、と話すのを聞いている。つまり、島尾はミホの反応を観察して、それを小説にしたのだというのだ。それを裏付けるような話しを著者は昭和26年の島尾の日記から見つけている。宮城県の峩々温泉に泊まったとき、梅子という女中の事を書いているのだが、その内容からそれは彼女に読ませるためのものではないかと思い当たった、という。

 こんな島尾の性癖が、ミホを狂わせたに違いないというのが、著者の読みである。ミホの精神の変調は島尾が作り出したものである、といっても過言ではないか、と私は思う。

 

 第十二回(新潮2014年2月号掲載)では、島尾の戦後直ぐの文学活動と「VIKING」で出会った久坂葉子の事が書かれている。
 敏雄とミホ、二人の戦後は「死という裏打ちが失われたとき、エロスもまた失われた。こうしたずれの中で始まった。」、と著者は言う。
 そして、「ミホが精神に異常をきたすほどの打撃を受けたのは、島尾が浮気をしているという事実ではなく、島尾の手で書きつけられた言葉によってであった。」、と言う。何故なら、「死の棘」全編を仔細に読めば、「日記を見たときにすでにミホは相手の女性の存在を知っていた」ことがわかるから、と言う。
 昭和23年に島尾は(同年7月に「ドミノのお告げ」によって19歳で芥川賞候補となった)久坂葉子をVIKINGの同人に推薦する。ミホは彼女と島尾の関係を疑っていたらしい。そして、「貧乏で苦労するのはいゝが、女の事で苦労させられるのはいや、何をやるか、自分が分からない」、と島尾に答えていることが島尾の日記に残されている、という。また、「死ニタイ、シンドイ、結婚シタ事ヲクヤム」、というミホの言葉も書き留められている、という。一家は昭和27年3月に東京の小岩に転居するが、 この年の暮れに久坂は自殺してしまう。

 

 第十三回(新潮2014年3月号掲載)では、「その女性」(あいつ)の話しが出てくる。その女性、川瀬千佳子(仮名)を「現在の会」に紹介したのは眞鍋呉夫であった。
 著者が、ある新聞記者と話しをしていて、作家の松原一枝が島尾の浮気は”藤十郎の恋”だと言った、と聞く。「藤十郎の恋」は菊池寛の小説で、坂田藤十郎が、不義密通する男の役を演じるため、人妻に恋を仕掛ける話しで、つまり、島尾の情事は小説の素材にするためのものだった、というのである。
 著者は平成20年に出版社の編集者の紹介で松原に会って、川瀬千佳子について尋ねる。松原の談では、千佳子は映画雑誌を出している会社の社長の奥さんであったが、別居中であり、下北沢駅南口近くの洋館の離れみたいなところを借りて一人で住んでいた、という。

 

 第十四回(新潮2014年4月号掲載)では、前回に引き続き「あいつ」のモデルである川瀬千佳子の実像に迫っている。
 著者は川瀬千佳子の消息を知っているだろう人として、眞鍋呉夫から「現在の会」にいた稗田宰子という女性を紹介される。
 電話口で稗田は、「川瀬さんはあの小説の犠牲者だと思っています」「あんな書かれ方をしてどんなに傷ついたか。夫婦してアイツアイツと言うだけで、彼女がどんな人だったかは一行も書かれていない。あんまりな扱いです。」「小説を書いていたといっても、久坂葉子さんのようなエキセントリックなタイプではありません。ミホさんとくらべても、よほどノーマルな人でした」、と言う。
 千佳子は「寅年生まれだ」、と稗田に言ったので、島尾より3歳上になる。ミホが島尾の日記を見た昭和29(1954)年には40歳であった、という。そう考えると、なるほどという記述に出会う、と著者は書いている。たとえば、第三章「崖のふち」では「妻は(中略)、四十を過ぎた年配の女を見ると視線を吸いつかせるようにそのすがたを追うことをやめようとしない。」たとえば、第九章「過ぎ越し」では、「四十を過ぎた年ごろの女に示す妻の嫌悪は次第に私にも移り、(後略)」
 稗田は更に「島尾さんは昔から挙動不審な人でしたし」、と言う。そして「月暈(げつうん)」で求愛しているように書かれているM・Z氏の妻が千佳子の事ではないか、と言う。もし、そうだとすれば、初出は「近代文学」昭和28年1月号であり、千佳子と知り合った頃から数ヵ月後に書かれた事になる。それを裏付けるように「「死の棘」日記」には「……食器片付けなどをする間イヤミの妄語。外は月夜だというと、月暈云々でからんでくる。」とある。昭和30(1955)年7月5日の日記の一部である。(注:「死の棘」の連載は昭和35年から始まる)

