本名=岩波茂雄(いわなみ・しげお)
明治14年8月27日—昭和21年4月25日
享年64歳(文猷院剛堂宗茂居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)
出版人。長野県生。東京帝国大学卒。大正2年古書店岩波書店を創業。翌年夏目漱石の『こゝろ』を出版。その後も『哲学叢書』『漱石全集』などを刊行。岩波文庫、岩波新書を発刊し「岩波文化」と呼ばれる出版文化をつくり上げた。昭和21年出版人として初の文化勲章受章。
真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。
(読書子に寄す——岩波文庫発刊に際して——)
大学卒業後、四年間の教員生活で求めた教育方針の理想と現実のギャップに疲れ、大正2年、32歳の時に神田南神保町で古本屋を始めたことと、翌年に夏目漱石の知遇を得て『こゝろ』の出版を手がけたことが岩波茂雄の生涯を決めた。昭和2年7月、岩波文庫発刊に際して三木清の草稿に岩波茂雄が手を入れてなった〈真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。〉という言葉は、いわゆる「岩波文化」といわれる出版文化事業を大きく育み推進していった。西田幾多郎、三木清、安倍能成、野上弥生子、和辻哲郎など岩波人脈は類を見ないが、20年9月、長男雄一郎の死を看取ってのち脳溢血の症状を呈するなど著しく衰えを見せ、翌年の4月25日、熱海惜櫟荘で再度の脳溢血を発病、午後10時40分、帰らぬ人となった。
岩波が葬儀委員長として西田幾多郎の墓所を決める時に東慶寺の墓地が気に入り、安倍能成と語らってあらかじめ確保しておいた杉木立の静寂にある墓所の、西田の左に岩波の葬儀委員長でもあった安倍、右に岩波の火輪を平らに幅を広げて地輪の高さを抑え低く安定した五輪塔墓碑。夕暮れ時、枯れ紅葉が散り乱れた苔生した広い暗がりの墓域に光明のような彩りの鮮やかな供花、塔の背後の石塀に嵌め込まれた石板に長男雄一郎と二男四女をもうけながらも別居生活が長かったという不仲の妻ヨシに挟まれた岩波茂雄の名が刻まれているのをみると、なぜか岩波書店創業30年を祝して高村光太郎が朗読した詩「三十年」の一節〈ただまつしぐらに必要をおふ この文化の猟夫は山を見ない。〉が思い起こされてくるのだった。また郷里の信州諏訪郡中洲村中金子の菩提寺小泉寺墓地には分骨が埋葬さたという。
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