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村上春樹 短篇連作 女のいない男たち

 

ドライブ・マイ・カー(文藝春秋2013年12月号掲載)

 村上春樹は長篇と長篇の間に中篇もしくは短篇を書くことが多い。今回は文藝春秋という文芸誌ではない雑誌への書き下ろし短篇連作である(因みに本作は原稿用紙にして86枚と目次に書いてある)。この小説のタイトルの右側には「女のいない男たち」とあり、これが連作のタイトルである。

 本作は、接触事故を起こし免停になった俳優・家福(かふく)と運転手として雇った20代半ばと思われる女性・渡利(わたり)みさきとの会話で話しが進む。ハルキが好みのアメリカの小説風の良くできた話しである(あるいは、口当たりの良い、ちょっと気の利いた話しである)。

 話しは単純である。家福は妻を子宮癌で亡くしたのだが、美人女優である妻は時折、彼以外の男と寝ていた。彼女が寝る相手は決まって映画で共演する俳優であり、その最後の相手が本作で話題となる高槻である。高槻は、また家福の最後の友だちとなった。友だちになった動機は、妻がどうして高槻と寝る気になったのかを知りたいためであった。

 結局、家福はその理由を明らかにすることができなかった。高槻が最後に言ったことは、以下の様な事だった。
「僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした。(略)でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。(略)本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」

 結局、ハルキがこの短篇で言いたかった事もここに尽きるだろう。

 あとは、ハルキのいつもの作品の様に、具体的な物や地名、趣味的な講釈を入れて雰囲気を出しているだけである。例えば家福の愛車が ”黄色のサーブ900コンバーティブル" だったり、みさきの本籍地が "北海道中頓別町" であったり、家福が行きの車の中で聞くのが「ヴァーニャ伯父」の伯父の台詞だったり、帰りに聞くカセットテープの音楽がベートーベンの弦楽四重奏やビーチボーイズやラスカルズ、クリーデンス、テンプテーションズの曲であったりする。冒頭には女性の車の運転に関する家福の考えが語られる。

 そして毎度の事ながら、初めの方に書かれた言葉が後の方に書かれる事の伏線(?)になっていたりする。この作品では、それは「盲点」という言葉だ。家福が車を運転できなくなったのは、免停のためだけではなく、視野にブラインドスポットが見つかったためである。そして家福は高槻と一緒にバーで飲んでいるときに、妻を本当には理解できていなかった理由として、以下の様に言う。

 「僕らは二十年近く生活を共にしていたし、(略)僕には致命的な盲点のようなものがあったのかもしれない」

 ハルキストは物語を楽しむ事もさることながら、上記のような具体的な物や場所、趣味的な話し、気の利いた謎掛けを好むようだ。この作品にもそんなタネが撒き散らされている。

 私はそれを好むほどのハルキストではない。