 また、著者は島尾が「私は妻のこころをなぐさめることができるなら、どんな文章をも書くことができると考えられた」(妻への祈り・補遺)、と書いているのを踏まえて、島尾は文学的な動機以外に、特定の人物のために小説を書くことがありえる作家であるということになる、と推測する。そして、「特定の女性のことを書いた文章をその当人に読ませることによって関係性を作っていくことは、島尾が以前からごく自然に行っていたことだったのである。」「千佳子が読むことを意識して書かれた小説が存在することは、「死の棘」を違った角度から読み替える可能性を示している。」、とまで言い切る。

 

 第十五回(新潮2014年5月号掲載)では、千佳子のその後とミホの狂乱にいたるまでを追っている。
 著者は千佳子が住んでいた逗子に稗田と訪れ、彼女の去就を知ろうと娘を捜す。稗田は30年余り前に逗子駅近くの郵便局の前で千佳子にばったり会った。自宅を訪ねると娘は30歳くらいになっていて、千佳子は再婚もせずに孫と三人で暮らしていた。しかし、その2年後(昭和50年から51年頃)、娘に会ったときに千佳子が亡くなった事を聞き、死因を尋ねると顔色が変わったので、不幸な亡くなり方だった、と感じた
 「死の棘」は足かけ17年にわたって間歇的に文芸誌に発表した短篇をまとめたもので、千佳子は「あいつ」として、ひどい女として書かれていたそれらの短篇を読んでいた、と松原一枝は証言している。昭和35年頃に、千佳子から松原に電話が掛かってきて、「事実ではない、あんな書き方はひどすぎる」、と言っていたという。稗田は、第十章「日を繫げて」の、ミホが彼女に摑み掛かり地面に倒して痛めつける場面が、決定的に千佳子を痛めつけたのではないか、と言う。
 昭和61年、島尾の死後しばらくして、ミホが眞鍋に千佳子の墓の所在を電話で聞いてきたという。そして知らないというと言うと、「私は川瀬さんにやきもちを焼いたことは一度もなかったんですよ」、というのでビックリしたという。しかし、著者はミホの言ったことは本当ではなく、島尾の情事にミホがどんなに傷つき、千佳子のことをどんなに憎んでいたかを示す資料がある、という。平成22(2010)年に奄美の島尾家の段ボールの中から出てきた島尾の原稿の書き損じの裏にミホが書いた内容である。そこには、私立探偵に調べてもらった夫の行状と千佳子の名前と年齢(四十二歳)、容姿、住所・住宅事情、家族が書かれていた。ミホが私立探偵を使って女の素性を調べたことは「死の棘」第二章「死の棘」に出てくるが、著者はミホの妄想か、島尾の創作と考えていたが、この書き損じから事実であったことが裏付けられた。のちに島尾の昭和29年10月19日の項にもそれが書いてあった、と知った。しかし、この部分は刊行された「「死の棘」日記」からは削除されていた。
 さらに重要なことを著者は書いている。島尾の日記を見る前に島尾と千佳子の情事を知っていた、というのだ。だから、ミホが「けもののように咆哮して畳を這い回るほど衝撃を受けたのは、浮気の事実によってではなく、日記にあった言葉ー半世紀たってもありありと眼前に浮かぶとミホが言った十七文字ーによってだったのだ。」、と書く。

 

