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高橋たか子死去

第7回大江健三郎賞
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英語で読む村上春樹

村上春樹 短篇連作 女のいない男たち

 

シェラザード(単行本「女のいない男たち」第4話)

 羽原(はばら)は4ヵ月前にこの北関東の地方小都市の「ハウス」に送られてきて、女が「連絡係」として、彼の世話をすることになった。羽原は外に出ることが出来ないので、食料品や雑貨を女が買い、それを「ハウス」に運ぶ。本や雑誌、CDや映画のDVDなども買ってきてくれた。そしてセックスをする。セックスは情熱的ではなかったが、かといって終始実務的でもなかった。女は週に二度のペースでやってきた。
 羽原は女を「シェラザード」と名付けた。「シェラザード」は35歳。羽原より4歳年上で、専業主婦。小学生の子供が二人いて、夫は普通の会社勤めで、「ハウス」から車で20分ほどの所に住んでいる。女は食料品を運んできて冷蔵庫にしまうと、いつもベッドを共にする。セックスが終わると、二人は話しをするが、もっぱら女が話し、羽原はそれに相づちや質問をするだけである。そして4時半になると決まって帰って行く。
 ある日、女は10代の頃に行った片想いの彼氏の家への「空き巣」の話を始める。そしてその話の何回目かの時に突然、女は羽原の名前を呼ぶ。今までは羽原の名前を呼んだことがなく、その日が初めてであった。そして、二度目のセックスを要求し、二人はこれまでになく激しく交わる。
 この後のストーリーは各自が呼んで頂くとして、ハルキはこの作品で何を訴えたかったんだろう?
 以前に書いた事だが、それは読者一人一人が考え、感じれば良い事であって、ハルキが何を意図したかはどうでも良いのではないか、という気がする。多分、ハルキもそう言うだろう。
 でも、ハルキはいつもながらに謎をばらまいている。それらがどういう意味を持つのかが知りたくなる。
 何故、羽原は外に出られないのだろう。「ハウス」とはアジトのような物で宗教とか過激派組織が使っている家なのだろうか?「連絡係」の「連絡」とは何だろう。連絡らしい話しは出て来ない。まさか「寝物語」が連絡内容ではないだろう。それとも、羽原は何かの病気を患っていて、「病院」に入っているのか?単なる妄想なのか?、等々、想像は尽きない。
 しかし、ばらまかれた謎やエピソードやそれらのディテールに意味があるのだろうか?確かに話しが面白くなり、読者は惹きつけられる。全く、意味がないとは思えないが、やはり、「シェラザード」の「空き巣」の話しと二度のセックスを求めた気持ちの変化に意味があるのではないか、と私は思う。端的に一言で表せば、それは「コミュニケーション」ではないか?女は何回か「空き巣」の話しをしながら、少しではあるが羽原に心を開いてしまった。そして、その心は羽原に届く。男と女、いや男同士、女同士そしてGLBT同士、つまり人間同士において二人のどちらかが一歩前に出ることが「コミュニケーション」を図ることなのだ、と言っていると私は考える。この「女のいない男たち」の「男たち」は「コミュニケーション」に失敗してしまった「男たち」物語である、というのが私の結論である。
(そんな事を言ったって、世の中すべてコミュニケーションで成り立っているのではないでしょうか?、ハルキの小説に限らず、どんな作家の小説だって、大きく捉えれば、伝えたいことはコミュニケーションになるんじゃあないでしょうか?、という声が聞こえて来る気がしますが)