生田長江 いくた・ちょうこう(1882—1936)


 

本名=生田弘治(いくた・こうじ)
明治15年4月21日—昭和11年1月11日 
享年53歳(聖伝院長江棹舟居士)
神奈川県鎌倉市長谷3丁目11–2 長谷寺(浄土宗)



評論家・翻訳家。鳥取県生。東京帝国大学卒。馬場孤蝶に師事。『芸苑』同人となり、上田敏より長江の号をもらう。閨秀文学会に出講し、平塚らいてう、山川菊栄らを教えた。大正3年森田草平と『反響』を創刊。大杉栄、堺利彦らと親交を結ぶ。『落花の如く』『釈尊』などがある。






 

 漱石氏の「低徊趣味」は、人生の厳かな大事を除き、何のあぶなげもなき部分に於て、極めて小規模に芸術と人生とを混同して楽しむと云ふ主意らしい。
 鴎外氏の「あそび」の態度は、生活全体を挙げての事丈けに、低徊趣味よりも肯かれ易い筋がある。けれども、「あそぴ」を飽くまでも陽気なもの、気楽なもののやうに解してあるのが物足らぬ。
 「人生は厳粛なり、芸術は快活なり」と言ったシラアの言葉も、其儘今日の人の考に調和させるのはむづかしい。今日の人には厳粛なる芸術もなければならぬ。
 ツァラトゥストラの詩人は、眞正の男子の求むるものを、危険と遊戯とであるとした。危険なる遊戯は常に陽気なものでない。鴎外氏の「あそび」にも、陰鬱の気を斥けないものならば、余程同感のし易いものになつて来る。
 今日を明日の手段として動くのは仕事である。仕事をして生きるのは賤しいことだ。高貴なる人間は刹那々々に目的を達して生きて行く。即ち遊戯である。私共敢へて安楽に暮さうとは思はない。ただどうか遊戯の態度を取つて生きたいものだ。よし歯ぎしりをしながらでも、遊戯の心を失はないで居たいと思ふ。
                                      
(最近の小説家)

 


 

 ニイチエの『ツアラトストラ』の訳者であり、佐藤春夫や生田春月を世に送り出したが、昭和11年1月11日、代々木山谷町314番地(現・渋谷区代々木)に没する。
 ハンセン病の病身を押し、容貌の崩れや失明にもめげず口述筆記によって最後の力を振りしぼった『釈尊伝』は未完のまま終わった。
 告別式は14日、のちに佐藤紅緑や久保田万太郎も眠ることになる本郷・喜福寺で執り行なわれ、門人の佐藤春夫は霊前に愛惜の詩を捧げた。
 〈苦しみて苦しみて 古のヨブよりなほくるしみて いきたまひける師の大人は。うつそみのまなこもあらで 光明をこころに抱き 人みなをあわれと仰せ 身を泣かず人を怨みず。こころやさしき猛者なれば 神仏などは言はで 知慧のまにまに 生きたまひけり〉。



 

 大晦日の長谷寺、観光地鎌倉の中でも人気の高いこの寺には、老若男女それぞれに去りゆく年を思い起こして、移ろう影を落としていく。しかし本堂裏にある山腹の墓地まではさすがに登ってこない。
 不幸にもハンセン病を患い、面会を絶って隠棲した鎌倉由比ヶ浜。程合いの小さな墓地の奥まった左側の筋に佐藤春夫の碑文を刻した「生田家の墓」があった。海が見えるところに埋葬して欲しいとの願いを遺して、大正6年に病没した藤尾夫人とともに眠っている。
 長江が命名したという女性解放運動の結社「青踏」の〈元始、女性は太陽であった〉という序文のように、とびきりの太陽に小波の輝く湘南の海が眼下に広がっていた。年の名残りを海に置き去り、この墓に佇む私の足下に陽は届いてこない。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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