伊藤永之介 いとう・えいのすけ(1903—1959)


 

本名=伊藤栄之助(いとう・えいのすけ)
明治36年11月21日—昭和34年7月26日
享年55歳 ❖ふくろう忌 
秋田県秋田県秋田市八橋本町6丁目5-30 全良寺(臨済宗)




小説家。秋田県生。秋田市中通高等小学校卒。大正13年同郷の金子洋文を頼って上京。『文藝戦線』『文藝時代』に評論を書いたが、のちプロレタリア文学運動に参加し、創作に転じた。『万宝山』『梟』や新潮文芸賞を受賞した『鶯』などのほか『なつかしい山河』『警察日記』シリーズなどがある。







 

 村の街道を走る乗合の外は自動車といふものがはじめてであるお峰の眼に街の灯火は灯籠流しのやうにちろちろと流れ、やがてお峰は、こんな結構なところはないと思はれるほど電灯に明るくかがやいた広い部屋の真白いベッドの上に横たはってゐる自分に気がついた。陣痛はいよいよはげしくなり、お峰が再びあたりの光景に気がついたときには握り拳位の赤児が自分の頭のわきに置かれてゐた。赤児は小田原提灯のやうに細長い顔に横皺を一杯にため張りさけるやうに口をあけて、からだ全体で泣いてゐた。その泣声はお峰の耳には小さく小さく速いところから聞へて来るやうな気がしたが、生れたのだ、こんな結構な明るいとこで子供は無事に生れたのだと思ふと、喜びは堰を切った田の水のやうに溢れ、涙がしづかに眼尻をつたひ落ちた。お峰はこの産院に十日近くゐたが、刑務所ではそのためにお峰が九十日間労役所で働いた分をすっかり吐き出してもまだ足りなかった。罰金を稼がせるために、手足の利かない年寄りや病人などを収容しても算盤に合ふはずはなかったが、お峰の場合などはその最もいい例であった。お上に対して申訳ないとお峰は心に呟いたが、三日日になっても四日目になっても誰もお峰に対して出て行けとはいはないし、看護婦はきまった時間にそっとお峰の子首をとりあげるのであった。室のはづれの方のベッドに逆子で苦しんでゐる若い女がゐて、伯母さんらしい女がしきりに腹を揉んでゐるのが眼についたが、ほかはみんな産んでしまったあとで、この世に生れ出たばかりの赤児たちは一人が泣きはじめると、われもわれもと揃って自分の新なる生存を力一杯弾けるやうに叫び出した。

(梟)

 

 


 

 凶作や地主の暴圧に耐え続ける農民、極貧の生活に喘ぐ最下層の人々に焦点を合わせた伊藤永之介の文学、〈真実を語る文学は、貧農の生活の惨めさを避けてはならないだろう。農民の未来はそこからはじまる〉との彼の言葉は、「人間愛」の作家と呼ばれる所以であった。盲愛といわれるほど農民を愛し、「農民文学」に全精力を注ぎ込んでいたのだが、昭和25年の正月に心臓発作で倒れてからは、健康に自信が持てなくなった。飲酒によってその不安や寂しさを紛らわせていたのだったが、酒に飲まれてしまった晩年の昭和34年、暑い日が続いた夏の7月26日午前5時57分、脳溢血のため倒れ、昏睡状態から脱すること叶わず、東京・渋谷区代々木の自宅で最期をむかえた。



 

 

 書き残した75冊の著作の多くは故郷秋田を舞台に描かれており、暑い東京の夏を嫌ってたびたび秋田を訪れて執筆をしたり、周辺の村々に出かけては祭などを楽しんでもいた伊藤永之介。いくら酔ってもだんまりで、めったに口を開かなかった無口でなる永之介の墓は、戊辰戦争の東北戦線で亡くなった官軍戦没者の眠る官修墓地もある全良寺に建てられている。
 納骨の日も蒸し暑い日だったらしいが、今日も決してひけは取らないだろうと思われる程に蒸し暑い。楓の古木のもと、自然石の台石の上にほっそりと建つ「伊藤家之墓」に思いがけず緑陰は涼しく、一本のろうそくが優しげであった。寺の北方、秋田城跡には〈山美しく人貧し〉の文学碑が建てられていると聞く。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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