 第十六回(新潮2014年7月号掲載)では、ミホがおかしくなったその日の状況を描いた文章の不自然さと島尾が日記を開いて置いていた意図について書かれている。
 冒頭、著者は、「死の棘」を島尾に書き続けることをミホがうながしたのは、ミホがあの十七文字を帳消しにする膨大な量の言葉を島尾から捧げられることを求めていたからに相違ない、と書く。ミホの狂気が始まり、夫婦の関係が逆転したその日は、ミホのノートによれば昭和29(1954)年9月29日(早暁)とある。「死の棘」第一章「離脱」には、昼下がりに外泊から家に帰ってきたら木戸に鍵が掛かっており、仕事部屋が散乱していて、そのなかにきたなく捨てられた日記帳があった。そして、まもなく家に戻ってきたミホは外泊しないでくれと夫に哀願していた前日までとは別人のようになっていた、と書かれている。その日から、どこまでつづくかわからぬ尋問のあけくれが始まった
 また、著者は、上記場面の文章を読んで不自然なところが多く、「近いうちに「その日」がやってくることを予感しつつ外泊を繰り返していたというなら、「私」の言動は不自然ではない。」、眞鍋などの島尾の友人・知人から聞いた島尾の過去の行動を踏まえると考えられないことではない、と言う。「やはり島尾は意図的に、ミホが日記を見るように仕向けたのだろうか。その反応を見て小説にするために……。」とまで書く。著者は、この後に続く文章で小説を書く必然性を持たない島尾が心のどこかでミホの狂うことを待ちのぞんでいたのではなかったか、と疑問を投げかける。
 私はそんなことはあってはならない、小説を書くためだけで人を狂わせてしまうまでのことをしてはならない、と思う。島尾は私小説作家だったのだろうか??
 また、今後のこの評論の展開に影響する内容かも知れないが、著者はこの回の後半部分で、「死の棘」と島尾の信仰との関係、その日に日記の横に置いてあった吉本隆明の詩集「転位のための十篇」の中の「審判」と「死の棘」の関係に触れている。

 

 第十七回(新潮2014年8月号掲載)では、「審き」あるいは「審判」という事を中心に述べられている。
 島尾がカソリックの洗礼を受けるのは昭和31(1956)年である。キリスト教的な観点から戦中時代を描いた小説の中の「審き」(あるいは「審判」)を見るのは、やや強引な感は免れ得ない。しかも指摘している内容の多くがミホの狂気についての懺悔ではない。
 「近代文学」昭和30年1月号に掲載された「肝の小さいままに」に以下の様な文章があり、ここで使われている「審判」は、「死の棘」の冒頭の段落にある「…審きは夏の日の終わりにやってきた」の「審き」と同じであるという。
 「…そもそも家を離れたことが不安のもとだ。(ぼくは審判の日がいつやってくるか量り知れない、と思いこんでいるようだ)」
 確かにこの内容は同じことを指しているように思える。同様に「群像」昭和29年11月号掲載の「むかで」に書かれている「むかでの足の一本一本が、意志あるもののように(或いはこれでぼくは審かれているのか)…」も、書かれた時期が早いものの、同じことを指しているようだ。
 しかし、「出孤島記」(「文芸」昭和24年11月号掲載)に出てくる、特攻出撃の日を指している「審判の日」、また隊長であった自分への嫌悪を表現している「私は審かれていなければならない。」は、強引な引用の例であろう。その後、書かれた「出発は遂に訪れず」、「その夏の今は」、「廃址」(「人間専科」昭和35年1月号掲載)にも同様の内容の「審き」なり「審判」が出てくるが、これは戦中の自分のおかした(あるいはおかさなかった)事への懺悔である。
 著者は最後に「ミホの審きを待っていたということは、すなわち、加計呂麻島による審きを待っていたということである。」、と書くが、どうしても私には著者の牽強付会に思えてならない。

 

 第十八回(新潮2014年9月号掲載)では、新たに見つかった「日記」の話しが中心である。

 島尾家で見つけた遺稿や遺品を入れた箱の中から昭和27年と28年の日記(ノートと大判の手帳 計4冊)が見つかる。著者はこの時期の島尾の日記の存在が判明したこと自体が驚くべき「事件」だった、と書いている。なぜなら、それらはミホの手で廃棄されたからと思われてきたからだ。「死の棘」や後年の日記にはそう書かれている。では何故残っているのか。著者は島尾が「裏日記」を書いていて、これらはそれではないかと推測する。
 しかし、そういった事は作家の生活を調べたり、伝記を書く人に取っては重要かも知れないが、読者にとっては重要ではなく、そこに書かれていた事が重要である。なぜなら、その「日記」が見つかったことで、何か新しい事実が判明したわけではないので。
 著者は島尾が時として「きちがいを装ったり」、「自殺しようとしたり」した事がミホの病を深くしたという。たしかに、「死の棘」には、子どもが「オトウシャン、ジサツ、シュルノ?」(第六章)、とかいう話しが出てくる。
 また、「死の棘」第六章には「女とのこまやかな動作を書きしるした手帳とを、……」という話しも出てくる。昭和30年1月22日の日記には「交渉のノートの記録二冊、29年度の手帳」が書かれており、これが前掲の「手帳」ではないかと、著者は言う。
 いずれにしても、そんな「手帳」のページを開いておいて、ミホに見られるようにしたり、自殺やきちがいの振りをするような島尾の奇妙な性格(あるいは奇矯な行動)がノロの家系であるミホの特異な性格を刺激し、ミホの精神を異常にさせてしまったのではないかと思う。
 「死の棘」は島尾が被った予期せぬ実体験を綴ったものの様に見受けられるものの、島尾によって作り出された生活を綴ったものとも見受けられ、そのシナリオには予めミホの狂気も組み込まれていたとも言えなくもない。もしそれが本当だとしたら、残酷ではあるが、「死の棘」は島尾とミホの合作とも言える事になる。

