泉 鏡花 いずみ・きょうか(1873—1939)


 

本名=泉 鏡太郎(いずみ・きょうたろう)
明治6年11月4日—昭和14年9月7日 
享年65歳(幽幻院鏡花日彩居士)❖鏡花忌 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号13側


 
小説家。石川県生。北陸英和学校中退。明治23年作家を志して上京、翌年尾崎紅葉のもとに入門、玄関番として寄食した。28年博文館に入社。『夜行巡査』『外科室』を発表、〈観念小説〉の作家として認められた。『照葉狂言』『高野聖』『婦系図』『歌行燈』『縷紅新草』などがある。






 

 線香をともに買ひ、 此處にて口火を點じたり。両の手に提げて出づれば、素跣足の小童、遠くより認めてちょこちょこと駈け来り、前に立ちて案内しつゝ、やがて淺き井戸の水を汲み来る。さて、小さき手して、かひがひしく碑を清め、花立を洗ひ、臺石に注ぎ果つ。冬といはず春といはず、其も此も樒の葉殘らず乾びて、横に倒れ、斜になり、仰向けにしをれて見る影もあらず、月夜に葛の葉の裏見る心地す。
 目立たざる碑に、先祖代々と正面に記して、横に、智相院釋妙葉信女と刻みたるが、亡き人の其の名なりとぞ。
 唯視たるのみ、別にいふべき言葉もなし。さりながら青苔の下に靈なきにしもあらずと覺ゆ。餘りはかなげなれば、ふり返る彼方の墓に、美しき小提灯の灯したるが供へてあり、其の薄暗かりしかなたに、蝋燭のまたゝく見えて、見好げなれば、いざ然るものあらばとて、此の邊に賣る家ありやと、傍なる小童に尋ねしに、無し、あれなるは特に下町邊の者の何處よりか持て来りて、手向けて、今しがた帰りし、と謂ひぬ。去年の秋のはじめなりき。記すもよしなき事かな、漫歩きのすさみなるを。
                                
(一葉の墓)

 


 

 父は加賀藩細工方の流れをくむ象眼細工師であった。10歳に満たない幼少で母を失い、二人の妹は養女に出された。そのことは鏡花の文学に色濃く影響して「死」との共存はもとより、女性崇拝、追慕、幻想、怪奇、耽美、エロティシズムなどの要素をもった鏡花独特の物語を描き出していったのだった。
 常に文壇の傍流を歩きながら、反自然主義を宣して異彩を放つ幻想的な文体を輝かせた鏡花。
 明治24年、尾崎紅葉門下生として玄関番からはじまった作家としての人生は、小林秀雄をして〈言葉といふものを扱ふ比類のない作品〉といわしめた『縷紅新草』を最後の作品として、昭和14年9月7日午後2時45分、肺腫瘍のため麹町下六番町の自宅で幕を閉じた。



 

 雑司ヶ谷霊園の参り道は区画によっては誠に迷路の様相を呈している。何だか横道から分け入ってしまったようで、昨夜の豪雨でぬかるんでしまった土庭の道がやたらにすべる。欅の大木を回り込んでやっとのこと探しあてた、永井荷風や小泉八雲等の墓にほど近い「鏡花 泉鏡太郎墓」は、初秋のくっきりと抜けた青空とは対照的に暗鬱に沈んであった。
 不幸にも「サンシャイン60」という高層ビルをバックにしてしまった風景が、かつて妖しい美しさをもつといわれたこの墓石の雰囲気を褪色させ、時期はずれの紫陽花が、その陰りを一層侘びしいものにしていた。「鏡花」の文字だけがケヤキの枝間から差し込んでくる斜光を受けて妖しくも、ゆらゆらと浮かんでいた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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