 

 第十九回(新潮2014年10月号掲載)は、新たに見つかった「日記」とミホが昭和三十六年に書いた手記の話しが中心である。
 川瀬千佳子が初めて日記に出てくるのは、昭和二十七年七月二十八日の記述で、この日に開かれた「現在の会」の会合の出席者を列記した中に名前があったという。同月二十二日の欄には、「下北沢、川瀬不在」とあり、下北沢の川瀬の家を訪ねたことが窺える。
 このようにして細かく調べていっても新しい事実や「死の棘」に書かれている事の裏付けとなる記録は出て来なかった。
 島尾が作家的野心を刺激するものとして家の外に求めていた生活、すなわち千佳子との情事を記したのは「交渉のノートの記録」だったのだろうが、しかし、それは失われて今はない、と言う。

 「死の棘」で「あいつ」つまり千佳子が直接登場するのは二回だけである。
 第二章「死の棘」で、夜になってもミホが帰宅せず、「あいつ」の家に行ったのではないかという不安になった島尾が彼女の家を訪ね「もうここには来られない」と別れを告げる場面と、第十章「日を繫げて」で、小岩を引き払って移り住んだ千葉県佐倉市の家に、「あいつ」が文学仲間からの見舞金を持ってやってくる場面である。
 著者は、この第十章で起きる「事件」の場面を、実は昭和三十六年の婦人公論五月号に掲載された手記「「死の棘」から脱れて」でミホ自ら描写していた、という。島尾が書く六年前になる。
 その女同士の取っ組み合いの場面で、「あいつ」は「Sさんがこうしたのよ。よく見てちょうだい。あなたはふたりの女を見殺しにするつもりなのね」、と言う。著者は、「女を見殺しにする」とは、仕掛けを施した上で、ふところ手をしてなりゆきを観察し、それを小説にすることなのではないかと解釈したくなる、と書く。
 一方、ミホの手記には、『「島尾さん! たすけて! たすけて! あなたは二人の女を見殺しにするのか」と叫んだが、夫は腕を組んでじっと立ったままです。』、と書かれている。
 決定的なこの言葉を紙の上に再現することは、ミホにとっても夫を断罪することで、島尾は二人の女から審かれた、と著者は言う。

 

 第二十回(新潮2014年11月号掲載)は、「あいつ」すなわち川瀬千佳子の存在について多くを費やしている。
 状況の変化のきっかけはつねに「あいつ」の存在があるという。にもかかわらず「あいつ」がいったいどんな人間なのかは、小説からは具体的には浮かび上がってこない、という。生身の彼女が小説の中で二度しか姿を現さないせいではだけではなく、描かれている彼女の人物像が一貫せず、ぶれがあるから、と著者はいう。全体として「あいつ」は、複数の男を手玉に取り、別れた男を脅迫してくるような女として描かれている一方、常識をわきまえ、あたたかい雰囲気をにじませた女性として描かれている部分もある、という。その分裂は、原稿を清書しながら検閲するミホの目と読者として読むであろう千佳子の目、つまり二つの目を意識せざるを得なかったからだろう、と想像する。
 ミホが千佳子を憎む理由として、千佳子が戦後の島尾を、たくましく頼りがいのある隊長から、青白く不機嫌で、経済力のないインテリに変質させ、家庭から引き離したもの文学の象徴でもあったからだと論じる。
 「あいつ」の存在が、戦時中の島尾を否定するものだったことは、インタビューの際にミホが「日記を見てしまったとき、私にとっての島尾隊長はいなくなりました」と語ったことに対応している、と述べる。
 探偵社に調べさせたという「あいつ」の正体は事実なのか。ミホの妄想ということはないのか。脅迫の電報は本当に「あいつ」が打ったのか。ミホの自作自演ではないのかー。注意深く読むほどに浮かび上がるそうした疑問の答えは、最後まで明かされないのである。、と結んでいる。